音は静寂を聞くために

 2018年3月16日に動画サイトYouTubeに投稿されてからなぜかまだ260回しか再生されておらずCDにも収録されていないと思われる傑作、書上奈朋子「0315」*1を聴くなどしているうちに、Chouchou「O come, O come, Emmanuel」にたどりつく。はじめて聞いたけれどとてもよい。ということが一月近く前にあったのを思い出して、家の周りを歩きながら、さしあたりYouTubeにアップロードされているChouchouの曲を投稿日が古い方から5つほど聞いていた。まだ夏なので蝉が鳴いていたり、子どもが一抱えもあるボールを地面に弾ませていたりする。自動車の走る音はさすがにうるさくて、往来にはじめは近づかないようにしていたけれど、のちには近づいたようにも思う。

 聞きながら、要するに私はなんというか、澄んだ音が好きなのかな、と考える。ほかにはスティーヴ・ライヒ*2とか。

 たとえばよくポロン、と形容されるのだろう、ピアノのこぼれたような音が、好きだ。音が置かれている、のが好きなのだ。混じりけのなさ。つまりなんというか、音が置かれるありようは、置かれる場としての静寂、背景の無、を同時に感じさせる。私が音楽を好きだというのは要するにこの、音に表裏として張りついている、無の場を感じさせてくれる、と言っているのかもしれない。美しい音楽は、常に共にある静寂を聞かせてくれる。

 なにか高尚な趣味に聞こえるかもしれないけれど、そんなことはない。ファミリー・レストランや居酒屋等で人々の自分と関係のない会話が混ざりあっており、意味をもっているのだが聞き流して奇妙に遠くなる、ときの感覚と通ずるところがあるように思う。聞いたことはないが多分ジョン・ケージとはあまり関係がなく、むしろその包容力に対立する*3。ひとつには煩わしさを厭うているだけではないかとも思う。物事が多少複雑になると、私の頭の容量では処理ができない。それで私は唯我的性向をもつ。置かれる純な音に、孤独の安寧と世界の聖性を聞く。しかし混濁の生も偉大な建築*4も厭いながら、咀嚼可能に最小化して聖性を消費するのは、卑俗の典型に見える。俗が必ずしも悪いわけでもないだろうが。

 ならば稚拙な嗜好かと疑いつつ、聞こえる音楽はやはり私にかかわりなく美しい。とても静かに世界が聞こえている、気がする。川野芽生の一首を思い出している*5

 

 ぬばたまのピアノをひらきひとの手はひかりの絡繰からくりに降り立ちぬ

 

 この短歌は「ピアノ」以下、せわしないまでに韻律的技巧を仕込んでいる。まの–アノ、ピア–ひら、ヒ音の頭韻。母音をひねりながら進む、かり–から–くり–おり。助詞のナ行音に溶接されながら、鋭いカ行音、澄むラ行音、劈けるア段音が小刻みな韻を踏んで連鎖するさまは、まさにひかりの絡繰を体現している。

 けれどもあまりに小刻みで精緻すぎる響きに、我々は絡繰の息苦しさを知る。このとき翻って、啓蒙の光に切り分けられる以前の「ぬばたまの」闇が、いま一度深々と歌を覆う。〈黒〉〈夜〉などを導く枕詞として、直接の語義はうすれ呪句めいた五音の、ねばりつつ鷹揚な音調。それが招来する底知れぬ闇こそ、すべてを照らすつもりで深みを欠いた二十六音の光を包み、形を与える。この歌を歌たらしめる詩は、五音から渾々とひろがる闇なのだ。

*1:主な配信手段が別にあるからだろうとは思うのだが、よく分からない。作者ホームページはこちら

*2:『きことわ』を再読したときこの作曲家のレコードが登場しているのに気づいて、聞いてみることにしたのだった。朝吹真理子『きことわ』新潮社、2011年、72頁。ほかにこの作家に教えられたものとして、Fripp & Eno「Evening Star」が登場するのは、朝吹真理子『TIMELESS』新潮社、2018年、239頁。

*3:ジョン・ケージが一九五〇年代以降探求してきたのは、そうした偶然性を音楽に持ち込むこと、つまり、偶然に起こるすべてを受け入れることでした。前述の《四分三十三秒》も、演奏会の舞台でピアニストが何も弾かない状況で何が自然に起こるのか、聴衆はそこでいかなる反応ママ、それがいかなる環境を生み出すのか、聴衆と環境の相互関係はどうなっていくのか──そうしたこと全体を「音楽」とみなした。」宮澤淳一『理想の教室 マクルーハンの光景 メディア論がみえる』みすず書房、2008年、136–137頁。

*4:私がときどきworld's end girlfriendと近しい関係をもてなくなるのは、その建築としての規模が理由なのかもしれない。……格好つけた言い方をしたが、一言でいうと、たぶん、長い。物語のようだ。ところで今たどっていてはじめて聞いたのだが、その主宰レーベルから発表されているらしいVampillia「endless summer」というのがひどくよい。おそらくはとりわけ始まりかたが。歌声が言葉に還元されていなくてほっとする。

*5:「竜頭をうしなふ」『本郷短歌 第五号』2016年、100頁。なお近日中に作者の第一歌集が刊行される模様