『かぐや姫の物語』歌の記憶について

 前回の記事を書いたあとで、高畑勲監督による2013年公開*1のアニメ映画『かぐや姫の物語』のことを思い出していた。この映画については一つ、大筋には関係ないが奇妙な点が印象に残っていたのだ。

 竹取物語を翻案したこの映画では、一つの歌の記憶が語られる。地上に転生した主人公タケノコ(のちのかぐや姫)は、里のわらべ唄を聞いて、なぜか自分がそれと重なる、出処のわからない歌を知っていることに気づく。物語終盤、かぐや姫はその地上の歌をいつ知ったのか、記憶を取りもどす。転生以前に月で、地上から戻った天女が口ずさんでいるのを聞いたのだ。そしてこの歌を聞いたことこそ、かぐや姫が地上に行きたいと願うきっかけとなったのだという。

 しかし奇妙なのは、かぐや姫自身の帰還に際して語られるとおり、月へ帰る者は地上の記憶を失うとされていることである。天女が地上の歌を帰還後の月の世界で口ずさむのは、この設定と明らかに矛盾している。なぜ天女は、地上の歌の記憶を月世界に持ち帰ることができたのだろう。

 私自身の考えをいえば、それはきっと、歌が内実とは別に形式に重きを置くからではないかと思う。前回の記事の言い方を借りれば、〈手紙の中身よりも、手紙であることが問題とされる〉ものだからではないか。

 映画においては、帰還者は天の羽衣を着せられることで〈地上の記憶〉を失う、とされる。原作の竹取物語では、違った表現になっている。羽衣を着た人は、「心異(こころこと)にな」り「物思ひなくな」るのだという*2。おそらく竹取物語においては、記憶は保たれたまま、それに反応し揺らぐ心情がなくなる。まさに〈無情〉な美しさをもった設定だ。

 この原作の表現を、映画の理解に送り返してみよう。事象を理解体得し反応するということがない、死んだように凪いだ内面、いやむしろ内面の不在。そのような者にとって、いかなる過去の事象も、自らの身に起こったこととして追体験することはできない。それはまさに、記憶の死と呼べる事態だ*3。事象に意義を与えるのは、その事象にある位置をとって対峙する人間であって、そういう主体の存しないところに、さかのぼるべき意義をもった記憶は存在しない。そしてとにもかくにも現に在る事象とちがって、主体がさかのぼる可能性によってはじめて成立する過去は、意義を欠いたとき無意義にあるのではなく、単に無い。

 内実を欠いた記憶は、想起できない。だから天の羽衣により心なき身とされた天女は、地上の記憶を失う。ただ、そこに例外があった。記憶を言語的に再生するとき、内容と形式が一体となっている散文的記憶は、内容(主体にとっての意義あるいは内実)をもたない限り想起されない。でも韻文は、再生される意義を欠いたまま再生してしまい得る。

 詩はしばしば、理路を超えて情感を共有すべく言葉を最上に機能させたものだと見なされているから、無情と詩をつなげることは意外に思われるかもしれない。けれども、意味を理解しないまま再生したり、そもそも意味のないことを述べたりがしやすいのは、はっきりと韻文の性質である。たとえば春の七草を並べただけの短歌*4を考えてほしい。これら植物がどんなものなのか一つも知らず、また七草がゆを作ることもなく、私の人生においてついぞ意義をもたなかったとしても、何ら心を揺るがすことのないままこの歌を諳んじることはできる。

 おそらく天女はしんと波一つ立たぬ心のまま、無感動に歌をくりかえしたのだ。歌は内実を失い、自覚ある差出人も文面ももたぬ、ただ形だけがある手紙として月の海を漂ったのだ。そしてたまたま受け取ったかぐや姫が、その手紙の不在の内容を〈解読〉してしまったのだ。

 私は『かぐや姫の物語』をそう解読している。言葉はそういうものでしかなく、しかしそういうことができる、のだと思っている*5

*1:私自身が観たのは劇場公開の数年後だったと思う。

*2:角川書店=編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 竹取物語(全)』角川ソフィア文庫、2001年初版発行・2019年41版発行、227頁および232頁。

*3:「その時間では過去であるものに我々が戻るならばそれが現在であってそこでも時間が刻々にたって行って自分がそこにいることを確認するのが有効な記憶、有効に思い出すということである。ロアル河を舟で下っていて日光の反射で真白に見える小波が舷を過ぎて行ったのでなくて現に自分がロアル河を舟で下っていて真白に見える小波が舷を過ぎて行くのである。又もしそうでないならば我々は何も思い出していないのでロアル河は地名であるに止る。」吉田健一『時間』講談社文芸文庫、1998年、22頁。

*4:〈せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。春の七草。〉

*5:これは確かに私の正直な言語観だと思うのだが、しかし本当にその言語観に殉じる覚悟があるのか、軽薄な居直りに過ぎないのではないかという疑いもずっとある。私は対峙し意義を語れる主体をほとんどもっておらず、それは倫理的な責務を差し引いても、社会性の不足だ。私の手元には本文2ページ目にこんなことが書いてある小説があり、もう半年の間、怖くて読み進められずにいる。

「必ずしもちゃんと理解しているわけではない言葉を使うことは、もはや犯罪である、と劉怡婷は何年もたってからようやく知ることになる。心に愛のない人間が、「愛しているよ」と言うのと同じ。」林奕含、泉京鹿=訳『房思琪の初恋の楽園』白水社、2019年、12頁。