追記:性的と官能的

アロマンティック/アセクシュアル・スペクトラム調査2020」なるものを紹介する、松岡宗嗣による次のYahoo!ニュース掲載記事を目にした。

これを読んだあとで、いままでよく分かっていなかった性的指向性的嗜好の違いについて、当ブログの前回記事に書きつけた性的セクシュアル官能的センシュアルの概念にかなり近しいのかもしれないという個人的発見があった。興奮したので記しておく。

 ただしあらかじめ断っておくと、当記事の主眼は、私が私自身の世界把握のために生んだ官能的センシュアルの概念を磨きあげていくことにある。松岡記事および〈性的指向性的嗜好〉概念はそのために利用している形だ。また、私の用いる性的セクシュアル官能的センシュアルは形容詞である。文中名詞的に用いていることもあるが、その場合は語・概念として扱っている。つまり、混乱を招いて申し訳ないが、その属性を持つ人を指す名詞として用いられている松岡記事由来の「アセクシュアル」とは用法が異なるわけだ。

【11月16日19時追記:やはり紛らわしい。特に、「アセクシュアル」と違い当ブログ記事では直接借用していないとはいえ、松岡記事には「セクシュアル」の用語もある点を軽視していた。よって混乱を避けるため、記事タイトル含め当記事における私独自の用語については、可能な限り「性的」「官能的」と漢字表記に変更したうえで、赤字で表記して区別するよう訂正した。】

 

 松岡の記事の次の部分を読んで、一瞬意表をつかれた。

特にアセクシュアルは「そもそも性欲がないと思われることが多い」という三宅さん。今回の調査結果を見てみると、アセクシュアル当事者の約6割が「性欲がある」と回答。

 アセクシュアルの定義って性欲がないことではないんだっけ。幸い松岡は当該部以前の箇所で、語の定義は人により異なると注意を促しながらも、アセクシュアルの便宜的な定義を掲げてくれている。あらためてさかのぼり確認してみる。

アセクシュアル:他者に惹かれない、性的な魅力を感じない、性的欲求/性欲が他者に向かない(説明によっては+恋愛感情がない)

 なるほど確かに、問題は性欲ではなく他者との関係だと、はっきり記されているのだった。

 ここで私は数日前に自ら記していた、性的セクシュアル陰翳ニュアンスの異なる語としての官能的センシュアルを思い出す。もっとも活きた英単語の陰翳について私が語れると思われては困るので、今日の一般的な英語母語話者がsexualとsensualの各語から受ける印象が、ここで私の述べている陰翳と合致しているかは知らない。

 私の印象を一言でいうと、性的セクシュアルは分割としてのセックスにもとづいているけれど、官能的センシュアルセックスを前提しない。

 sexとsectionは似たようなものではないかという目論見はいま手元の辞典類を引いても十分な確証までは得られなかったのだけれど、ともあれジーニアス英和大辞典電子版からsexの語源についての記述を引き写すと「ラテン語sexus(分割、性別に分けること)」とある*1。分割と、それをまたぐ性交=挿入インターコース*2の陰翳がセクシュアルという語にはまつわっている。

 漢字の「」のほうに話を転じると、今度は辞書さえ引かずいっそう感覚センスのみにたよって話すが、どうも属性、しょうさがといった陰翳を帯びているのではないかと思う。上述した「セックス」とはまるで様相が異なるようだけど、一つ共通すると感じられるのは、内部というかなにか生まれもった根源のようなものがあって、その核から性質が湧出していくという捉え方だ。セックスというのも、分割した壁の左右にこそ内実があると捉えられ、壁は単に内実同士の分離を示すという陰画的な存在しか認められず、またがれてしまう。

 性的セクシュアルという語がそんな分割と内外のヒエラルキー陰翳ニュアンスに含んでいるとしたら、官能的センシュアルは内ではなくむしろ壁に、表層に執着する。私は肌の内ではなくむしろ肌の上に、触覚に存在する。前回の記事では官能的という語を言語交流と共在の文脈に位置づけていたからどうも矛盾するかもしれないけれど、私が言いたいのは、侵入ではなく接触象徴フィギュアとする、ということだった*3(なんだか接触セッショクという語のs音の響きもsensualの音写を思わせませんか?*4)。「『細部を可愛がるんだよ、caressするんだ』と、ナボコフはことさらrの音を響かせて、よく言ったものである。」*5愛撫するcaressとは表面にとどまることだ。内実の捕捉にはやる性交=挿入インターコースが前提している分離のまえで、 官能は壁にとどまる。

 なんだかこの言い方だと性的セクシュアルであるより官能的センシュアルである方が根本的でえらいようだが、そんなこともない。実体をもつのが境界の両側ではなく境界すなわち肌のみであり、そして私が肌なのだとしたら、帰結が〈実体をもつのは私のみ〉となることは十分考えられる。他者の不在はそれ自体ではまったく問題ではないけれど、他者がいるにもかかわらず官能的センシュアルな認識を介して唯我論に向かうならば危うさがあるだろう。

 

 さてここでようやく冒頭の記事に戻る。

 そんなわけでアセクシュアルの便宜的定義を確認した私は、つまりこの定義で問題にされているのは私のいう性的セクシュアルな欲望で、官能的センシュアルな欲望はまたはっきり別物だということかしらと解釈したのである(これが実際にアセクシュアルへの理解として適切かは不明)。

 これはどうやら私の認識を修正するものだった。というのも、ここに至ってはじめて自覚したのだが、私は性的セクシュアルという概念は架空のものだと思っていたらしいからだ。上では〈官能的センシュアルのほうが根本的ということはない〉と書いたものの、前回記事に「いわゆる〈性的〉な体験についてはこの官能という語で捉えたほうが理解が捗るのではないかと感じる」と書いているとおり、基本的にすべてを官能的センシュアルの観点から捉えていた。

 しかしどうやら人には、性的な欲望が、官能的な欲望とは別にあるらしい。そう認識してじわじわと驚きながら、さらに連想がつながる。〈性的指向性的嗜好は違う〉といっていた人たちに見えていたのは、これだったのだろうか。

性的指向性的嗜好は違う〉という文言があって、私には何をいっているのかよく分からなかった。特にしばしば〈前者は生まれつきで変わらない〉という肯んじがたい文言が付随していたこともあって、机上で無から生まれた区別なのかしら、社会的歴史的状況が要請したのかもしれないけれど、と思っていたのである*6。しかし、人に性的セクシュアルな欲望が存在しているとなれば話は違ってくる。性的指向で問題になっているのはまさしく〈他者との関係〉ではないか。それなりに多数の人が、官能的な欲望とは独立に性的な欲望をもっているなら、その実感に由来して性的指向性的嗜好の概念が生じてもおかしくない。確かに彼らにとって両者は異なるものだったのだ!

 

追記

 もっぱら自分の概念整理に忙しく、現実のアセクシュアルの方については無視する形になってしまった。それにしても松岡記事で紹介されているスペクトラム調査では回答者1685人中の67.5%がシスジェンダーなのだけれど、うち92.8%が女性でシスジェンダー男性の少なさに驚く。

 関連テーマについての英語論文を紹介している2017年の良ブログ記事をたまたま見つけたため、以下にリンクを貼る。

*1:「sex」大修館書店『ジーニアス英和大辞典 用例プラス対応』©KONISHI Tomoshichi, MINAMIDE Kosei & Taishukan, 2001–2015.

 なお同じ電子辞書に収録されたジーニアス英和辞典では「原義:分けられること.section, insectと同語源」と断言されている。「sex」大修館書店『ジーニアス英和辞典 第5版 用例プラス対応』©MINAMIDE Kosei & Taishukan, 2014–2015.

 しかしOxford English Dictionaryの第3版(2008年)にもとづくオンライン版(使用には登録等が必要)「sex, n. 1」では、ラテン語sexusの語源について"uncertain origin (perhaps compare secāre to cut [...], though the semantic connection is unclear)."と断定を避けており、sectionの語源secāreとの関係は不明瞭である。

*2:「女の体は性交の際、他者(男)によって境界を超えて押し入られる構造になっており、境界を侵略される者は、現行の文化のもとでは必然的に、プライヴァシー、完全性、自己、自由、自尊心の点で、男よりも劣るものしか持つはずがないという意味付けが貼り付くことになっている。つまり性交は、当然の権利として他者を占領する人間と、当然の事態として占領される領土になる者との関係というのが実質なのである。」寺沢みづほ「アンドレア・ドウォーキン『インターコース』」江原由美子金井淑子=編『フェミニズムの名著50』平凡社、2002年、305頁。

*3:こう書きつけてから思い返してみると、こうした私の感覚に言葉を与えてくれたのは、中村美亜『クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす』(インパクト出版会、2008年)だったように思う。この本になぜ出会ったのかと当時の記録をたどると「なにかの事情でこれについての座談会チャットをみつけた(本当にどうやって見つけたんだ……[中略])ので知った。」とあり、こちらの座談会を読んだことがきっかけらしい。

*4:これは最近気がついたのだが、私の言語感覚にはおそらくは児童期に与えられたムック、速水侑=監修『図説 あらすじで読む日本の仏様』(青春出版社、2006年)によって知った〈音写〉という概念がかなりの影響を及ぼしているらしい。たとえば菩薩という語はサンスクリット語ボーディサットヴァの音を写した菩提薩埵ぼだいさったの略だという。まあ夜露死苦よろしくと大差ないともいえるのだが、翻訳に際して意味ばかりでなく音を写そう=移そうとすることがありうるのだと教えられたことは、私を言語の形式の感受へと導いたように思う。そこに絡んでいる漢字/漢語なるもの自体が、日本語に取り込まれるに際して非常に独特な翻訳の対象となっていたことには、相当のちまで感づかなかったように思うが。

*5:野島秀勝=訳「ジョン・アプダイクによる序文」『ナボコフの文学講義 上』河出文庫、2013年、39頁。アプダイクによれば、これはナボコフの元学生ロス・ウェッツスティーオンの文章からの引用。

*6:注3で言及した座談会には次のようなくだりがある。

macska

 ええと、2004年の大統領選挙で候補討論会があったときに、両候補に対して「同性愛は生まれつきだと思いますか?」という質問があったんですね。民主党のケリーは「そうだと思う」と答え、ブッシュは「そんなことは分からない」と言った。

 分からないことは分からないと言うのが誠実な態度ですから、これはブッシュが圧倒的に正しいと思うのですが、それが単なる科学的事実についての認識ではなく、政治的な立場を示す材料となるという政治的状況があるわけです。つまり、性的指向は人種や性別と同じく生まれつきだから差別するな、という主張があって、それは人種や性別が生まれつき決定されているという前提からして間違っていますが、そういう政治的な環境の中でルヴェイは研究成果を発表しているわけです。

 ルヴェイの科学的な論文を読むと、わりと丁寧な議論をしているんですが、一般に紹介される時点で単純化されている。で、ルヴェイもそれをあんまり咎めようとはしていないように思います。率先して誤解を広めるようなことはしないまでも、誤解してくれても自分の関知するところじゃないよ、みたいな。

 また同座談会参加者masakiであるマサキチトセの次の記事でも、根本的には両者の区別が妥当でないこと、他方で歴史的に実体をもち差別を生んできたこと、また差別解消のための逆利用がなされていることを説明している。

ダイバーシティは「取り戻す」もの 差別の歴史の中で生み出された”性的指向”と”性的嗜好”の違い - wezzy|ウェジー