追記:唯我的敬虔断想

 前回の記事で私が疑念を呈した自身の嗜癖についてもう少し*1

 たとえば数人で旅行にでて訪れた寺院の、それなりに人もありけばけばしいのにある時点で無人の室内灯もない部屋にひとり立つことになり、己の呼吸を意識しながら心のなかで手をあわせることになる。これは具体的に台湾でそういう経験があったのだが、そうでなくて墓参りで手をあわせるのでもかまわない。こういうとき私は故人に話しかけるのでなくただ風が吹いているなと感じる。蝉が鳴いていればその声が聞こえる。

 私はそういう具合に一人でいること、煩わされないこと、を敬虔な時間として受けとる。しかしこれは正しいだろうか。

 あるいはもう少し胸がむかつく経験でいえば、私は原爆資料館*2に一度行ったことがあり、そのときは自分一人で、今でも複数人で行くということが想像できないのだが、これは正しいことだろうか。資料館で騒がないとか一人で向き合いたいとかいうと真摯なようだが、一人でいるときに真摯でいるのは誰にもできることである。複数人で対話をする、広くいえば政治をする、のを促すために資料館は建てられたはずだろう。真摯であるために一人であることを必要とするのは成熟した人間とはいえない。人に気を散らされて真摯であることを保てないような怠惰な人間が集団に流されて人を蔑ろにする。

 私だってのちにアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所には数人で行ったのだから案外問題がないのかもしれない。

 それで酷いようだが快楽に話を転ずる。もともと前回の記事では音の歓びの話をしていたのだ。あるいは美術館でもかまわないが、一体ひとりで作品のまえに立たないと味わえないなんてことがあるだろうか。芸も術も人為アルスであって、芸術はまずは人の世界におかれて人の楽しむものであるべきだろう。そして人の世界に人は複数いて互いに関わっており、そうでなければ人の世界とはいわない。人間という言葉で人を指す習いもある。

 しかしそれでは読書はということが頭に浮かぶ。黙読するかぎり本は一人のものであり、それがある程度正当な享受姿勢であることは疑いを容れない。ここでだから書物は芸術ではないんだという考え方はあって案外正解かもしれないが、それよりも読書は一人でするが言葉は対話のためにあるものだという方向に進むのが普通だろう。それで思い出したが理想の、形而上的書物を考えようとすると私はどうやら美しいどこまでも真白な書物を思い浮かべてしまうのだった。ぬばたまの闇は豊かであったがさて。

 ともあれ、そう、問題は読むという姿勢にある。私は以前手紙というかたちで意思伝達の失敗の話題を扱った際も、なぜかもっぱら書き手ではなく読み手の立場に自己をおいた。なぜか、ではなく理由はあって、私の唯我的性向にあっては審判者は私だからだ。このために私の美意識*3、倫理と呼んでもいいのかもしれないが、はまったく発育不全であるらしく、たとえば服を選べない。こう言って恥じないあたりが恥ずかしい。だいたいにおいて私の姿勢は、エッフェル塔のなかにいるとエッフェル塔は見えない*4、といったところのようだ。私が自らをフェミニストと名づけがたい理由もどうやらこの辺にある。単に子供だ。

 ここからの発展を思いつかないのでなんだか面白くない記事になってしまった。最後の段落の「私」の多さには呆れる*5。本当はそれでなぜ悪いのか、とか、私の読むという行為になにか積極的な意義づけをできないか、とかいった話運びをすべきであるのだが。

 ただそう、こういう読者にとって作者とは何なのかということである。私は、当記事前半でうかがえたかもしれないが、まだ人が亡くなったことで激しい苦しみを感じたことがない。鉄道駅で人身事故の報を聞いて、亡くなったのかもしれない人に目を閉じたりはする。しかしそれも、多少重要な用事、たとえば何かの試験の日に人身事故による遅延で予定を狂わされたというような覚えがないからではないかと思う。それで話が戻るのだが、作家の死についても衝撃を覚えたことはなかった。元来ある作家の全作品をたどれるような人間ではないこともあり、軽薄な興味は抱くものの、作品外に実在するものとしての作者への愛情はうすいのだ。ところが先日少女漫画家の明智抄が亡くなったのを知って、一日ほどしてから自分が割合動揺していることに気がついた。記事を書こうと思って書きあぐねたままのところ、今度は歌手の谷山浩子が癌の治療中という。谷山浩子はこれまで生きてきたなかで、ファンだと言うことに私がこの世で最もためらいを感じない作家である。それでいて私はライブコンサートに行ったことが一度もないのだが。私のような読者にとって作家とはそういうものである。ともあれ幸福に長生きしてほしい。谷山は大森望河出文庫から出している『NOVA』の2019年秋号に「夢見」という短篇小説を寄せており、あるいは長篇『Amazonで変なもの売ってる』のいわゆる物語の筋を超えた落着でも同じだが、見方によっては生を虚無と観ずるような小説といえる。けれどもそのうえで、素直に「幸福に長生きしてほしい」とこちらが願えばそれが谷山の幸福であろうと信じることができて、それは人々と人の世界はその程度には複雑だと谷山に教わったのだともいえるし、そうではなくてそれを可能とする特異な存在だから私は谷山のファンなのだともいえる。

*1:ところで呆れたことに、前回の記事は当ブログ最初の記事以来の、「前回の記事」へのリンクを含まない記事だった。当ブログは記事の相互参照や注釈を多く含むが、必ずしも読者の便を図ったものではない。まずは本文しか読まない、というのも一つの推奨されるべき姿勢である。注釈とは一般にそういうものかもしれない。

*2:広島平和記念資料館

*3:「悪い? 私はかっこつけて生きてるわよ スタイルのない人生なんてクズよ

あんた達は違うわけ? かっこわるいこと平気なわけ?

だからバカだって言うのよ」

吉野朔実『ぼくだけが知っている』2巻、小学館文庫、2003年、31–32頁。

*4:足立和彦「エッフェル塔が嫌い」

*5:一人称について述べた素晴らしいブログ記事として、とりい「「わたし」も「ぼく」も選べなくて一人称無しで暮らしていた」がある。