白昼夢通信

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする……内に巣食う厭悪が人を取り殺すものならば、早く私自身だけを取り殺してくれればいい。生きながらえれば秘め損ねたこの厭悪は、他人を取り殺してしまいそうだから。……

 

 ☆

 

 くるみさん

 お元気ですか?*1 今日は、書けるかもしれないと思ったので、いつか書くつもりのあった、以前読んだ小説にまつわる話をします。小説そのものとはおおむね無関係に、例えば一語に触発されたような、小説のあたりにまさに纏わっているに過ぎない、私の想念の話ですけれど。いつも、人の言葉を借りては塗り籠めて、私のことをしか話せないおろかしさにぼんやりしてしまいます。

 ともあれ、しばしば思い出すのは次の場面です。

 その授業ではもう少し彼女と話す機会があり、先日、どうして眼鏡をかけないの? と聞くと、彼女は顔を上げて、たぶんはじめて、こちらの目を見ました。持ってるんだけど、と言いかけていったん言葉を切りました。

 ——わたしね、人間が鬼に見えるの。だからあんまりはっきり見たくなくて。

 こんな話、聞いても困るでしょう、と彼女は話を切り上げてしまったけれど、ほんとうはもっと聞きたかったのです。でもそれ以上追及することもできない気がして、今こうしてくるみさんへの手紙を書いています。*2

 私が他人の傷痕をなぞるようにしばしばこの場面を思い返すのは、「彼女」がこの告白をしたくなかっただろうと思ったからです。それは、鬼に見えているのだと告白することによって、くるみさんへの手紙を書いているこの語り手(澪という名だそうです)を傷つけるだろうと思ったからではありません。それよりも、この告白をすることは、相手が鬼ではなく人だと認めることで、つまり相手が鬼に見える自分が間違っていてその誤りの原因は自分にあるのだと認める(ここで「認める」という語に私は、認めた内容が真実だとか、信じられるだとかの含みをもたせていません)ことで、鬼の存在は自分がつくりだした虚妄だと認めることで、「彼女」が鬼に覚える恐怖などはまったく無根拠でむしろ相手が鬼に見えることを「彼女」のほうが相手に謝らないといけないくらいなのだと認めることではないかと、思ったからです。明らかに目の前にある事実を、自分の目のつくりだした虚妄だといつも否定して生きねばならないのは、苦しいことです。

 この印象は、先んじて「彼女」の別の機会の告白に触れたことによって、強まっているのかもしれません。のばらという名の「彼女」と思しき書き手が、鬼に見えない相手へする、うれしそうな告白。自分に見えるものを否定しなくてよい場所。

 あなたがあなたの秘密を話してくれたから、わたしもわたしの秘密を教えるね。わたし、人間が鬼に見えるの。そういう病気なの。だから人がたくさんいる講義とか怖くて出られなくて、何度も留年しちゃった。でも瑠璃さんは鬼に見えなかった。以上、です。わたしの秘密は。*3

 あの日、そんなふうにして迷い込んだ知らない街で偶然(はち)合わせしたとき、覚えてるかな、わたしを見るなり瑠璃さんが、逃げてるの? と聞いてくれたこと、それが一番驚きだったの。そんなことを聞いてくれた人はそれまでいなかったから。[中略]

 いまでも鬼は怖いけれど、瑠璃さんが船で海へと連れ出してくれたあの日以来、わたしはどこへでも行けて、逃げることもできるんだ、と思えるようになりました。折に触れて、そのときのことを思い出す。あなたが逃げるための翼を持っていることが、わたしにはうれしいの。*4

 実際、「白昼夢通信」というこの小説はほとんど、のばらと瑠璃の交わす手紙によって構成されていて、一通挟まれた澪の手紙がのばらに向けている関心は、のばらと瑠璃の物語になんら交わるところがありません。のばらが語る大学は、どんどん人が減って瑠璃とただ二人見下ろしたキャンパスで、そこに澪が認められることはありません。

 その交わらなさが、けれども安心のようなものを私にもたらすのは、還元されずに重なる世界像のどこかに、読者の居場所があるからかもしれません。読者は登場人物の敵かもしれなくて、私はのばらの敵かもしれなくて、手紙の正しく届くときには、野ばらと瑠璃の手紙は(もちろん澪の手紙だって)、私に見られるべきではありませんでした。けれどものばらと瑠璃の手紙も行き違わせるこの小説において、交わらなさは不具合ではなく本来です。そもそもこの手紙は、破られるところから始まるのですから。

すこし重たい銀のフォークを突き立てると、象牙(ぞうげ)色のミルフィーユの皮がぱりぱり(こわ)れて、古い手紙の束を破っているような背徳的な気持ちになりました。お手紙を書こうと思ったのは、そういうわけなの。*5

 澪に対する距離を、読者に対する距離を、冷淡にとるこの小説が、そうして設けてくれた澪という位置が、いつか運河になることも、あるのかもしれません。

*1:書簡体小説「白昼夢通信」において、澪からくるみさんに宛てられた文面は「元気にしていますか? こちらは元気です。」で、〈お〉が付きません。作中「お元気」という言葉を使っているのはのばらだけです。

[前略]私のはじめて活字になった小説「白昼夢通信」は、女性同士の手紙のやり取りから成っていて、「女性らしい」と言われるであろうような文体であえて書きました。

「往復書簡 山尾悠子×川野芽生」『短歌ムック ねむらない樹 vol. 7』2021年、140頁。

*2:川野芽生「白昼夢通信」『無垢なる花たちのためのユートピア東京創元社、2022年、121頁。

*3:同103頁。

*4:同118–119頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

*5:同99頁。

何らかの意味で悪である

()きにならなきゃいけないと(おも)ってつらかったんだね*1

 

 以前先達に、創作を続けてね、と言われたことがあり、あれはどういう趣旨だったのかと甘えた質問をしたことがある。覚えはないけれども私が人にそう言うなら、と前置いて、君は自分の作品に必ずしも価値を感じていないようだから、というのが答えだった*2。たしかに、私は私に強く愛着しているけれども、自身の感受や表現に価値があるとは、ゆえにあまり得心していない。理路は一貫しているつもりで、こうなる。1.ものはそれぞれに異なる。違わないものは違わないのだから違う二つのものとして存在しえない。2.ゆえに、ものの本質あるいは規定が他のものと共有されることはない。3.少なくとも(ひと)(よう)のものにとって、世界をいかに読むか、世界が自己においていかに表出するかは、自己の本質である。4.したがって、自己を規定するような表出感受は、自己を規定している以上、他者に共有されない。それを認めることに自己が依存するような本質的価値は、定義からして、他者に認められることがない*3

 別の言い方をすると、他者に認められうるのはかけがえのある価値であり、全てのものはかけがえがないから、全てのものは自身にとって本質的な価値を認められることがない*4

 いくらか補わねばならない。まず、作品が作者と別物であるにもかかわらず、ここまで、作者の本質と作品の本質の区別が曖昧ではないか。簡潔な一つの立場は、作者の本質とは無関係に作品の本質的価値を問題にするもので、この立場からは、作品を作者と結びつけ作者の将来の創作に期待する理由がない。より現実的には、作品は作者における表出感受となんらかの形で分かちがたく結びつくように思われる*5。というのも作者は単にその全てを造形せねばならないために、最も注意深い感受者と同程度に作品のあらゆる細部に直面することを強いられ、しかもかかる自身の感受にもとづき作品を操作しうるからである*6。穏当にまとめるなら、作者を含む感受者にとって問題になりうるのは作品の本質というより感受者において作品の本質として表出するものであり、そのいかに表出するかは感受者自身の本質だ、という辺りになるだろう*7

 ともあれ、作者は自身において作品にひとつの価値を認め、その価値が他者において認められることはない。他者が作品に価値を認めることはありうるが、その認められかたを作者が本質的だと感じることはできない*8。賞賛を的外れと見て喜ばない態度は他者を不快にさせるかもしれない。しかし、自身が参与しないなんらかの(場合によっては偏狭な)価値観に沿うものとして自身の作品が認められ称揚されたとき、その賞賛を快く容れるべきだという見解もまた疑わしい。

 明らかに手つかずの、より重要な補説がある。私にとって本質的な価値は、少なくとも私に認められているのだから、他者に認められなくとも価値として不足がないのではないか。私の異見はここまでの道行に外れている感もあるが、さしあたり二点から表される*9

 第一に、ひとりがしか認めない価値をただそれゆえに価値として認めて臆しない者は、その破壊的な影響を過少に見積もっているように思われる。ひとりがしか認めない価値は、他者にとって大きな害でないこともありうるかもしれないが、存在者の少なくなさを踏まえれば確実にそのなかに、破壊的な視座をも含むことになる*10。粗雑にたとえれば殺生嗜好のような自己表現だ。

 第二に、少なくともと述べた期待は過剰でないのだろうか。自身を規定するような感受、というより大半の感受は、平板であるとは考えにくい。感受者がその感受にどこまで意識的でいるかは疑問だし、意識しているとすれば、その感受を対象にした感受もまた発生しているだろう。このとき感受者が、意識された自身における表出感受に必ずしも好意的である謂れはない。第一の異見にもあるいは影響されながら、その評価には陰翳がはびこるように思われる。

*1:仲谷鳰やがて君になる』1巻、KADOKAWA電撃コミックスNEXT、2015年初版・2016年9版、35頁。

*2:おそらくこのとき先達は、別の場で私がした特定の作品についての発言を念頭においていたと思うから、本当は「価値」及びその「価値を感じていない」素振りとして語が喚起するよりかなり特定の方向が想定されており、意図を解するにもその具体を踏まえる必要があるのだろうけれども、いまは立ち入らない。

*3:この道行のひとつの奇妙な軸は、ものの不変性、不可侵性(プライバシー)に対する執着だろう。ものが二つ以上存在しているということに私は拘泥しているように思われる。以前十の本を並べたときも、せっかくの十冊は単調にも、おそらく相互に独立でないただ二つの主題の表れに過ぎなかった。すなわち、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」、『あらすじで読む日本の仏様』、「パルタイ」、『古都』、『日本幻想文学集成16』、「美と弁証法」は言葉=二重性(ドッペルゲンガー)の主題に、『学習漫画世界の歴史11』、『ディスコ探偵水曜日』、『隷属への道』、『楽園の知恵あるいはヒステリーの歴史』はクロムウェルの主題——いわば、個人の構え(フィクション)の原理的な非公共善性——に、位置づけられる。

*4:価値とは、同語反復的だが、よさやわるさであり、よいものやわるいものをそのよさやわるさに注目しながら呼ぶときの呼び方である。「本質的価値」は「本質」と同じものを指しており、ただそのよさやわるさへの注目をともなうときの呼び方である。価値は当然、なににとってよいのかという評価の視座を論点として孕む。しかし同時に、なににとってのという限定を省いた「価値」という語単独の通用には、個別の視座を超えた一般的な理解可能性への気配がある。いずれにせよ、認められることのない(認める視座のない)価値は形容矛盾といえるだろう。四点つけくわえる。一つ目に、特にわるいという語が誤解されるかもしれないが、よさやわるさはいわゆる倫理的な側面からの判断に局限されているわけではない。二つ目に、「評価」とか「認める」とかいうときに、意識的に行われている必要はない。「感受」という言い換えはそのことを示している。三つ目に、どうやら私は、評価を伴わない感受の存在をあまり想定していない。別の言い方をすると、よくもわるくもないものをあまり想定していない。おそらく快不快という語にとりかえることで、それを全く伴わない感受が思い描きづらいことは共感されやすくなるのかもしれない。とはいえ快不快という語にも、集団と結びつきづらかったり、選択が可能であることを超えた計量的比較の可能性と結びつけられたりする難点がある。ところで、よさとわるさは一つの対立軸に還元されるのだろうか。四つ目に、これは余談だけれど、何がよいかという価値観については多様性が想定される傾向にあるのに比して、よいものをどう扱うのがよいかすなわち好意や尊重の作法については、一様に想定される傾向があるかもしれない。

*5:

 ですがそれは、作家が何を考えていようと小説にはいっさい反映されないということではありません。私が思うにという範囲の事ではありますが、小説を書く上ではおそらく、この世をどういう場所だと思っているのかは、偽ることができない。この世はしょせん堕落が蔓延するだけの場所だと解しているのか、世界は理想に向かって進歩し続けると信じているのか、人間の本性は善だと思っているのか、それとも人間は一皮むけばどいつもこいつも醜悪だと考えているのか、そしてもっと複雑で全体的な「この世の見方」、いわばその人の哲学を偽って小説を書くことはできない——私はそう思っています。

米澤穂信『米澤屋書店』文藝春秋、2021年、27頁。なお「より正確には、やってやれないことはないけれど小説が薄っぺらくなると思っています。」と注記がある。

*6:しかし作品の細部と作者の関係についてのこの記述は、少なくとも例えば産業アニメーションにおけるような集団制作や、実写映画におけるようないわば現実世界の流用には、即応しないようでもある。

*7:この道筋において、感受者が作者である必要はない。むしろ、自身が創作したわけではない多くの作品の感受者における表出が、かけがえのない価値を体現しながら感受者の規定であるだろう。そしてその感受、その人を規定する評価、ときにその人の愛と呼ばれるものが——この記事でなされた多くの引用がそうありうるように——同じ作品の各自における表出に支えられている作者その他の感受者にとって、許しえない脅かしであるかもしれない。もちろん感受の対象は作者の存在しないようなものでも構わない。私の鼻先でしきりに踊っているものを、きっと次の疑問にまとめてよい。すなわち、私を支えるような表出感受は何らかの意味で悪である蓋然性が高いとして、どうか。

*8:しかし私はこう書くことで、共有を信じたことがあるとかつて書いたときよりも、知的に後退しているような気がする。表現者は、表現を他者に開示している限り、自身の表現に価値があり、かつ、その価値は一部の者に理解される可能性がある、と信じているべきではないか。次に部分を引用する表現者のために、抽象的なことを|山口尚は、現実の適切な記述であると同時に、いみじくも「共有されるべき」と冒頭にあるとおり、規範性を有するように思われる。

じつに、自分の活動をわがことのように「喜んで」くれる鑑賞者が現れてくれば、表現活動はいよいよ「自分だけのもの」ではなくなる。それは、個人的なことに尽きず、自己を超えた何かしらの価値への貢献のベクトルも得るのである。

*9:どうあるべきと感じているのかという問いを含めて、なにがしかについてどうあると感じているのかという問いは、ひとまずは当為ではなく私の事実に関する問いである。当為の一貫した規範ではなく事実の一貫した説明に関心がある場合、一見したところの不整合は道行の()()りであり、親愛を抱けないときでさえ、解消を焦って整合しない項のひとつを排除するよりは、むしろ思索の浅瀬にとどまることで不整合を保持するほうがよいようだ。保持できていれば体調のよい日には手繰れるかもしれないし、仮に、規範を知るべく努めない時間はその分だけ(まさ)に為すべきを為さない罪を生むから規範の探究には猶予が許されないとしても、事実の説明については探究を危うく急かされる理由はないからだ。

*10:ライプニッツはこの問題に恐ろしい答えを与えている。フランクリン・パーキンズ=著、梅原宏司/川口典成=訳『知の教科書 ライプニッツ講談社選書メチエ、2015年、94頁。

 要約しよう。何ものかが現実に存在しているのだから、存在しないことより存在することのほうが完全である。神は最も完全なことを行ったのだから、神は可能なかぎり多くのものを創造しなければならない。矛盾しないものはすべて可能である。それゆえ、神は最も多くの事物が矛盾なしに存在する世界を創造する。これは、可能な限り秩序づけられた世界を必要とする。完全性は、最大の多様性と、最大の秩序を要求する。

 可能なものは等しく現実に存在することを志向する。矛盾するもの同士はつばぜり合って、多くと共在可能なものがその現実存在を確かにし、可能なうちで最も存在に満ちた豊かな世界が実現する。現実存在するほどのものはみな相互に破壊的ではない。共在不可能なものは、あらかじめ私たちにその現実存在を圧死させられているから。

受粉の季節

 受粉の季節がやってきて、もちろん他の時期にもそれぞれ受粉をする多くの植物がいるのだろうけれど、私に感受できるのは大半この頃に飛ぶ花粉らしい。植物は交接のため突端に粉を生じ、気流に乗せて頒布する。浮遊のはて、仲間の花に吸着すれば交わり子を殖やす。仲間の花に到り着くとは限らない。たとえば私の皮膜を覆う粘液の層に着水する。

 たとえば私の眼球に吸着し、爆ぜる。私の眼は仲間の花ではなく、かまわず逸る粉に抉られた微小な部分は受粉により、形を成さない水へ崩れる。風に乗る粉は軽く、ために小さい。接するまで私には認められず、どころか接してもおそらくそれ自体では感受できない。抉られの重なるうちにようやく花粉と気づく。眼蓋(まなぶた)(あい)にうすくはる垂直の水が次第に湧いて、目尻に滲み、ひと時、窪とめくれあがった角質の拡大された像が二三視野に重なる。眼だった部分は(なり)におくれて機能も失い、頬を伝うころには像は加速度的にぼやけ、滑りあがりながら消えていく。それより早く追撃は十もあり、(はだえ)や空気の像が入り乱れる。その()の像も損耗を受けてわずかに乱れ始めており、私はほとんど義務的に杖に縋って、心に留めていた道端の腰掛け椅子へ足を向ける。

 急に祖父のことを思い出す。祖父だと思っていた人のこと。「鶏の卵にゃ雛が入ってる。煩わしいだろ。そこに花粉を注いでやれば、融けてなくなるわけさ。清潔な卵はこうしてできてる。」声は近づき、鼻腔に香ばしく焼けた匂いが広がる。眼窩に流すものがなくなり泣けなくなっている私のまえに、ごとんと置かれる。「食べな。眼が早く戻る。」

張り出し塔で耳は(ディラン・トマス)

EARS IN the turrets hear

Hands grumble on the door,

Eyes in the gables see

The fingers at the locks.

Shall I unbolt or stay

Alone till the day I die

Unseen by stranger-eyes

In this white house?

Hands, hold you poison or grapes?

 

Beyond this island bound

By a thin sea of flesh

And a bone coast,

The land lies out of sound

And the hills out of mind.

No birds or flying fish

Disturbs this island's rest.

 

Ears in this island hear

The wind pass like a fire,

Eyes in this island see

Ships anchor off the bay.

Shall I run to the ships

With the wind in my hair,

Or stay till the day I die

And welcome no sailor?

Ships, hold you poison or grapes?

 

Hands grumble on the door,

Ships anchor off the bay,

Rain beats the sand and slates.

Shall I let in the stranger,

Shall I welcome the sailor,

Or stay till the day I die?

 

Hands of the stranger and holds of the ships,

Hold you poison or grapes?*1

 

張り出し塔で耳は

手が扉にうなるのを聞く、

切妻壁で目は

錠にからむ指を見る。

鍵を開けようか、それとも

この白い家のなか

よそ者の目に見られず

死ぬ日までひとりとどまるべきかな。

あの手が抱いているのは毒かな、ぶどうかな。

 

肉のうすい海と

骨の岸にとじられた

この島の彼方で、

陸地は音のそとに

丘は心のそとに横たわる。

鳥も飛び魚も、一羽たりと

この島のやすみを乱さない。

 

この島で耳は

風が火のように通るのを聞く、

この島で目は

船々が入り江の沖に泊まるのを見る。

風を髪にはらみ

あの船へ駆けていこうか、

それとも一人の水夫も迎えいれず

死ぬ日までとどまるべきかな。

あの船が抱いているのは毒かな、ぶどうかな。

 

手が扉にうなる、

船々が入り江の沖に泊まる、

雨が砂地と板岩を打つ。

あのよそ者を通そうか、

水夫を迎えいれようか、

それとも死ぬ日までとどまるべきかな。

 

よそ者の手と船の荷倉、

おまえたちが抱いているのは毒かな、ぶどうかな。

*1:Thomas, Dylan. Collected Poems 1934–1952. J. M. Dent & Sons, 1952. pp. 58–59.

詞華集3

 神とか信仰について語る資格が私に与えられているか知らないが、私がいつもあたたかに思い返すのは次の挿話だ。

これは、ペルシア戦争のときに、ペルシア軍の侵入を危惧するデルフォイの人々に対して、神託が答えたことと一致している。デルフォイの住民は、神殿の宝物をどうしたらいいのか、隠すべきなのか、それとも、どこかに持ち出すべきなのか、お伺いを立てたのだった。すると神は、「なにも動かす必要はない。おまえたちのことだけ心配していればいいのだ。わたし自身のことについては、わたしだけで十分に、必要なことを講じることができるのだから」と、答えたという。*1

 これが神のありかたについての話ということになるだろう。そして、両者の関係はともかく生き物の側の生きかたとしては、ディラン・トマスが定本詩集に寄せた端書きの末文が心にある。私は彼の詩をほとんど読めていないが、この言葉は完璧で、以前あとがきというものを考えたときに、言うべきことはここにまとまっていると思った(私の若さからくる過信でないとよい)。

 どこかで読んだのだが、ある羊飼いが、なぜ茸の輪のなかから、群れを守るため月へ向かって仕来たりどおりのまじないを行うのか聞かれて、「やらなかったら糞馬鹿だよ!」と返したという。ここに収めた詩は、多くの無作法や疑い、混乱を伴いながらもやはり、人間への愛と神への賞賛から書かれたもので、そうやって書かないとしたら私は糞馬鹿である。

  I read somewhere of a shepherd who, when asked why he made, from within fairy rings, ritual observances to the moon to protect his flocks, replied: 'I'd be a damn' fool if I didn't!' These poems, with all their crudities, doubts, and confusions, are written for the love of Man and in praise of God, and I'd be a damn' fool if they weren't.*2

 次の記事にはディラン・トマスのとてもナイーヴな詩を載せる。それでこの端書きの話をした。

*1:ミシェル・ド・モンテーニュ=著、宮下志朗=訳「第一巻 第二二章 習慣について。容認されている法律を安易に変えないことについて」『エセー 1』白水社、2005年、197頁。省略した訳注によれば、この挿話の出典はヘロドトス『歴史』サリア訳の八の三六。

*2:Thomas, Dylan. Collected Poems 1934–1952. J. M. Dent & Sons, 1952, p. ii. 和訳は引用者による。

五七五2

魂に絶縁状のフオウマツト

左目が肉はないのに羽ばたくよ

くちなはの口が目玉の速射砲

脳の奥を頻りにさぐる鉤爪がある

些細な風に散る雪は脆き数珠

引き出だせばふるへてひかる踊り食ふ

くちびるを尖らせて吐いた薄字を固定

橋といふ闊歩されゐるアイライン

「しるし」あとブニュエル

 楽曲を聴きながら清酒を飲んでいる。

 しばしばRYUTist「しるし」(作詞・作曲・編曲=パソコン音楽クラブ)を聴いている。こういう言い方はそれまでの時間を待機にしてしまうようで紹介とするには不適切なのだけど、特に全体4分のうち2分7秒頃から始まるなんというか、「いーま~(タタタン(こむだん) ()タタタン(んこむだ)() はーあ()タタン(こむだん) タタタン(こんとん)    (とんとん)ひ・か・り)~ ああああーあーああああ()ラララタララタララタララタラターラー  (フヨッ)こ・(シャン)れ・か・(シャン)ら・だ  (ピヤアアアア)アアアア こ・(シャン)れ・か・(シャン)ら・ずっ・(ピヤア)と・(ピヤア)ひ・(ヤアア)か・(ヤアア)(シャン)()ル・ルールートゥ~ (タンタンタンタンタンタンタンタンタンタンタン  (トゥー) …あーさー」ともいうべき一連(シークエンス)に昇天するような幸福感を覚える。人体の空洞からきれいな音が出ているのはいいものだが、それが機器の澄んだ音と完全に響き合っているのに感動するのだろうか。関係ないかもしれない。とにかく思い出すのは、ルイス・ブニュエルの監督した映画『昼顔』のラスト、これはネタバレだが、女主人公に突如祝福が与えられるときの音響である。台詞も理路も超え音により、破局を覚悟していた私たちに突然の恩寵がもたらされるのだが、私を打ちのめしたことに、そこには純粋な音として猫の声が入れられているのだった*1。純粋なと言ったのはつまり、場面に猫がいるわけでも、先立って物語に猫が登場していたわけでもない。ただ祝福の音として鈴の音とともに猫の声が降り注ぐ。救いの時にあっては、(なにしろ救いの時なのだから)猫がいなくても猫の声が鳴り、猫の付属の地位から解放されて自由を謳ってみせるのだ*2。いつか私にも、もう耐えられないという極点で突如猫なしの猫の声が降り注ぎ、世界なしの私になった私を乗せた馬車が鈴の音にまみれながら飛び去るだろう。……実にその姿は、『二重人格』と見分けがつかない。

 

【3月18日追記:この記事の題名はちょっと酷いが、代案を思いつかないのでそのままにする。】

【4月2月追記:記事の題名を「音」から変更した。】

*1:ただしトマス・ベレス・トレント/ホセ・デ・ラ・コリーナ=著、岩崎清=訳『INTERVIEW ルイス・ブニュエル 公開禁止令』(フィルムアート社、1990年)掲載の梗概(シノプシス)では「赤ん坊の泣き声」とされている(291頁)。そうなのかもしれない。しかし私の生がブニュエルに祝福されたもうひとつの場面、これも本当は事前に言わない方がいいだろうが『欲望のあいまいな対象』の豚のことを思えば、どちらでも同じだと言いたい気もする。なお訳者あとがきによれば、同書掲載の梗概は和訳にあたり木幡久美と西村安弘が書き下ろしたもの(357頁)。

*2:

 授業でも、普通の高校だと「倫理」という科目があると思うんですけど、それにあたる科目が「仏教」で、親鸞の勉強を三年間しましたね。

 その授業の時、仏教の教典のひとつに『無量寿経(むりょうじゅきょう)』というものがあることを知りました。その一節に、「西方極楽浄土は宝石でできている」と書いてあるんですよ。極楽浄土の地は宝石でできているらしいんです。

[中略]

 そのお経を高校在学中ずっと読まさているうちに、「極楽」と言われる“すべてのもの”が助かるような所でも、宝石は装飾にしかならないんだなとぼんやり思いました。

市川春子『宝石の国』についてのインタビューのアーカイブより。角括弧[]部分は引用者による注記。「読まさて」は原文どおりで〈読まされて〉の脱字と思われる。