楠本まき『KISSxxxx』幸せを語ること

 ──そしていつまでも幸せに暮らしました。

 そんな一文で物語が閉じられるのを初めて聞いたのは、いつだったでしょう。あんまり使い古されていまや本来の意味を失いそれ自体パロディ化してしまったような、たとえば太宰治の「古典風」などを想起してしまう文言ですが、それでもこの文には何がしかのまじめな悲しみが含まれているような気もします。それはたとえば、幸福は物語にならないのだ、ということなのかもしれません。こう閉じられる物語を選ぶとき人は、私たちがみな幸福を求めていること、だから幸福を求める不幸な道行はくりかえし語られること、そして幸福が見出されたのちのことはもう私たちには届かないのだということ、それらをけして変えられない前提として生きています。幸福を求めるといいながら不幸の側にしか身を寄せられない物語る人々、それとも物語られる人の語られることのなかった幸福、それとも別の何かが、ほんの少し悲しいのです。

 

『KISSxxxx』は、そののちの幸福を描く作品です。

 1988年、雑誌『週刊マーガレット』で連載を開始したそうです。女子高校生のかめのが、兄のバンドのボーカルであるカノンと出会います。カノンがかめののピンチを救ったり、事故でキスをしたり、カノンがはじめての感情に当惑していたら友人にそれは「好き」という感情だといわれたり、恋愛をめぐる少女漫画の定型表現をやりすぎなくらい踏んで、2人が恋人同士になるまでを描く……かと思いきや、第3回で2人は晴れて恋人同士になってしまいます。全60回以上あるのに。

その後、誤解によるすれ違いとかライバル登場による三角関係とかの波風は2人のあいだに全くといっていいほど立ちません。2人ともとぼけ倒した性格をしており(特にかめのは今なら天然とか不思議ちゃんとか呼ばれるのでしょうか)、相手に振り回されながらも気にせず一緒にいるので、無理に理解しあおうとすることから生じるすれ違いがない。それでいて、馬鹿の一つ覚えといいたくなるくらいにまったく揺らがない好意をお互いに抱いているので、第三者がちょっかいを出してもたかだか8頁もすれば撃退されてしまいます。

 それでも序盤は殊更に愛を強調しているあたり、読者によっては辟易するかもしれませんし、かえって2人の──あるいは、定型から外れることへの作者の──不安を感じなくもないですが、回が進むにつれて2人の柔らかな関係を描くだけになっていきます。2人は出会い、そしていつまでも幸せに暮らしました、まさしくそんな具合に、そののちの幸福を繊細に描き切っていくのです。

 

 そんな繊細な業を可能にしているのは、しかし、その幸せな日常と表裏一体の異質なものの気配なのだろうと思います。言ってしまえば、死の気配のようなものを感じるのです。といっても、作中に特段死への言及があるわけではありません。2人の日常会話におけるカノンなど、むしろ死について、淡く怠惰な憧れのようなものを感じさせる夢想的な発言をしています。

 それでは何が異質なものをもたらしているのか。ストイックな絵ではないかと思います。この漫画では、内容が日常にフォーカスしていくにつれて、絵が白と黒の2色だけになっていきます。もちろん元からモノクロなのですが、灰色がどんどんなくなっていく。そしてもともと描線が細いのに加え、ときには輪郭線を排し、黒の欠損によって白い部分が浮かび上がるカニッツァの三角形のような絵まで現れます。黒と白だけの、純度の高い世界。その美しさ、純粋さが呼び込む緊張感、死の気配のようなもの。それが幸せを語ることを可能にし、この作品を成り立たせているのかもしれない、と思うのです。

 

 全5巻のこの選集の他の巻を読むと、作者がその絵の緊張感をストーリー他にまで全面展開した作品を読むことができます。それらが異様な完成度を誇ることは疑いようもないですが、一方で幸せを語るためにこそその絵が発揮されたこの作品も、やはり捨てがたいと思うのです。ここまでの紹介では固っ苦しいなあと思わせてしまったかもしれませんが、酔ったカノンが「桜の樹の下には死体が埋まっているんだよ」と言えばかめのが「坂口安吾?」と返す、そういうとぼけたところもこの作品の魅力なのです。

 最後に。昨年、作者は久方ぶりに日常を描いた『赤白つるばみ』を出版しました。買いです。

 

引きつづき書評の転載(数字修正している)。対象は『楠本まき選集』全5巻(祥伝社、2006–2007年)より、『KISSxxxx』にあたるⅢ・Ⅳ巻。なお巻末の初出情報をみると途中で掲載誌『週刊マーガレット』は『マーガレット』として再出発しており、そのあたりはⅣ巻あとがきにも触れられている。

「昨年」とある『赤白つるばみ』は上巻が2014年末、下巻が2015年に刊行だから、この書評が書かれたのは2016年だろうか。私は雑誌文化にはあまり馴染みがないけれど、『赤白つるばみ』の連載誌『Cocohana』が同時期にくらもちふさこ花に染む』も掲載していたと知ったときは、恐ろしいと思ったものだった。なお2020年に続編『赤白つるばみ・裏』が刊行されている。

 普段は頁の半分の書評欄がこのときはまるまる1頁あったので、長くなっている。ですます調を採用したのも、正確には覚えていないが、多分このとき限りではなかったか。若干ナイーヴではあるものの、楽しそうな文章だ。内容が作品評として適切かというと正直言い得ていない感もあって、まあなんでもいいからとにかくこの清冽な黒を一度見てほしい、ということになる。下に例として、低質な複写に過ぎないが、Ⅳ巻134頁の上部を引いておく。

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楠本まき楠本まき選集』Ⅳ巻、祥伝社、2007年、134頁上部。