韻文

考察のために色々復習してたときに思ったけど、ちとせストーリーコミュのこの辺の蘭子の言葉ってカッコの中で読んじゃダメな気がする。蘭子がここでちとせに伝えたいのは蘭子語の方だと思う。蘭子のアイドル観と言うか。

 人が韻文をやる理由が裸形で辿りなおされていて、はじめてこのツイートを見たときはちょっと感動してしまった*1*2

 辿りなおされていく道筋には大抵足を止めるべきものが落ちていて、私の場合、「ちとせに伝えたい」の辺りでとどまることになる。伝えるというのはしばしば、形を伝えることだったりする。それでもここで韻文は、目の前のひとりに(別にひとりでなくても構わないのだけれど)、即時に、何か思いと呼ぶべきものを伝えることが願われていて、私は言葉というと書かれた文章を想定してしまうのだけれど、書かれた言葉は本来的に間に合わないことを容認していて、いま物語はそういう諦めを蘭子の韻文に許さない。「さあ、我が手を掴むがよい!」という蘭子は直ちに掴まれたいに決まっており、だから〈伝える〉という語がまとう一方向性の先を晴らせば、この韻文は会話のために発されている、ということになる。

 そうして事実、蘭子の韻文を解しているかのようなちとせと蘭子は会話を続けていくのだけれど、やはり私をほのかに驚かせるのは、ちとせが自らは蘭子ようの韻文を用いず、蘭子もそれを当然のこととと受け容れている様子だ。二つの言葉が互いに介入せず、させずに会話は続く。ならばなぜ韻文を選ぶ必要があるのか、あるいは、それで受け止められていると信じられるのはなぜなのか*3。私は大体その辺りを歩いている。いつか私にも分かる日が来るといいと思う。

*1:このツイートの内容を押さえるためにはその言及対象への知識はさして必要ないようにも思われるし、そもそも私自身ここで言及されているゲームをプレイしたことがないのだけれど、念のため私の認識による背景情報を付記する。

 当該ツイートにおいて画像添付とともに言及されているのは、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ』中の物語群「ストーリーコミュ」の一つ「Story of Your Life」で、アイドルを続けるべきか迷っている主人公の黒埼ちとせに、同僚の神崎蘭子が呼びかける場面である。蘭子は「魔王」「闇の眷属」等と名乗り、ファンタジー的世界観や俗にいうゴスロリ趣味によって自己を表現しているアイドルだ。病弱で蘭子より年長のちとせは自らを吸血鬼と称しており、蘭子に好感を抱かれている。

 蘭子は日常会話においても、プレイヤーから「蘭子語」等と名指される比喩的な独特の言語表現を多用する。そこで物語中のテキストのみを表示する「ログ」と呼ばれる機能においては、蘭子の台詞の後ろにしばしば、ゲーム本篇では発声されていないより一般的な表現への置き換えが、括弧に入った形で補足されている。

 ツイートに添付されている画像は、上述の場面におけるログの画面を撮影したものである。たとえば蘭子はちとせに「まだ、私を必要として……? どうして……。」と問われて、「夜の闇のなか、《幻想》に生きる同士として。宿命を授かって生まれし者よ。闇の眷属として、その《力》を再び世界へ示すがいい!」と答えているが、ログはこの台詞が「仲間だもん! 私といっしょに歌ってください!」と置換可能である、と主張しているわけだ。

*2:ここで私は「韻文」の語を用いているが、語の本義に従う限り、蘭子の台詞は韻文ではない。詩と名指す方が穏当なのだろうが、あまりに親しまれた詩という名指しはしばしば言語意識を欠いた詩的イメージとの同一視に無防備であると思われて、あまり使いたくなかった。

通常なにげなく用いている「voie lactée」という表現[直訳すると「ミルク色の道」、天の川を指すフランス語]が、外国人の視点で二語に分解されるとき、指示対象とは異なるあるイメージが現れ、そのために伝達は一時的に中断する。とはいえ、注意しておこう、「詩的な」とそれこそナイーヴに形容される天の蔓やミルク色の道のイメージが、「詩の神秘」ないし「詩の鍵」なのではない。ブランショマラルメやポーランを介して接近する「詩」とは、そのような分かりやすいバシュラール的な「詩的イメージ」とはほど遠いものだ。「詩」は「詩的イメージ」に存するのではなく、「言語のショート・サーキット」という現象自体に存するのである。

郷原佳以「言語のショート・サーキット マラルメとポーランが出会う場所」『現代詩手帖特集版ブランショ2008 ブランショ 生誕100年──つぎの百年の文学のために』354頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

 本当は私はそれを単にことばと呼んで済ませたい。けれどもそれではあまりうまく届かないようだ。修辞とかあやとか呼べばまだしも伝わるのだろうか。

*3:

十七世紀から二十世紀にわたり、マーサズ・ヴィニヤード島に孤立して暮らしていた人々は、その身のうちに耳の聞こえなくなる遺伝子を蓄えていた。島では音声言語と手話が同等に利用され、のちの聞き取り調査によれば、島の誰もが、自分の記憶する噂話うわさばなしが、口語を経由したものだったのか、手話を経由したものだったのか全く思い出せなかった。

円城塔『これはペンです』新潮文庫、2014年、52頁。