西岡兄妹『花屋の娘』そのうえなぜ言葉などに

『花屋の娘』は絵本だ。作者の西岡兄妹は雑誌『ガロ』系統の漫画家として知られるが、それら漫画については私はうまく読めずに、ただ本書だけを手元に置いている。

 一応、以下では本書の展開をすべて明かしていることを、あらかじめ記しておく。

 

あるところに

心が空っぽの人たちが住む

町がありました*1

 本書はこう始まる。事実西岡兄妹の絵は様式化されており、とりわけ眼窩のなかがひと色に塗りつぶされているために、登場人物たちの顔から生き生きした感情を読み取ることが難しい。

 次いで書名になっている、花屋の娘が登場する。

心が空っぽな人たちの心の中を

きれいなお花でいっぱいにしてあげたいと

花屋の娘はそう思いました*2

 そして次の見開きから、花屋の娘の視線の先に、頭に花を挿されたさまざまな人々が描かれることになる。「ゼラニウム バラ チューリップ スミレ」*3……。文章は挿された花の名を並べるばかりだが、絵からは恋人たちの逢瀬、幼稚園、病室など、人々の生活の諸相がうかがえる。ちなみに本の見返しには登場する花々が象徴する意味、いわゆる花言葉が花名と一対一対応で紹介されているから、照らし合わせれば状況をさらに深読みすることも可能だろう。

 しかし、それでも、花屋の娘の企図が最初に語られたときの、飛躍がもたらす一種異様な印象が解消されるわけではない。心が空っぽな人たちの心の中を、きれいなお花でいっぱいにしてあげたいと、花屋の娘はそう思いました。私はびっくりする。どういう因果関係? 「心」が空っぽなのはいいとして、なぜ、何の関係もない「花」でそれを埋めようとするの*4? 疑問をそれこそうずめるように、花の名が順次投げあげられていく。けれども絵本はふたたび疑問に戻ってきて、そこで閉じられる。答えを与えることなく、違和感だけを肯定して。

そうして町は

お花畑になりました

 

空っぽの心

空っぽのまま*5

 

 きれいなお花でいっぱいにしてあげようと思った、という。なぜ。課題への対応がおかしい。けれども、なぜ、と問うほうが愚かなのかもしれない。課題を正しく捉えたうえで、しかも正しい解決手段が自身にとって思案・実行可能である、そんな場合のほうが限られているのかもしれない。たとえ心に無関係だとしても、娘にはお花でいっぱいにすることしかできなかった。あるいはそもそも、心を埋めることより町をお花畑にすることのほうが、娘にとっては重要だった。花屋の娘であるとはそういうことなのだ。

 ところで、しばしば心を満たすべく機能すると見なされているものに、芸術がある*6。まさにいま書物を読まされている以上、まして見返しによって花が言葉と等価にさえされている以上、漂う私の思考は花屋の娘の支離滅裂な行いに、たとえば文芸というものを重ねて見てしまう。空っぽの心を花でいっぱいにする。星を数えて所有する。あるいは、創作しそれを享受する。心が空っぽな私たちの心の中を、言葉でいっぱいにしてあげたいと、作家は/読者はそう思いました。まったく、このうえなぜ、関係のない言葉などに煩わされねばならないのだろう*7

 本書は、本書の存在、書物という営みそのものの虚無を照らし出して、なんの答えも与えないまま閉じられる。私の書棚のなかで、ある日ふとすべてを吸い込む穴として、本書はひそやかにぽっかりと、口をあけている。そうして町はお花畑になりました。空っぽの心 空っぽのまま

*1:西岡兄妹『花屋の娘』青林工藝舎、2004年、2頁。ただし、本書には頁番号が記されていないため、引用頁番号は引用者の判断による。以下同じ。

*2:同4頁。

*3:同6頁。

*4:ここで後年NHKの番組「みんなのうた」にて発表された谷山浩子の歌「花さかニャンコ」を連想することもできる。

*5:西岡前掲書28–30頁。

*6:カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』は私にとって、この論点のどこかシニカルな扱い方が印象に残る小説だった。

*7:

「お前たち人の子は、なんという哀れなものだ。お前たちの生は悩みと苦しみに満ちている。そのうえなぜ愛などにわずらうのだ。分別を失い、心を惨めにするだけだというのに」

 高徳のラビは微笑み、天使を見あげた。天界の秘められた道には明るいが、人の心の道には暗い天使を。

レオ・ペルッツ垂野創一郎=訳『夜毎に石の橋の下で』国書刊行会、2012年、269頁。