「籠釣瓶はよく斬れるナァ」:それから『クズの本懐』とエアプのことなど

籠釣瓶花街酔醒かごつるべさとのえいざめ』という歌舞伎の演目があって、その劇中に出てくるらしい表題の台詞が好きなのだけど、実は「らしい」と書いたとおり私はこの台詞を聞いたことがない。歌舞伎自体数えるほどしか触れておらずこの演目も観たことがないし、出版された戯曲を読んだわけでもない。子供のころ、祖母にもらったのだったか、歌舞伎演目のあらすじを一つあたり見開き2頁写真つきで紹介する入門書を読んでいて知ったのだった。見返すと実際にはこう書いてある。

 田舎者の次郎左衛門は、[中略]仲ノ町見物に来て花魁道中に出会い、その美しさに魂を奪われ、腰を抜かす。

 それからというもの、[花魁の]八ッ橋に入れあげて、仲ノ町の評判にもなり、仲間からも羨ましがられる。そして、身請けしようといいだす。

 今日も朋輩を連れて茶屋へ繰り込んだ。花魁たちのほか、芸者や幇間までも揃っての大盤振舞い。

 待つうち、ようやく八ッ橋が現れたが、いつもと様子が違う。あれこれと取りなす次郎左衛門。しかし八ッ橋は浮かない顔つきで、次郎左衛門の顔を見るのもいやになったから、身請けは断るといいだす。

 一座がしらけ、次郎左衛門は面目を失った。[中略]

 満座のなかで辱めを受けた次郎左衛門は、うち伏すばかりである。

 それから数ヶ月後、久しぶりに茶屋に上がった次郎左衛門は、名刀の籠釣瓶を抜いて、八ッ橋を斬るのであった。*1

 ふられた次郎左衛門の、「花魁、そりゃそでなかろうぜ」が名せりふ。

 殺しでは、八ッ橋を斬ったあとの「籠釣瓶は切れるなぁ」の次郎左衛門のせりふに、複雑な思いがこもる。*2

 

 ここで一旦話題を移す。いま私は原典を参照せずに生半な知識でこの台詞に対する解釈を語ろうとしており、このようなふるまい──つまり、台詞やキャラクターの引用と称してミーム化を行うこと──は一般に褒められたものではない。ことに原典を愛する者からはしばしば憎悪を向けられるふるまいだろう。いわゆるエアプというやつだ*3

 この種のふるまいの例として個人的に浮かぶのは、漫画『クズの本懐』における主人公の台詞「興味のない人から向けられる好意ほど 気持ちの悪いものってないでしょう?」のミーム化だ*4。私はこの作品を特段愛していないけれど、それでもこの作品について世に流通する言説がひどく私の理解とずれているので、その種の言説を耳にするたび、『不思議の国のアリス』のお茶会に参加しているような不安な気分に襲われる。

 そもそも書名の理解がずれているように思う。私も最初に書名を見たときは違う理解をしていた。そのせいで書店で冒頭試し読みをした際さほどクズとも思えぬ主人公たちに当てがはずれ、そのまましばらく読まずにいたのだけれど、あるときふと自分が「の本懐」を読み飛ばしたせいで「クズ」の語義を取り違えていたのではないかと思いいたった。

 人に対する〈屑〉という形容は、ここでは本義の〈無用、無価値〉を意味しており、派生的な意味である〈人としての倫理を踏み外している、酷薄非道な人〉を指すわけではないのだ。後者は他者から見た評価であり、その種の人間は主観的にはむしろ自己の価値を他者のそれより高く見ているがゆえに他者を蔑ろにする非道な人間となるのだろう。屑を自称したとしてもそれは〈おまえたちから見れば私は屑かもしれないがだからどうした、おまえたちにどう思われようと私には影響ない〉という趣旨に過ぎない。だが「本懐」は主観的な語だから、「クズ」も自己が無価値だという主観的評価ととらえなければ、語の連絡が分からなくなってしまう。「本懐」とは、それを叶えることで自己の用が果たせた、価値を発揮できたと感じるような、自己の目的である。自己の無価値を痛烈に感じ屑と自嘲しながら、それでもあるいはだからこそ、「本懐」を抱きそれに縋って生きている。「クズの本懐」という題名が示唆しているのはこのきわめて主観的な問題であって、〈こいつらクズだわー〉式の他者視点では意味が通らない*5

 実際に物語を確認してみよう。本作の主人公、女子高校生の花火は、幼馴染にして現担任である鳴海に恋慕しているのだが、先方に恋愛対象と見られていないという自覚から恋心を打ち明けられずにいる。そこでやはり教師に叶わぬ想いを抱く級友の麦と、互いを恋慕対象に見たてて欲求を解消する契約関係にある、というのが物語設定だ。自身の恋心が鳴海に対して無用のものであり、鳴海と恋人同士になるという「本懐」を遂げられないから、花火は自認において「クズ」なのである。花火のふるまいが他者視点で「クズ」と評価されるかが焦点ではない。

 先に引いた花火の台詞も、このような自嘲の文脈にある。自身に恋情を告白し応答を求める男子に対して花火が「興味のない人から向けられる好意ほど 気持ちの悪いものってないでしょう?」と言い捨てるのは、その男子と同類である花火自身の〈興味をもたれていないのに一方的に向ける好意〉を、花火が屑と評価しているからである(直後に「あ くそ ブーメラン」と独白しているから、花火は発言時には自覚的でなかったにせよ)。そして読みすすめれば確認されるとおり、実のところこの作品は、花火たちが自身を「クズ」ではないと肯定するまでを描く物語なのだ*6

 以上の(あくまで私の理解するところの、ではあるが)作中文脈が、しかしこの台詞が引用されるときまともに踏まえられている例を、私はほとんど見かけたことがない。作中文脈の無視それ自体は、とりわけインターネット上の双方向コミュニケーション発達以後増加したと思われる自覚的なミーム使用に際しては、発信者と受信者に共有されている、つっこむ方が野暮な前提というものだろう*7。しかしこの台詞の場合、台詞自体はさして特徴的でもないうえに使用可能な状況が限定されるためか、作中文脈から自覚的に逸脱して汎用されることは少ない。台詞にこもっていた陰翳を根こそぎ変質させる読み替えが行われながら、作品から独立せずに流通したため発信者や受信者は〈原典に忠実な引用〉と認識し、翻って原典理解に偏りを生む、そんな現象が生じている気がするのだ。

「不安」「取り違え」などと述べて糾弾しているように聞こえるだろうか。それは本意ではなく、「偏り」という語も善悪の評価を含んでいない。何しろいま私は類似行為を働こうとしているのだ。

 原理的に受信者は発信者の意図しないことを読みこんでいる。読者は作品の思わぬ解読をする。そして引用により今度はその解読を拡散する発信者となる。私はそのことに一方では不安を覚えている。このブログは今まさにしたように注釈や記事間の相互参照、ルビ振り等を頻繁におこなっているけれど、その身振りには〈私の文章は私の意図したとおりに読まれてほしい〉という強烈な自己愛が表れている。一般には他者の言葉への尊重を意味するだろうそれなりに丁寧な出典表記と引用も、私にあってはむしろ同根で、〈私においてその言葉が喚起する記憶〉を読者に共有するとともに〈私の読み方〉に客観性の装いを付与することで、私と他者のあいだで揺らぎながら生成される言葉の意味を、私の意図通りに固定したいという他者抑圧欲の表れである*8。「さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し」*9……けれども好むと好まざるとにかかわらず、その他者抑圧と自己保存は原理的に完遂されえない。くりかえされること、引用できることは言語が自らを可能とする条件で、そして異なる状況でくりかえせるならくりかえされているのは同じものではありえない。言語をはじめ記号コミュニケーションが拠って立つこの原理的基盤をデリダは反覆可能性と呼んだ。ジュディス・バトラーならジェンダー・トラブルと呼ぶのかもしれない。

言語的であれ非言語的であれ、話されたにせよ書かれたにせよ[中略]、またユニットの大小にかかわらず、いかなる記号も、引用﹅﹅されうるし引用符で括られうる。まさにそのことによって、すべての記号は、所与のいかなるコンテクストとも手を切り、絶対的に飽和不可能な仕方で、無限に新たなコンテクストを発生させることができる。このことが前提としているのは、マークがコンテクストの外でも有効だということではなく、逆にいかなる絶対的な投錨中心もない諸々のコンテクストしかないということなのである。*10

 たとえば書物は一冊の書物として画されることで、著されたものを包んでいながらそこに著されなかった筆者の随想や状況と袂を分かって読まれる。これは、その一冊から再度切り出された一文のみを読むことと、姿勢においてどこまで異なるだろう。だから実際書物は単体で読むべきではないとして作家論に沈潜するひともいるけれど、全てにその姿勢をとろうとすれば出会う人々と会話の口火を切ることが叶わない。あるいはTwitter上で流れてきたツイートを読むために、当該アカウントの過去発言を遡る必要はどの程度認められているだろうか(もちろん〈半年ROMれ〉というのも一つの見識ではある)*11吉田健一は、引用というのは間違っている方が本当だ、と言ったそうだけれども*12口ずさまれ異なるコンテクストに運ばれ、原義にない解読をなされること、これこそ書物や言葉のありようではないか。

 だとすれば〈原典に忠実な引用〉でないと他者を排撃したところで、己を振り返って空しいばかりだ。もちろん引用を、すなわち語を用いることを諦めるのも常人の採る道ではない。反覆を行っていると自覚しながら自己のコンテクストにあらわれた印象インプレッションを再現し*13、その自己もまた意味の最終審判者たりえず反覆に開かれていることを希望ともみるほかないだろう*14。なにしろ少なくとも、これはどうやら今まで触れそびれていたことだけれども、経験則からいうと、読むことはいつもなんらか快楽なのだ。

 

 それで長くなったがようやく私は「籠釣瓶はよく斬れるナァ」からの妄想を語ることができる。振り返れば籠釣瓶花街酔醒もまた〈興味をもたれていないのに一方的に向ける好意〉の話と気づいて驚くけれど、そういう意図でこの台詞の話をしたわけではなかった。

 この台詞が私にとって印象深いのは、情のもつれから万感こめて人を斬った者が、斬った自分でも斬られた相手でもなく、物体である刀に言及するということがひどく現実味をもって響いたからだ。

 昔読んだ国語の教科書に載っていた文章で、三島由紀夫遠野物語の一節を取りあげて、幽霊に触れて皿が回ったという描写を褒めていた。人間というのは簡単に錯覚するから、幽霊を見るくらいのことは別段何でもない、何かの見間違いだろうと思う。人間は自分で自分たちの信用ならなさを知っているわけだ。けれども皿という物体が幽霊に触れて回ってしまうと、これはもう現実となるほかない。簡潔な一文がそのようにして写実を信じさせる効果を称えていたのだったと思う*15

 人の交際する世界はあやふやで夢のようで、それに比べると物体は確かに存在している。鋭利である。次郎左衛門は迷妄がきわまって、突き抜けてしまって、刀という物体にすがって振るって、斬ってしまえば手応えよりも、この二人のあいだのわけのわからぬぐしゃぐしゃはこんなに空漠であったかと、ただただ全てが儚いように思われて、自分が為したこととも思えず、そんななか手中の刀だけがいよいよ冴えて確かに感じられたのではないか*16。もっと身も蓋もなく言い直せば、この台詞は殺人という現実からの逃避または開き直りだ。斬ったところで次郎左衛門にとって全てが終わり、八ッ橋にも自分にも言及する気は失せて、己の意思の道具にすぎぬ刀をさもそれこそが渦中の焦点であるように、憮然と眺めつぶやく。すべてが夢と消える無常ならばいかにも古風だけれど*17、世を儚んでなお物体だけが冷たく残るところになにか写実の近代的な感覚が、さみしさのリアリティがある。

 

 まあ偉そうに述べてきたけれどもこの解釈が妥当かは怪しくて、ひとつには台詞が観客に刀への注目を促すのは、脚本家がこの事態を素朴に妖刀の招いたものとして描いているからだという可能性がある。今日の上演では省かれることが多いそうだけれども次郎左衛門には親の因果で顔が醜くなったという前史もあり*18、かかる因縁話の文脈で理解するなら、現実逃避でもなんでもなく事実凶行の主役は刀ということになろう。刀は物体の冷たい確かさどころか人の世の縁と血にしとど濡れた生き物と化す。その妖気に憑かれ操られる次郎左衛門の台詞も物体の観照ではありえなくて、たとえばウェブサイト「歌舞伎 on the web」の金田栄一によるあらすじでは

俄かに声を変え、持ち込んでいた刀で八ツ橋を一刀のもとに斬り殺してしまいました。「籠釣瓶は、切れるなあ」その見事な切れ味に次郎左衛門は妖しく目を光らせ感嘆の言葉を漏らすばかり…。

と形容されることになる。私のはじめに出会った紹介が「複雑な思いがこもる」ではなくこちらだったら、冷たく冴える物体の確かさなどこの台詞から受け取りはしなかったことだろう*19。まして本演目の下敷きに「吉原百人斬り」と呼ばれる史実の事件があると知れば、この台詞のあと多数の殺しがつづくことも予想され、「全てが終わり」の空漠からはいよいよ遠い。

 ちなみにこの作品は私が歌舞伎と聞いてイメージするのと違い、河竹黙阿弥の弟子三世河竹新七を作者として明治21年1888年初演された。御一新から二十年というともう近代のように聞こえるけれどもこれがなかなか簡単にいかない。小説でいえばたしかに坪内逍遥小説神髄』に言文一致の二葉亭四迷浮雲』がこのあたりなのだけれど、実はこのあとやってくるのは紅露逍鴎、半ばに樋口一葉が淡い精華を咲かせる文語文の二十年で、国木田独歩をはらみつつも本格的な口語小説の達成がなされるのは島崎藤村『破戒』に夏目漱石登場の明治四十年前後ということになる。もう少し国語の授業をおさらいすると、藤村が捨てた詩はさらに時を要して、漱石朝日新聞の後輩として気にかけていた石川啄木の悪友が北原白秋、白秋門下で「何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。」*20と序を寄せられた大正6年『月に吠える』の萩原朔太郎が口語自由詩を確立する。そして朔太郎を師と仰いだ三好達治に戦後「この若者は/冬のさなかに永らく待たれたものとして/突忽とはるかな国からやつてきた」*21と称えられた『二十億光年の孤独』の谷川俊太郎に現在までが収まってしまうのだから、近代日本語文芸の歴史の短さは空おそろしい。

 こうして自分の寄る辺は頼りなく、他方此岸とも彼岸ともつかぬ錯雑したコンテクスト中で仮想の作者がなにか叫んでいる。目がくらみ耳は鐘打ちを早めていき、頭は燃えるようで、こんなとき相手を斬り殺したくなるのかもしれない。斬ってしまって、心が凪いだのは火を鎮めたのか完膚なきまで燃え切ったのか、ともかく刀だけが重みをもっていよいよ冴える。

*1:利根川裕『あらすじで読む 名作歌舞伎50』世界文化社、2004年、25頁。ルビは省略した。角括弧[]内は引用者による注、以下の引用でも同じ。

*2:同26頁。

*3:〈エアプレイ〉の略、ゲーム等を実際にプレイ・体験していないにもかかわらず、知ったか振って語ること。「エア」は〈エアギター〉などの語に倣ったものだろう。

 なお続いて本文で扱っている『クズの本懐』の例はおそらく原作未読者によるものとはいえない。つまり当記事はエアプと既読を質的に区別していないことになる。両者を区別しないことについては当記事でもある程度説明したつもりだが、この問題を一冊かけて紹介した本として、ピエール・バイヤール、大浦康介=訳『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房、2008年。……よく覚えていないがそんな本だったはずだ。また二次創作における原典リスペクトおよび〈解釈違い〉の問題まで派生させるなら、以前こちらの記事の注6で触れた、伊藤剛、岩下朋世らによるキャラクター論の枠組みが参考となる。岩下朋世『キャラがリアルになるとき 2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』青土社、2020年、11章および12章。

*4:横槍メンゴクズの本懐』1巻、スクウェア・エニックスビッグガンガンコミックス、2013年、128頁。

*5:ちなみに作中キャラの茜先生について、作者はインタビューで次のように述べている。

最初はもっと“正しすぎて嫌な人”っていう感じで描きたかったんですよね。それが、私と担当編集さんで「こんな女は嫌だよね」って話していたら、「そんなに嫌じゃない。やれない女よりやれてしまう女のほうがつらい」という男性の声を聞きまして……それでギリギリまで悩んで、結果的にビッチにすることに。

「正しすぎて嫌な人」とは、その人の前に立つことで自分が誤った存在、まさに屑としか思えなくなるような人であろう。自信がないせいで他者に依存する典型的にかわいそうな人にしか見えない現行の茜先生より怖いもの見たさが湧く、という私個人の趣味を差し引いても、かかる対立項を導入する当初案のほうが、屑たちの葛藤をより効果的に描けたのではないだろうか。

*6:なお、こう書いたからといって私は〈興味のない人から向けられる好意は気持ち悪くない!〉と主張しているわけではない。関係があるかもしれない記事、いやおそらく別の話にはなるけれど、ともかく当ブログの記事として、短信 - 人間の話ばかりする

*7:ここで念頭においているのは例えば、Twitter上などで見られる、既成の画像をもって返答に代える文化だ。とくに台詞部分等に改変を加えたいわゆる〈コラ画像〉としての消費では、原典からの独立が前提とされている。

*8:エビデンスやファクトを自然科学に基づけるにせよ、はたまた宗教的信念のようなもので絶対的主張を行うにせよ、どちらにしても、文脈による意味の揺らぎをコミュニケーションによってたえず調整する労苦、かつ、その調整が決して真理に至らず、ある「落とし所」にしかならないという不純さに耐える労苦を逃れたいという意味では同根である。」

千葉雅也「ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理」伊藤邦武/山内志朗中島隆博納富信留=責任編集『世界哲学史8──現代 グローバル時代の知』ちくま新書、2020年、88–9頁。

*9:川野芽生Lilith』書肆侃侃房、2020年、123頁。

*10:ジャック・デリダ、宮﨑裕助=訳「署名 出来事 コンテクスト」高橋哲哉/増田一夫/宮﨑裕助=訳『有限責任会社』法政大学出版局叢書ウニベルシタス、2002年、33頁。

*11:ちなみに以前の記事の注6でほのかに匂わせているが、この点からTwitterと短歌の享受様態を見ると、〈発言が一首/1ツイートの単位で拡散される一方、単位あたりの短さから発言自体はもっぱら発言者内文脈への依存度が高く、個々の発言よりその集合がなす統一的人物像を消費すべく各発言が発言者に紐づけられてもいる。この二つを代表とするいずれの尺度スケールで読むか曖昧なまま享受されている〉と、類比的に理解できる。もちろん当記事は実際には両者にとどまらずあらゆるコミュニケーションがこれに類比できる、と述べているわけだけれど。近代短歌のコンセプトについての穂村弘の次の説明を、Twitter理解に援用してみてほしい。

どういうアイディアかというと、短歌というのは一首一首を積み重ねることによって、一生をかけてひとりの人がひとつの人生の物語を書くジャンルなんだ、ということ。そうすると、その物語を最後まで読み切れる読者というのは、作者より長生きした人だけってことになる。とんでもないよね(笑)。

 そのコンセプトで行くと、歌人はみんなひとつしか作品が書けない。

穂村弘「文庫版スペシャル・インタビュー 爆弾のゆくえ 現代短歌オデッセイ2000〜2013」『短歌という爆弾』小学館文庫、2013年、302頁。

 ……というわけで、先の記事で「Twitterを題材に記事を書きたいと思っているのだが、うまく進んでいない」としている記事については、この注をもって代えさせていただく。もう書いたよ。

*12:角地幸男『ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一』新潮社、2014年、11頁。なお角地によれば、吉田自身はこれを石川淳から聞いたこととして紹介している。

*13:「我々は或るものに打たれるとか、惹かれるとかした時、その原因を求めてその印象を与えたものの正体を探り、そうして得た結果を整理することで我々が受けたもとの印象を再現することを望む。それを言葉でするのが文学であって、その中でこれを意識的に行う形式が批評であると考えるならば、批評と呼んで差し支えない作品を大概この形式に含めることが出来る。」

吉田健一「飜訳論」『訳詩集 葡萄酒の色』岩波文庫、2013年、293頁。

*14:「もちろん、ことばを発するに先だって、他者との関係性をあたうかぎり吟味することは絶対に必要なことだ。だが、私たちの発話の位置を明らかにするのは、そうした私たちの意識的な吟味からつねにとりこぼされる者たち、私たちがその存在を忘却している他者との関係性なのだ。しかし、そうであるからこそ、語ることに意味があるのではないか。」

岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か 第三世界フェミニズムの思想 新装版』青土社、2019年、194頁。

*15:教科書掲載時に改変が加えられている可能性はあるが該当箇所は、三島由紀夫「小説とは何か」『小説読本』中公文庫、2016年、78–83頁。しかし不思議なのは、文章の末尾で雨月物語から〈円位円位と呼ぶ声す〉もあげられていたことである。こちらについては三島は同様の例だと述べるばかりで解説していなかったのだけれど、何が同様なのかよく分からない。当時は雨月物語を読んでいないからかと思ったが、のちに読んでもやはり分からなかった。三島の解説を私が誤解しているのか、それとも理路とは別に単に一文の迫真性を同様と評したのか。

 なお注12および注13で引いた吉田健一聊斎志異を褒めるに際して、似たようでまるで違う展開をみせる。「『ファニー・ヒル』訳者あとがき」池澤夏樹=個人編集『日本文学全集20 吉田健一河出書房新社、2015年、365頁。

その一つが支那の「聊斎志異」で、それでそっちから話を始めてもいい。その何という一篇だったかに、一人の男のところにある夏の夜、お化けがやって来るのがあって、男がお化けを招じ入れて酒に燗をしに行こうとするとお化けが、今晩は暑いから冷やでかまわないと言う。そこに「千夜一夜」についても説明したいことの一切があるのである。

 吉田は物体でなく人間の世界にしか関心がなかったのだと思われる。なお吉田がここで言及している聊斎志異の短篇は「陸判」だろう。私の読んだ翻訳として、中野美代子=訳「生首交換」『新編バベルの図書館6 ラテンアメリカ・中国・アラビア編』国書刊行会、2013年、477–488頁。

*16:

 モノといえば、現在では「物体」という意味をどの辞書も最初に挙げている。しかし、古い時代の基本的意味は「変えることができない、不可変のこと」であった。「自分の力で変えることができないこと」とは、①運命、既成の事実、四季の移り変わり、②世間の慣習、世間の決まり、③儀式、④存在する物体である。

 このほかに、怨霊のモノやモノノケ(物怪)のモノがあるが、これは由来の異なる別語である。

 ①の「運命」という意味はモノオモヒ(物思ひ)という語によく表れている。オモフ(思ふ)とは恋慕にせよ、悔恨にせよ、胸の中にじっとたくわえつづけていることである。モノオモヒは一見オモヒと同じであるが実は違う。[中略]

 男女相逢えば、いかに愛していても、生別にせよ死別にせよ、別れることは必定で、いかんともなしがたい運命にある。それをモノ(運命)ノアハレという。いかに花美しく、紅葉色濃くとも四季の移り行くのは避けがたい運命の悲しさである。これもモノノアハレである。モノアハレ、モノガナシ、モノサビシなどのモノは「なんとなく」と訳されているが、それは誤りである。例えば『源氏物語』若菜上巻で、光源氏女三宮を迎えて世の慣習のとおり三日間夜れなく通う。紫上は経験にないこの事態に「忍ぶれどなほものあはれなり」と思う。「なんとなくさびしい」のではなく、こうした自分の動かしがたい運命が悲しいのである。葵巻の「時雨うちしてものあはれなる暮つ方」とは四季の変化のどうしようもない寂しさに包まれる夕方である。モノの意はこのように「自分にはなんとも仕方のない」なりゆきを表している。

大野晋/白井清子「もの【物・者】」大野晋=編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年初版・2012年4版、1207頁。引用に際し段落冒頭一字下げを加えた。

*17:坂口安吾桜の森の満開の下」などにはその気配がある。

*18:菊池明「籠釣瓶花街酔醒」河竹繁俊=編『総合日本戯曲事典』平凡社、1964年、118頁。

*19:菊池は次のように役者による作品解釈の違いを紹介している。

二世左団次も亡父譲りで演じ、すごみや殺気を中心として殺しに主眼を置いた演出で当り芸であった。初世中村吉右衛門は左団次系とは違ったゆき方で、愛想づかしに重点を置き、田舎者で醜い男が満座のなかで恥かしめられる悲哀、寂しさを強調した新演出で成功を収め、また当り芸の随一となった。

出典前注に同じ。ルビは省略した。

*20:北原白秋「序(「月に吠える」抄)」三好達治=選『萩原朔太郎詩集』岩波文庫、1952年第1刷・1981年改版、60頁。

*21:三好達治「はるかな国から──序にかへて」谷川俊太郎『二十億光年の孤独』集英社文庫、2008年、12頁。原文の改行をスラッシュ/で代用表記した。