真面目な狂気:宮沢賢治・後篇「グスコーブドリの伝記」ほか

 図らずもいましばらくの紙幅が与えられた。ついては、ネネムをめぐって述べたような言葉の魅力とはまた別の面に触れねばならない。たとえば、作品から浮かびあがる思想や人物、いわば〈宮沢賢治〉の読み解きである。

 しかし困ってしまう。私には〈宮沢賢治〉が全然わからないのだ。わかる人、いるのだろうか。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です   (「序」『春と修羅』)

 きわめて散文的な感想だが、「わたくし」がそんなに不安定なものかと慄然とする。不安定というと少し誤解を招くかもしれないが、とにかく「現象」なのだ。

「わたくし」はそういうものでしかないから簡単に自己犠牲する。グスコーブドリのように。道徳的で立派、だろうか。しかし、自分ではなくあらゆる「わたくし」を同様に犠牲にできてしまうとしたら?

声のいゝ製糸場の工女たちが

わたくしをあざけるやうに歌って行けば

そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が

たしかに二つも入ってゐる   (「薤露青」)

 賢治が妹トシの死に深い衝撃を受けたことは知られているが、ここでは死んだ妹が二人に増えているように見える。かけがえのない存在が、二人に増える。妹の「わたくし」もまたそうありえてしまうものなのか?

 しかし一方で賢治は自分を修羅と呼ぶような肥大した自意識の持ち主でもあったし、悪意を何の救いもなく書いたりもした。伝記的事実に目を向ければ、法華経を信奉して浄土真宗の父親に改宗を迫ったわりに、作中にはキリスト教的モチーフを大量投入する。その全てがきわめて真摯。一体どうなっているのか。

 こうした理解しがたさを、非合理とか詩的とか呼んでも済まされない。その世界像は単にファンタジーとして発露されたのではなく、科学さえ飲み込みながら、現実たろうとするのだから。「グスコーブドリの伝記」の結末、冷害による飢饉は火山の人工爆発による温室効果ガス放出で解決される。その深い信頼と祈りに、作中の解決策がむしろ科学が引き起こした問題と捉えられている現代を生きる我々はおののくしかない。

 

前回につづく後篇、こちらも一部表記を修正した転載。思い入れのせいか、事実上既読者のみを相手にした書評になっているなど、やや内容の圧縮が強くかかりすぎているかもしれない。一連の書評のなかでは珍しく、書評対象作品「グスコーブドリの伝記」の展開の重要部分を暴露してもいる。

 引用の二つの詩は、宮沢賢治天沢退二郎=編『新編宮沢賢治詩集』新潮文庫、1991年発行・2011年改版、19頁および183–184頁。ただし引用に際しルビを省略している。「グスコーブドリの伝記」収録書籍としては、宮沢賢治『新編風の又三郎新潮文庫、1989年発行・2011年改版。「薤露青」の引用箇所は私にとって重要なイメージで、〈自己の価値への問い〉、より詰めれば〈かけがえのなさの軽やかな毀損〉としての分身のモチーフは、吉野朔実や『嵐が丘』、ルイス・ブニュエルあたりに顕著な私の執着の中核をなしている。反覆可能なものとしての言葉への私の興味も結局はこの問いのひとつのあらわれであり、あるいは、この問いが結局のところ言葉への執着のひとつのあらわれである、のだろう。そのうち記事かなにかにできたらいいと思う。【8月29日追記:一応書いてみた。たしかに二つも入ってゐる:エミリ・ブロンテ『嵐が丘』ほか - 人間の話ばかりする

 今回、転載したい書評記事を複数発掘したので、しばらくそれなりの頻度でこのブログの更新が行われるかもしれない。昔の私はいい文章を書いている。】