詞華集1

 慄然とする暇もなく、坊やは無事なことが分かりました。まさに危機の一瞬に、ちょうどヒースクリフが真下にさしかかったのです。彼は落ちてきたものを反射的に捕まえると、立たせてみてから、こんな事故をひきおこした主は誰なのかと、上を見ました。

 宝くじの券を五シリングで手放してしまったケチな人が、翌日になって、ご丁寧にも五千ポンドも損したことを知ったときでさえ、ヒンドリー・アーンショウを見上げたときのヒースクリフほど、呆然とした顔を見せはしなかったでしょう。その表情はどんな言葉よりもはっきりと、まさに自分が復讐できたものを台無しにしたという、この上ない悔しさを語っていました。もしも暗かったなら、おそらくヒースクリフは穴埋めをしようとしてヘアトンの頭を階段に叩きつけ、つぶしてしまったのではないでしょうか。でも、ヘアトン坊やが助かったことは、あたくしたちが見ておりました。あたくしはすぐに下へ降りると、自分の大切なおあずかりものをかたく胸に抱きしめていたのでございます。*1

  There was scarcely time to experience a thrill of horror before we saw that the little wretch was safe. Heathcliff arrived underneath just at the critical moment; by a natural impulse, he arrested his descent, and setting him on his feet, looked up to discover the author of the accident.

  A miser who has parted with a lucky lottery ticket for five shillings and finds next day he has lost in the bargain five thousand pounds, could not show a blanker countenance than he did on beholding the figure of Mr Earnshaw above — It expressed, plainer than words could do, the intensest anguish at having made himself the instrument of thwarting his own revenge. Had it been dark, I dare say, he would have tried to remedy the mistake by smashing Hareton's skull on the steps; but, we witnessed his salvation; and I was presently below with my precious charge pressed to my heart.*2

 ヒースクリフとヒンドリーは、語り手の家政婦ネリーも含めて同じ家に育ちながら、互いを激しく憎みあっている。息子ヘアトンの誕生と引き換えに愛妻を失ったヒンドリーは身を持ち崩し、ある夜酒に溺れたはずみに赤子のヘアトンを抱こうとして階上から取り落としてしまう。これにつづく場面が上掲引用部である。

 私は自らを律することが苦手であり、それは己の行動がどのような結果をもたらすかという、とくに外界への想像力が希薄であることと連動しているのだろう。かかる自身の性質ゆえに私は人間一般についても、反省的な意志に従うものというよりは惰性というか、意志によらずに動いてしまう性質のものとして思い描く。現実には意志の力によって行動する人々、また人間を意志に基づき行動するあるいはすべき存在として思い描く人々が、かなりの数いることは承知している*3。ただ私に思索の綱となるのは前者の人間像のようだ。

 ところで悪意も一つの意志であるから、私は性悪説をよく分からないままでいる。怠惰による身勝手と違い悪意は外界への思いりの産物であり、抱くには不自然な精力が要る。善行悪行を問わず、惰性の範囲を超えたことを為すには強靭な意志が必要であるし、並々ならぬ意志をもってそれを遂行する最中にも、ふとした油断の隙に自身の惰性が目論見を台無しにしてしまう。私は、人が意志でなく惰性で動いてしまうそんな一瞬を表現した作品に惹かれる。特に、人のなかの自らを律しようとする部分がただちに取り返しのつかない過ちに気づき悪態をつく、そんな姿を好んでいるようだ。

 掲出の箇所もヒースクリフがその悪意を油断させていた瞬間を描いて印象深い。まこと、自己を律するとは容易な業ではないのだ。

*1:E・ブロンテ、小野寺健=訳『嵐が丘』上巻、光文社古典新訳文庫、2010年、164–165頁。

*2:原文で読んだことはないが、たまたま部屋にあったので引用してみた。Brontë, Emily. Wuthering Heights. Ed. Pauline Nestor. Penguin Books, 2003 reissued, p. 75.

*3:多数派である、とまで言い切っていいのかは分からない。私は出会う人の多くに、自分と異なるそのような性質を見出してきたが、それは摩擦が生じた例のほうが認識しやすく記憶にも残るからではないか。自分を少数派と断じるだけの眼力と必要が私にはない。あったら外界への想像力が希薄であるとはいえないだろう。