あいみょん「マリーゴールド」視点人物と歌手のジェンダー

まずは自分語り

 あいみょんの歌「マリーゴールド」を私がちゃんと聴いたのは2019年夏のことだったと思う。いま調べたら2018年にこの歌は、毎年末に放送される国民的歌番組である「NHK紅白歌合戦」において歌唱されていたそうで、それからすでに半年も経っていたわけだ。たしか中森明菜が出るというので少しだけ見ようか迷って結局見なかったんだっけ、と思ってさらに調べるとそれは2014年だったらしく、我ながら記憶の曖昧さがひどい。最近ほのかに後悔を覚えつつもおそらく怠惰ゆえに改善されることはないのだが、私はもう長いこと紅白歌合戦に触れていないのだ。

 同じ怠惰ゆえによく知らなかったのだが周囲の話から察するに、あいみょんという名前はどうも、当時若者にひろく共有されている個人のJ-POPアーティスト名として、ほとんど米津玄師とただふたつ屹立している存在であるらしかった*1。そういえばわたしの、片手で数えられるほどしかないカラオケ体験においても、彼女の「マリーゴールド」と米津の「Lemon」は歌われていた*2。ならば一般教養として、気が向いたときに聴いておくのがよいだろう。

 そういうわけで、なにか適当な音楽を流したくなったある折、あいみょんマリーゴールド」を聴いた。流して聴いていたら、認識が遅れてついてきた。ちょっと驚いて、私が驚いたころにはすでに終わりに差しかかっていたその歌を、終わったあとではじめからもう一度、今度は歌詞を見ながらよく聴いた。

 この歌、男性視点?

 

そもそも男性視点の歌なのか

 冷静に検討すると、私がこの歌を〈男性視点の歌詞〉と判断した所以はどうやら具体的に特定できた。

「もう離れないで」と 泣きそうな目で見つめる君を

雲のような優しさでそっとぎゅっと 抱きしめて 抱きしめて離さない

事実としてあるのはこれだけである。ここにわざわざ私は性別を読みこんだわけだ。

 歌詞全体から判断して*3モノアモリー*4的恋人関係にあるらしい二者がいる。「ぎゅっと抱きしめ」るという行為において、語り手の能動性と「君」の受動性、そして「泣きそうな目で見つめ」ながら懇願してくる「君」のかよわさ、が提供される。二者関係におけるこの役配置から、私はジェンダーをひっぱりだし、二者が異性愛関係にあるという前提のもと、語り手=男、「君」=女、という属性を読みこんだ。

 その解釈は正しいの、と詰められれば苦しい。解釈とは一般にそういう面があるが、ジェンダー的事象を論じることで浮かびあがるのはしばしば、論じられる対象よりも論者自身のジェンダー観だ。それなりの質問調査アンケートでもとらないと、「マリーゴールド」享受の社会的実態として妥当な理解かは示せないだろう。一応傍証として、「あいみょんの曲には男性目線のものが多い」ということが、たとえばシングル「愛を伝えたいだとか」の2017年5月発売にあわせたインタビューでも共通見解にはなっている。もっともこのインタビューは当然、2018年8月発売の「マリーゴールド」を念頭においてはいないのだが。

 ただ当ブログは一般にかなりの蛮勇をふるって持論を展開するので、読者は真に受ける必要はないという前提で、このまま話を進める。何しろ次節ではさらに進んで、「マリーゴールド」の歌詞がJ-POPとしていかなる革新性を有しているか論じようというのだ。本記事冒頭からも分かるとおり、私は日本のポピュラー・ミュージックについてまともに知らない。誤りは教えてほしい。

 

男性視点の歌だとして、何に驚いたのか

 あいみょんは女性歌手であり*5、彼女が歌う「マリーゴールド」の歌詞の語り手が男性だととれるとして、それだけで私は驚いたのか。

 女性が男性視点の詞を歌うなんて今やありふれている、と思うかもしれない。しかし思い返してみると、女性歌手が歌っているのが〈男性視点の歌詞〉だと私たちが判断するのはもっぱら、歌詞の語り手が〈僕〉という一人称を用いているときではないだろうか(既述のとおり、真に受けず異論は唱えてほしい)。実は「マリーゴールド」の歌詞には、語り手の一人称が出てこないのだ。

 要するに私は、〈女性が男性視点の歌を歌うには一人称〈僕〉等による男性性のキャラづけがほぼ必須であり〉〈むしろ〈僕〉と歌うだけでは不足ですらある〉という状況認識のもと、〈女性J-POP歌手の歌った、ことさらに語り手の男性性を強調しない詞が、しかし男性視点の詞と抵抗なく認識され、なんら革新性を語られることもなく広く流通している〉ことに驚いたのだ。さらに一般化すれば、〈一人称が登場しないほどにペルソナとしての独立性を一見強調されていない語り手が、しかし自然に歌手と切り離されていること〉に驚いたのだといえる*6

 いきものがかり「YELL」や欅坂46「黒い羊」*7など、今日女性歌手が〈僕〉を用いる例はおそらくたくさんある。ただし私自身の感覚からいえばまず、とりわけ歌詞においては、〈僕〉を用いるからといって語り手が男性であるとは限らない。旧来の拘束が弱まりつつジェンダー規範が再編されている状態において、女性主体が青年期らしい活発や内省を自然に表現するための手っ取り早い方法として、一人称〈僕〉が機能している面があったと思う。いわば語り手が〈女性〉〈少女〉であるより〈女子〉であることによって、男女をさほど問われず思春期の共感を喚起するのである*8。男女が逆転した例として、米津玄師「Lemon」が用いる一人称〈わたし〉も、これと並行に考えられるかもしれない*9

 反対に語り手が本当に男性として設定されていた場合、ほぼ確実に〈僕〉(に限らないが、男性であることの明示)が必要になるのではないかと思う。男性の語り手とその演者たる女性歌手を切り離すべく、語り手のペルソナとしての存在感を強める必要があるからだ。いわゆる〈キャラづけ〉である。語り手がニュートラルな存在であることをやめ、露骨に属性を付与されればされるほど、語り手は詞世界のペルソナとして、現実世界の演者から自立する。別の言い方をすれば演者は語り手を戯画化し、客体化していく*10。有名J-POPの例が思いつかないので私の趣味からの例示になってしまうが、たとえば谷山浩子カイの迷宮」があげられる。また同列に扱ってよいか分からないが、男性歌手が女性視点の詞を歌う例として、ポルノグラフィティサウダージ」があげられる。こちらでは「女」であることを明記し、また「生きたわ」という語尾でも強調している。戯画的なまでに特徴を鮮明にすることで、語り手はペルソナとして自立することが可能となる。

 そして、一人称の付与は、ペルソナとして自立させるためのもっとも基本的な手法と考えられる。ひとつには、日本語は複数の一人称をもち、そのいずれを選ぶかによって属性を付与することができるからだ。そしてさらにいえば、そもそも代名詞という形で指し示すことによって、それをひとつの塊として自立させ、客体化することが可能になるからだ。

 

終わりに

 ここまで来てようやく、自分が何に驚いたのかよく分からなかった私は、事態を把握することができた。

 あいみょんマリーゴールド」は、一人称も使用しないまま、詞の語り手として歌手から自立したジェンダーのペルソナを、いつの間にか私のうちに立ちあげてみせた。そのことに、如上の見解をもった私は驚いたのだ*11

 さて、この分析はどの程度受け入れられるのだろう。普遍性をもたない筆者の醜悪な鏡像として打ち捨てられるのか。私自身としては、詞の語り手と歌手の関係を論じた部分はかなり面白いつもりなのだけれど。

 仮に受け入れられたとして、ではかかる芸当がどのように可能になったのか(どのような場合にはうまくいかないのか)を全く論じることができていないのは大きな欠陥である。私は詞の解釈に終始したが、この点には声質・歌い方が無視できない影響を及ぼすのではないかという気もする。

 

追記

 この記事を書き終えてから、五年も前に書かれた三上春海「毎日がケーキ」を発見してしまい、笑っている。どうやら、短歌について注6で私が示したのと重なるアイデアが、すでに提示されている。きちんと読解できていないが、三上のいう「文体の歌声」が、私が注6で示唆した「キャラ」(というよりむしろ、〈内包された語り手〉)にある程度対応するのではないかと思う。

【2021年1月31日追記:キャラクター論の短歌への適用について述べた文章として、土岐友浩による2017年の記事を発見した。紹介されている大塚英志の議論は伊藤によるキャラとキャラクターの区別を共有していないようだが、大塚は伊藤が参考にしている論者の一人である。

第43回 大塚英志『キャラクター小説の作り方』 - 短歌のピーナツ

*1:なおこの二人の前の存在として私が認識していたのは、きゃりーぱみゅぱみゅである。

*2:あと「打上花火」も歌われていたのだが、これは二人の歌手によって歌われるので、〈米津玄師の歌〉として並列してよいのか分からない。

*3:やや話がそれるがこの歌は、歌詞が示す状況がどのようなものなのか明快でない(明快にしようとしていない)気がする。とりわけ「あれは空がまだ青い夏のこと 懐かしいと笑えたあの日の恋」という回想をどう処理すべきか若干戸惑うところだ。私はさしあたり、かつて恋人関係にあった二人が一旦「離れ」たのち再び結ばれたものかと解釈しているが、この場合語りの現在時点は「夏」ではないのだろうか。それとも、大気汚染等によって現在時点の夏は空が白っぽくなり、〈もう青くない〉のだろうか。

*4:結婚しているとは限らない恋愛関係を指したかったので「一夫一婦制」「単婚」ではいけなくて、「排他的恋愛関係」「双務的最恵人待遇」などの説明もいやらしいかと思ったので、ポリアモリーの対義語としてのモノアモリーを用いたけれど、問題なく通じる用語なのかちょっと自信がない。

*5:先のインタビューに言及がある。

*6:ここで私自身が行っている、歌手と歌詞の語り手(の、ジェンダー等の属性)を同一視しあるいは切り離す作業の不思議については、現代短歌では〈私性〉議論として知られている。〈私性〉についてはこのブログが始まった当初からTwitterを題材に記事を書きたいと思っているのだが、うまく進んでいない【12月10日追記:こちらの記事の注11で書いた】。おそらく伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(星海社新書、2014年)をはじめ漫画研究等の分野で深められているキャラクター論の枠組みが有効なので、アイデアだけを急いで書きつけておく。

 たとえば伊藤の〈キャラ/キャラクター〉概念を援用する。乱暴にいうと伊藤は、漫画の物語世界内に想像される、身体をもって人生を過ごす〈キャラクター〉から、「プロトキャラクター態」(伊藤前掲書、124頁)として図像そのものに人格が期待される〈キャラ〉を区別した。そしてキャラクターの享受はキャラに依存しているものの、キャラは単に背後にキャラクターが想定される符号ではなく、〈萌え〉に見られるようにキャラの水準での即物的な享受が可能であるとした。

 短歌においても、十全な人間キャラクター性を備えない「人格・のようなもの」の水準を区別することが、その享受体験の整理に役立つのではないか。言語は原理的に発話者を匂わせるが、ここで立ちあがるのは〈キャラ〉の水準である。図像の代わりに言語が〈人格〉を立ちあげる媒体となるのだ。このキャラを基盤に物語世界の〈キャラクター〉が生成されたり、キャラやキャラクターを現実世界の作者が演じたりする。

 なおここで見出される〈キャラ〉はナラトロジーにおいて〈内包された作者〉などと呼ばれる概念に近いようにも思う。だとすればわざわざ漫画の語り手についての議論ではないキャラ/キャラクター論を引くのは突飛に見えるかもしれないが、テクストが総体として念頭に置かれるきらいのある〈内包された作者〉に対し、〈キャラ〉は複数のコマ、複数の物語世界の越境を前提にしている点で、もっぱら複数の歌を越境して生成される短歌の〈私性〉の議論に資するものがあると考える。ナラトロジーについては、橋本陽介『ナラトロジー入門 プロップからジュネットまでの物語論水声社、2014年。

【2021年2月9日追記・同日全面改稿:しばしば誤解がありそうなので重ねて説明する。伊藤の〈キャラ〉概念は、穂村弘が「モードの多様化について」(『短歌の友人』河出文庫、2011年、120–131頁)で論じているような、キャラクターが生きる物語世界のリアリズム度の高低を問題としているのではない。キャラは、図像とは別個に物語世界に属するのではなく、図像そのものに即した存在である。

 この点を明瞭に示しているのは『地底国の怪人』論だ(伊藤前掲書152–177頁、また315–319頁も参照のこと)。伊藤はこの作品に登場するウサギの図像について、毛皮をもつ等ウサギのリアルな身体を指示する「ウサギのおばけ」の側面と、図像そのままの身体特徴を有する「マンガのおばけ」の側面が両用されていることを指摘する。ここで重要なのは、単に物語世界内で、必要に応じてリアリズム度が変化していることではない。物語世界においてキャラクターという「ウサギのおばけ」が立ちあがる以前、媒体の水準に属する図像的特徴が、それ自体として露呈していることが重要なのである。

 ここには、まずキャラという「マンガのおばけ」があり、それが必要に応じて「ウサギのおばけ」の指示記号としても機能する二重構造がある。言葉についても、言葉に即して常に発話者という「人間のおばけ」が立ちあがると受けとるのではなく、物語世界以前の「言葉のおばけ」の水準を考える必要があるのではないか。】

【2021年1月31日追記:この注釈については当記事本文の追記も参照のこと。】

*7:秋元康がプロデュースする女性アイドルグループ群による〈僕〉ものとして最初に思い浮かんだ歌をあげたが、もしかするとこの歌は、当該グループ群の歌の典型例とは言いづらいのかもしれない。ただ、「最初に」といっておいてあれだが、実は詳しくないので他の歌がとっさに思い浮かばなかった。結構たくさん「僕」って言ってるのを聞いた気がするんだけど。

 なお当該グループ群の歌のような、ソロパートが十分存在しない斉唱形式の歌では、詞の語り手が単数であるにもかかわらず歌手が複数になっているという別の問題が生じる。深入りは避けるが、注11と関連するかもしれない。

*8:ただし「再編されている状態」と述べたとおり、これは単にニュートラルな選択ではなく、対人関係の表現としての言語に働く複雑な力学の反映であり、その意味でむしろ、次段落で述べるペルソナの応用例である(「女性主体」とは、素顔が女性であるというより、もっとも基本的なペルソナとして女性を用いることになる主体のことだろう)。たとえば前出「YELL」では、一人称に「僕ら」を用いる一方内省対象としての自己は「"わたし"」「自己じぶん」などと称しており、対人関係におけるインターフェースを内省においても用いるわけではない。さらにこの歌はそのうえで、ペルソナと演者の切り離し不十分を露呈する。終盤になって男性コーラスが加わると、メインの女性ボーカルは「だからこそあなたは」と二人称に移行し、一人称は一旦男性コーラスに「だからこそ僕らは」と引き取られるのである。

*9:ここにさらに2015年発売のゲスの極み乙女。「私以外私じゃないの」を並べれば、前注で触れた次段落との関係が見えやすくなると思う。

*10:「だが実は問題は、主人公たちの言語的差異や《発話の性格づけ》がまさに最高に芸術的な意味を持つのは、客体的で完結した人物像の創造にとってなのだ、という点にある。人物像が客体的になればなるほど、その発話の特徴はますます鮮明になってゆくのだ。」ミハイル・バフチン、望月哲男・鈴木淳一=訳『ドストエフスキー詩学ちくま学芸文庫、1995年、368頁。

 また伊藤剛による〈キャラ立ち〉についての議論も参考になる。「「キャラクター」は、必ず基盤に「キャラ」であることを持つ。だが、図像のコードの選択によって、あるいは作家の描線の個性などによって、「キャラ」であることの強度に差ができる。おそらく「キャラ」であることの強度とは、テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に「存在感」を持つことと規定できる。だからそれは、作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない。その程度には「キャラクター」としての強度=立つことと、「キャラ」としての強度とは、独立の事象なのである。」伊藤前掲書、134頁。

*11:注6に引き続き短歌の場合を注しておく。注6で「現代短歌」と記したのには理由があり、和歌においては「マリーゴールド」と男女を逆転したような男性歌人の女人仮託がひろく行われていたとされる。他になんら示唆がなくとも、ただ〈待っている〉ことをもって語り手が恋人の男性を待つ女性であるとされるのだ。なお塚本邦雄藤原定家の一首を論じて、「通つて来る男を待つ女、その女に代つて詠つたといふ前提を、まづ考慮に入れるのが常道とされてゐる。風俗習慣に従へば当然であらうし、かういふ転身代理詠は少からぬ例もあるが、心理的には複雑をきはめる。しかもこの逆の立場、すなはち女が待たせる男に代つて作るといふ例がほとんど無いのも、考へてみれば妙である。」という指摘がある。『定家百首・雪月花(抄)』講談社文芸文庫、2006年、11頁。引用に際し字体を改めた。

 J-POPと和歌、そして短歌を並べて論じるうえで気になるのが、和歌の歌合においては、歌を発声する〈講師〉と呼ばれる役割が作者自身とは別に存在したらしいことである。発声される〈歌〉であることはしばしば、生身の作者から歌が切り離せないという自負とともに語られている気がする。しかし、歌の消費がもっぱら発声と結びついている状態は、むしろ歌に作者以外の発声者(詠歌時点とは異なる存在である作者自身もそこに含みうる)の可能性を積極的に誘致し、歌と生身の作者の結びつきを弱める面もあるはずだ。単一の歌唱を広げる再生装置としてのレコードがない限り、我々が触れられる歌唱は二次創作である。あるいはむしろ、オリジナルが存在しない。「『何度も書かれるような文章とは何かね。料理のように』」円城塔『これはペンです』新潮文庫、2014年、112頁。前回の記事で触れた、歌が〈差出人不明の手紙〉となる事態も、これと関連するものである。