真理から剥離する表層:三島芳治『レストー夫人』におけるフキダシ

【三島芳治『レストー夫人』から、表題作および併録短篇「七不思議ジェネレーター」の展開の重要部分を明かしているので、未読の方は注意してほしい。

 前々回につづいて以前ブログとは別に書いた文章の転用で、元は学校の授業で課された小論文だった。最近まだ書き途中のブログ記事で某漫画作品を扱っていたせいか、ふとこの文章を思い出し、蔵出しすることにした。ただあまりに読みづらいので多少修正を加えた。題名もずいぶん生硬だ。それでも蔵出しするのは私にとって重要な関心事のひとつを扱っているからだといえるし、逆に関心事を扱っているせいで気ばかり急いて筆力が伴わず悪文になるとも考えられる(単純に、期日に余裕がなく当時推敲できなかった影響も大きそうだが)。たしかほんとうは淡い望みとして、ここからさらに敬愛するくらもちふさこの諸作に見られる〈主人公の知と世界の全貌の乖離〉というモチーフに話をつなげたかったのだが、先走りすぎて最低限の客観性の気配も成り立たずに諦めた、という記憶がある。

 ともかく前記事の書きぶりのわりには早く新記事を投稿することになった。次回は引きつづき未定で、今回くらいの間隔かもしれないしもっと空くかもしれない。引用画像が複写の過程で傾いてしまっている点は心苦しい。電子書籍からなら、多分もっと端正に複写できるのだろうが。】

 

 三島芳治『レストー夫人』表題連作は全四幕からなる。その第二幕、美しく調和のとれた踊りを披露したあとで、クラス劇の主演女生徒・志野は、同級生からの称賛にこう答える。

踊り﹅﹅はね 身体を不自然にすればいいの」

「ふしぜん?」

「たとえば 「完全に止まる」 それだけでも踊りよ」*1

たとえば22頁1コマ目に見られるような、動きの描写の確信犯的な放棄、あまりにも「止ま」った記号的で「不自然」な絵を思うとき、志野の言葉はそのまま、表題作それ自体の創作原理のようにきこえる。この作品は、〈不自然〉をめぐって描かれている漫画なのだ。

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「【第一幕】記録係」22頁1コマ目

 不自然であるとはどのようなことか。志野はその苦しみをこう告白する。

「外の世界に出てもいつもお話の中にいるような気がして 自分の言葉もぜんぶ劇の台詞みたいに聞こえる」*2

不自然であるとは、言動が真理としての〈内面〉を持たないことだ。しかし志野は、級友スズキによる自らの言動の記録を読んだとき、そこに自然な〈内面の表現〉を発見する。

「でも スズキさんの書いた記録の中の私は よく笑ったり 得意になったり 気取ってみせたり 意地悪したり ちゃんと自分で 毎日いろんなことを思っているようにみえたの」

「それってぜんぶ 志野さんが自分で思ったことだよ」

「……」*3

実のところ内面とは、内面の自然な発露と仮定された言動を通して、遡行的に幻視されるものに過ぎない。静止画にすぎないコマの連続を通して、それらを貫くキャラの動きが遡行的に幻視されるように。〈内面〉〈動き〉といった真理が、表層的には〈言動〉〈静止画〉として発露している──そんな滑らかな連絡を仮構することで、表層は真理という起源から説明され、自然さを獲得する。裏返せば不自然とは、表層が遡行すべき真理から剥離して、裸形で浮遊している状態にほかならない。

 この真理と表層の剥離が、漫画表現上きわめて興味深い形であらわれるのが、「【第三幕】アキリノとユーフラシー」である。喋らない生徒・鈴森がクラス劇「レストー夫人」のユーフラシー役に抜擢された結果、腹話術のできるアキリノ役・井上が、ユーフラシーの台詞も担うことになる。志野の提案により井上はさらに学校生活全般にわたって鈴森に声をあてることになるのだが、この常識では考えられない事態を本作において成立させているのが、フキダシという漫画表現上の慣行なのだ。

 75頁を引こう。通常のフキダシが一重線で囲まれているのに対して、井上が担う鈴森の声(ユーフラシーの台詞)は二重枠のフキダシで表現される。またクラス劇中の台詞がフキダシ内で鍵括弧をつけて表現されているのに対して、80頁のような日常生活における発話には鍵括弧が附されていない。

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「【第三幕】アキリノとユーフラシー」75頁

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同80頁


 ここで読者側に起きている作品享受体験、より具体的にいえばフキダシの機能のしかたを理解する上では、宮本大人が戦前の漫画『出世日吉丸』についておこなっている指摘が有用だ。『出世日吉丸』には作中の泣き声の主を誤認させるトリックが仕掛けられているが、種明かしの際それが素直に受け入れられるのは「結局どんな声か分からないという、セリフと吹き出しによる音声表象の限界が逆手に取って活かされている」からであり、「この泣き声自体がどのような声かわからないという点は、現に声が聞こえてしまう映画では不可能」だというのだ*4。鈴森に井上が声をあてる、という事態にも、同じことがいえるだろう。とりわけ井上が自身演じる鈴森と会話する状況は、実際に声が聞こえるならば、読者にとってリアリティをもって成立することは考えがたい。もしも両者の声が同質であれば会話は茶番にしか聞こえなくなるし、もし異質であれば、両者の声をともに井上が担っているという前提の方が説得力を失うからだ。フキダシが実際には声を表象していないことこそが、会話とその前提の両方を、同時に読者に受け入れさせているのである。

 フキダシについてもうひとつ重要なのは、そのキャラ図像*5への帰属関係が、本来的にあいまいだという点である。中田健太郎は、漫画においてコマが画面外に広がる作品空間をカメラのように切り取る「フレーミング」の機能を担っているのに対し、コマの紙面上の配置やコマの内部でのフキダシ・効果線等は、外部空間に連ならない閉鎖系としてシールのように重ねられる「レイヤリング」の論理に従っている、と分析した*6。コマの作品空間とは異質な論理に従っているフキダシは、本来的にはコマ内部での位置づけを定められず浮遊しており、読者はフキダシと作品空間(内のキャラクター)との関係を、究極的にはその都度判断するしかない*7。かかるあいまいさをある程度解消するための方策として、各フキダシから伸びるいわゆる〈しっぽ〉によって作品空間においてその〈声〉が聞こえてきた方向を示し、キャラクターへの帰属関係を明瞭にする、という通例が存在しているものの、フキダシにしっぽがないことも珍しくはない。

 さて、『レストー夫人』の場合はどうか。『レストー夫人』におけるフキダシには基本的にしっぽが用いられているが、井上演じる鈴森のフキダシにはしっぽが存在しない。これはひとまず、先述した声の非表象と同様に捉えることができるだろう。井上演じる鈴森の声が、井上の方向から聞こえても、鈴森の方向から聞こえても、状況は成立しがたい。だがそれにしても、単に〈どちらに帰属するかわからない〉だけのことなのか。声の非表象にしても、〈どんな声かわからない〉のはそれが〈そもそも声ではない〉からだったことを思い出してほしい。むしろここで前景化しているのは、前段落で述べたように、フキダシが作品空間中のキャラクターに〈そもそも帰属していない〉という、フキダシの本来的な浮遊性、異質性ではないだろうか。

〈井上〉と〈井上演じる鈴森〉を私たちが〈聞き分ける〉ことができるのは、作品空間に紐づけられているからではなく、両者が異なるフキダシを用いているからだ。ここでいいたいのは、フキダシの枠線が一重か二重かで異なるという、本作に特殊な表現規約のことではない。それ以前の問題として、両者の聞き分けが可能となるには、あるいは漫画一般において二人の登場人物の発話の聞き分けが可能となるには、フキダシという枠が言葉を分離している必要があるのだ。その意味では枠線の違いはむしろ、一旦井上から分離した〈井上演じる鈴森〉を、にもかかわらず井上にもまた帰属させるためにこそ導入されているともいえる。

 かかる分離の機能を理解する上では、フキダシが消失した場合の効果と対比することも助けとなるかもしれない。鈴木雅雄は『ベルサイユのばら』におけるフキダシの消失を分析して、次のように述べる。

[前略]もはやそれが実際に発せられた言葉であるかどうかなど問題ではなく、恋人たち二人は互いの思考を何一つ包み隠すことなしに共有しているというのが、読者の印象なのではなかろうか。[中略]フキダシから解放された言葉は、物語世界で「実際に」発話されたものとしてのステイタスを失うことなしに、誰かに聞き取られた主観的な言葉としての権利を勝ち取ってしまうのである。*8

フキダシの消失とともに客観的な音声としての言葉の輪郭もまた消失し、それは誰かによって聞き取られた、聞き手自身の真実の言葉となるだろう。*9

フキダシの枠から解き放たれた台詞によって表現されているのは、発話者と聞き手のあいだで起こる、真理としての内面の無媒介な共有である。裏を返せば、フキダシによる分離はそれを押しとどめ、聞き手そして発話者の真理からの言葉の剥離として機能しうる。そうして剥離した言葉同士もまた、フキダシによる分離によりその属性を簡単に操作される。〈聞き分け〉はそのように、起源から剥離し浮遊するフキダシにおいて初めてなされるのである。

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「【第三幕】アキリノとユーフラシー」85頁1–3コマ目

 85頁中段左のコマにおけるフキダシを見てみよう。鈴森のいない職員室において、しかし二重枠で囲まれしっぽをもたないフキダシに収められた言葉「はい先生」は、井上の内面との連絡を拒否する。ここで井上は演技をしているのではあっても鈴森に代表される他者として発話しているわけではないから、この漫画がこれまで示してきた表現規約に従うならば、一重枠のフキダシ内の台詞に鍵括弧を附すほうが厳密かもしれない。だがここではむしろ、〈井上〉として鉤括弧においてアキリノを演じることと、二重枠において〈鈴森〉として発話することとの共通性に焦点を当てることこそ意図されているのだろう。つまるところどちらも、フキダシという、真理から剥離した〈不自然〉な表層において成り立つ。そして井上が〈井上〉として発話するからといって、その剥離を逃れることはできないのだ。

 

 

 この〈不自然〉が三島の創作原理であることはたとえば、表題連作以前に発表された同書所収の短篇「七不思議ジェネレーター」最終コマにもうかがえる。

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「七不思議ジェネレーター」174頁

 このコマでは、七沢というキャラクターの顔が描かれている。キャラクターの顔のクローズアップには通常、大きくいって二つの機能が考えられるだろう。一つは表情を描くことで描かれた人物の気持ち、すなわち内面を表現し読者に伝える機能。もう一つはコマの連続の中で描かれる対象との距離感をモンタージュ的に変化させることで、躍動感を生み出す機能。しかし三島によるこのコマは、そのどちらとしても機能していない。あまりにシンプルな絵に「・その時の七沢の顔」というキャプションが附されることで、それはただ「顔」であると強調される。表情こころのあらわれと呼ばれていたものを、裸形の顔面に返すのだ。

 このキャプションはその特殊な書体フォントから、単に語り手「ぼく」によるナレーションではなく作中でなされてきた七不思議紹介の一環である、すなわち「その時の七沢の顔」は七不思議の一つであると判断できる。そしてこの短篇では七不思議はあくまで見つける対象であり、解き明かす対象ではない。七沢の顔という表層から内面という真理への遡行を、読者に試みさせないこと。そこにこの短篇の本質がある。──本質? しかし本質とはつまり、真理ではないのか。

 ここには危険な捻れがある。さきほど私は志野が「告白する」と述べたが、告白が起きるとしたら、そこで告白されるのは内面ではないのか。85頁における井上の二重枠フキダシも、〈「はい先生」と答えることに不服である〉という内面の真理を明確に発露しているのではなかったか。『レストー夫人』表題連作はつまるところ、真理から剥離した表層という〈不自然〉を内面の真理に据えて展開される物語なのではないか。三島の作品は、〈真理への遡行不能性〉を〈真理〉として享受させる矛盾を抱え込んでいる。

 しかしこの矛盾は自覚して用いる限り、必ずしも欠点とはいえないだろう。「七不思議ジェネレーター」は作品自体の〈真理〉に〈不自然〉を据えることで不条理劇風に展開したが、表題連作はキャラクターたちの内面の〈真理〉に〈不自然〉を据えることで、その矛盾をキャラクターの心理的葛藤として自覚的に組み込み、彼らを統合する物語の水準では強い訴求力を持つ叙情性を獲得している。『レストー夫人』表題作の類まれな達成は、〈真理〉と〈不自然〉の緊張関係においてこそなされたのだ。

*1:三島芳治「【第二幕】デルフィーヌ」『レストー夫人』集英社ヤングジャンプ・コミックス、2014年、46–47頁。以下同書からの引用に際しては、出典として短篇名と頁番号のみを記す。ただし画像については必要に応じコマ指定を追加する。

*2:「【第一幕】記録係」29頁。

*3:同29–30頁。

*4:宮本大人「漫画を「聴く」という体験──漫画における音声表象の利用についての歴史的素描」

鈴木雅雄/中田健太郎=編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』水声社、2017年、268頁。以下当記事における引用は、三島作品からおよび注5の朝日新聞からのものを除きすべて本書所収の論文を出典とするため、以下それらの出典表記に際し本書書名を省略する。

*5:「キャラ図像」は、伊藤剛の理論を岩下朋世が整理して生んだ用語。岩下「「マンガと見なす」ことについて──「体験としてのマンガ」と少女マンガ様式」118頁注5、および伊藤「多段階フレーム試論──目のひかりからコマへ」332頁注5参照。当ブログではこちらの記事の注6など、これまで何度か伊藤・岩下のキャラ/キャラクター論に言及している。

 ちなみに伊藤は『レストー夫人』を賞賛して次のように述べている。当記事にとっては耳が痛い。

またたとえば、異様に寡黙な少女が、ほかの生徒の腹話術であたかも会話しているかのようにみえるという挿話もある。これはどの身体にどの心が宿っているのかが判然としなくなるという話だが、マンガという表現装置の特性が、その「判然としなさ」を自然に見せている。つまりこのように、本作は「マンガで物語ること」の批評的言及でもある。

 だが先に記したような感慨──品のよい修辞に彩られた悲しみとも喜びともつかない感情といったもの──を語ろうとすると、物語中の言葉の何倍もの言葉が必要になる。登場人物の寡黙さとは裏腹に、野暮な饒舌を繰り返すわけだ。

 お望みならば、批評と呼ばれる文章を書きもしましょう。ただこの作品と同じくらい美しく繊細な切なさをまとえる自信はないのだけれど。

伊藤「茶話 マンガ 簡素な物語に宿る感情」朝日新聞2014年7月5日夕刊東京本社版、3頁。

*6:中田健太郎「切りとるフレームとあふれたフレーム」335–362頁。

*7:この点については、細馬宏通が具体的な作品をあげつつ検討している。細馬「吹きだしの順序と帰属について」151–175頁。

*8:鈴木雅雄「フキダシのないセリフ──私はあなたの声を作り出す」143頁。角括弧[]内は引用者による注記。

*9:出典前注に同じ。