本当は手紙ではなく

 前回の記事で私は、文章をインターネット上に公開することを、「不特定の他者に読まれる可能性を確保する」行為だと述べた。また、このブログの文章はなにより私自身のために書かれるとも述べた。

 文章や作品を不特定の他者にむけて発信する行為は、とりわけその文章や作品に込められたメッセージが発信者自身にとって大切で繊細なものであるとき、しばしばボトルメールに喩えられる*1。インターネット上への投稿もそうだし、作家が作品を市場に出す際の心持ちもそのように形容されることがある。

〈顔も知らない、いつどこの人とも分からない、けれども私自身と同じようにこのメッセージを必要としている人がきっといる。だからメッセージをボトルに詰めて、宛先もなく海へ流しましょう。漂流のはて、その人たちの岸に届くことを願って。一人にでも伝わってくれるなら。そして私たちが、メッセージをともに胸に抱いて生きていけるなら──〉

 発信者と受信者がその切実で繊細なメッセージを過たず共有できたなら、とても素敵なことだ。私もこれまで一度、共有を信じられる経験をしたことがある。

 けれども私自身が執着しているのは、ボトルメールの別の側面だ。

 ボトルメールが流れついた浜の人は、きっとたいていの場合別の言語を用いていて、何が書かれているか読めないに違いない。あるいは文字という概念も知らなくて、ただ紙に描かれた不可解な模様にしか見えない。それとも人為とさえ気づかず、ただの染みと判断する。

 だとしたら、私の書いた手紙は、絵だか染みだかだと思われて、誰にも伝わらない。

 別に構わない。残念だがよくあることだ。それに本当に誰にも伝わらなかったかは知りようがない。届いた相手は必ずしも発信者に分かる形で反応を示すわけではないし、手紙は発信者の死後も海を漂い得るから、発信者のあずかり知らぬところで誰かに届く可能性は残りつづける。実のところ、手紙を海に流す者は多かれ少なかれ、無限の未来が示すこの救済の可能性への信仰をもっているのではないかと思う。

 私が気になっているのはどちらかといえば、私に届いた手紙のことだ。岸辺の私が後生大事に握りしめ、海の彼方に私と似姿の送り主を思い描いて支えにしてきた手紙は、本当は手紙ではなかったりしないだろうか。絵や染みを文字と思い込んで解読した狂人がいるだけだったりはしないだろうか。

 ここで、そうどうせ誰とも何も分かりあえないんだ、とやたらに嘆いてみせる人を、私は重大に取り扱う気が起きない。伝わらないことが問題になるのは何かを伝えたいという前提があってのことだ。伝わらないということばかり大仰に喧伝されると、それであなたは伝えるほどの何かをもっているのかと、これは同族嫌悪かもしれないが、思う。手紙の中身に触れずに手紙そのものばかり話題にしてしまうのは、メタ視点に立った知的振る舞いというより、単にやぎさん郵便*2じみた滑稽な手癖に過ぎない。

 他方で、極論はともかく大体伝わると主張したり、誤読の創造性を楽天的に肯定したりするのも、私のとる道ではない。私自身手癖をもち、それに執着してきたのだ。他人はどうあれ自分の姿勢としては、今は体感上肯んずることができない。

 別の問題として、中途半端に伝わるほうが厄介だということもありうる。猫の愛らしさへの賛歌だと思って口ずさんでいたら邪神召喚の呪文でないとも限らない。

 ともあれ、私はこの問題に執着しつづけてきたし、これからもしつづけるだろう。それを抱えつづけた先に何かがありはしないか、と期待している。

*1:なお、発信者は常に作品にメッセージを込めている、と言いたいわけではない。

*2:まど・みちお作詞の童謡「やぎさんゆうびん」。