私をつくった10冊あるいは10節

 どれほど違いがあるかは別にして、題に従うなら〈最愛の〉でも〈お勧めの〉でも(どうやら〈私をつくる〉でも)ないらしい点は一応触れておきます。冊子形態にこだわらない点を除き、できるだけ題に即したつもりです。有用性は仮想二題の方が高いでしょうが、つまるところ私の関心は、私の、私に映る世界の、私の読み方の機序なのだと思います。

 

1.宮沢賢治ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記

〔冒頭原稿数枚焼失〕のでした。*1

 言葉が自律した物体オブジェだと教えられるのは、言葉と読者わたしがいつかそれぞれの仕方で筆者を裏切ると教えられることでもありました。もちろんあるいは、読者を、言葉を、他の者たちが。友人とは他人で、つまりは裏切る存在ということになります。裏切らない存在をどうして友と呼べるでしょう?

2.笈川かおる『学習漫画 世界の歴史11 市民革命とナポレオン』

だれもあなたに感謝かんしゃしないだろう あなたはみんなをまちがった方向ほうこうへつれてきた

このくにはいま絶望的ぜつぼうてきだ こんなものがあなたの理想りそうだったのか*2

 世界史学習漫画シリーズの一冊。当然ナポレオンが、けれどもこの漫画のロベスピエールとなによりクロムウェルが、こう口にすることが許されるなら、好きでした。神の手として理想の実現に努めた生涯を感謝しながら息を引き取るクロムウェル、その枕辺でなされる如上の独白が、呪いとしてずっと私の耳を魅了しているのだと思います。おまえは必ず間違っている、と。

3.速水侑=監修『図説 あらすじで読む日本の仏様』

如来〉とは「真理の世界から来たもの」という意味のサンスクリット語、タターガタの訳で、「真理に目覚めたもの」を意味するブッダ仏陀、仏)と同義。飛鳥時代には釈迦如来薬師やくし如来阿弥陀あみだ如来が知られていた。

〈菩薩〉はサンスクリット語のボーディサットヴァの音写〈菩提薩埵ぼだいさった〉の略で、「如来のさとりをもとめるもの、如来となる資格をそなえたもの」を意味する。*3

 各見開き二頁に来歴逸話を圧縮展開し入退場していく仏たちがもたらす、ボルヘス的な要約あらすじマジックリアリズム。真理を言葉で指示しようという試みが言葉の指すものとして言葉を据えるに至る転倒執着フェティシズム。言葉とともにあって全てがエキゾチックに見えるようになったのは、実はこの易しい百頁余りのムック本のせいだったのでしょうか。

4.舞城王太郎ディスコ探偵水曜日

世界は人の信じるように在り、その世界観は絶えず他人によって影響され、揺らいでいる。*4

 卓越した個人の信念が世界を捻じまげる、というのはクロムウェルの主題でしたし、相互に侵食する個人の意志たちのうちにやがて奇怪な実体が幻出し場を支配する、というのはロベスピエールの主題です。そして両者を包含して、観念の(文芸の、といっても構いません)現実に対する優越を問うのが推理小説、ということになります。かかる主題を露わに説いてくれたのがこの危うく偏執的な、しかし紛れもなく希望を叫びつづける小説だったのは、きっと私にとって幸運なことでした。

5.倉橋由美子パルタイ

あなたは眼鏡を光らせすぎるので、そのむこうにある肉眼の表情がわたしにはよくみえない。あなたの歯ががちがちと鳴るのは、できのわるいガイコツの咬合こうごうをみるようであり、あなたは不自然なほど興奮していたにちがいない。わたしはおもわず動物的な笑いをもらした。*5

 知人の私に対する評で記憶しているものが二つあるのですが、その一つは私の言語作品に対する〈体の部品が散らばっていて理科室のようだ〉という言葉でした。思えば倉橋から私が学んだもののひとつの顕著なあらわれなのでしょう。このエキゾチックな世界を随分生きやすくしてくれました。

6.朱天心『古都』

 時速一〇〇キロのスピードで関渡口クワントゥーコンの参道口を突き抜けると、大きな河が眼前に広がる。そのたびにあなたたちは妙に感動して、深々と川風を吸いこんだりしながら、初めてここに来た友だちにこう言うのだった。「どう、長江に似てるでしょ?」*6

 台北に暮らすあなたも友だちも、多分長江を見たことはないはずです。台北から長江や地中海を透かし見て、京都から台北を透かし見て、触れられない彼方を透かし見ていた過去をいま魔法のように透かし見て。世界を豊かにする引用の手法は、けれどもあなたを現在地から削ぎ落としてしまう租界の迷路のようでもあって、見たことのないあなたの日々の追憶をこんなに感じてしまうのは、何かがおかしいのではないでしょうか。

7.『日本幻想文学集成16 吉田健一

その向うの町角に石の建物が突き出てゐてそれとこつち側の石の建物に挟まれてそこから曲る別な道の入り口が見えるのはその午後の光でも曇つた空の下に雨に打たれてゐる静寂に包まれた眺めだつた。*7

 冗談を真顔で告げることがコメディアンの要件だとすれば、書き手でいることはコメディアンたるための顕著な近道です。そしてコメディアンでいることが、真顔ではできないくらい真面目な話を真顔で告げるための、唯一の手立てになることもあります。

8.フリードリヒ・ハイエク『隷属への道』

個人主義哲学は、通常言われているように、「人間は利己的でありまたそうあらねばならぬ」ということを前提としているのではなく、一つの議論の余地のない事実から出発するのである。それは、人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分にすぎないということである。*8

 欠陥を手掛かりにそれを包容する規範を導くことはきっと当たり前の営みなのですが、それにしたって、分からないという諦念のはずのものがいつのまにか確定的ポジティブな主張にさえ見えている様は手品のようで、衝撃を受けました。

9.野尻英一「美と弁証法

一方で、おそらく子供の頃は、桜の花などにさして興味もなかったし、抒情なども感じていなかった。もちろん生きている日々の暮らしの中で、たとえば小学生としての生活の中で、家庭でも学級でも、うれしいことや悲しいことがあり、感情の浮き沈みというものはある。それは桜の花とは別のところにある。けれども、桜の花は街や学校のあちこちに植えられて、そうした暮らしの中での感情の浮き沈みの経験と同時に、桜の花が毎年、悲しいことがあってもうれしいことがあっても、きっちりと咲くものは咲く、ということを見て、経験する。そこに周囲の大人の言う「やはり桜はきれいだな」という言葉が耳に入り、自分の中に概念的な固定がされる。そうすると、たとえ無意識的ではあっても、毎年の桜の花を見たときに経験していた感情的な浮き沈みが固定されて、蓄積される契機が生じる。すると、春になって桜が咲いたときには、われわれはもう目の前の桜を見ているだけなのではない。去年桜を見たときには自分は受験に失敗して暗い気持ちで桜を見ていたけれども、いまは晴れて大学生になってまた同じ桜を見ているだとか、ついこのあいだまでうちの子供も小さかったのに、いまはもうすっかり大きくなって一緒に桜を見ているだとか、桜を見るということに、記憶の重層性が伴ってくる。いま咲いている桜は去年見た桜と同じではない。同じではないがそれが概念の同一性によって重ねられる。*9

 知人の私に対する評でもう一つ記憶しているのが、〈お前のその、近いものを見比べて考えるという狂気に気づくと俺はビビるよ〉です。明確な形を与えてくれたのはこの文章なのだと思います。

10.牧野修『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』

 小さな話をいくつもいくつも私は書く。書き続ける。それは不能者の自慰なのか。いずれにしろ子をなさない快楽なのに間違いはない。発表の予定もなく、発表されたにしても喜ばれることのない小説だが、それでも私は書いた。書き続けた。小さな物語を語ることの、そして読むことの刹那刹那の、閃光のような快楽があれば、もしかしたら万に一つ、誰かが、それを美しいと言ってくれるかもしれないから。*10

 その後につづく真実悪趣味な短篇群に証されて一層の輝きを放ち続ける「病室にて」、それと「夜明け、彼は妄想よりきたる」。もしかしたら荒涼としているのかもしれませんが、これらこそ読み語る理由の最も端的な解明だと信じています。

 

【2023年2月19日:8.の「ポジティブ」を「確定的ポジティブ」に修正。】

*1:宮沢賢治ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」『ポラーノの広場新潮文庫、1995年、129頁。

*2:近藤和彦=監修、笈川かおる=漫画『全面新版/学習漫画 世界の歴史11  市民革命とナポレオン【イギリスとフランスの激動】』集英社、2002年、43頁。

*3:速水侑=監修『図説 あらすじで読む日本の仏様』青春出版社、2006年、6頁。

*4:舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』下巻、新潮文庫、2011年、127頁。太字部分は原文ゴシック体。

*5:倉橋由美子パルタイ」『パルタイ新潮文庫、1978年発行・2004年改版、8頁。

*6:朱天心=著、清水賢一郎=訳「古都」『古都』国書刊行会、2000年、13頁。

*7:吉田健一「酒の精」富士川義之=編『日本幻想文学集成16 吉田健一 饗宴』国書刊行会、1992年、142–143頁。

*8:F・A・ハイエク西山千明=訳『新版ハイエク全集第Ⅰ期別巻 隷属への道』春秋社、1992年初版・2008年新装版、74頁。

*9:野尻英一「美と弁証法」『美学文芸誌エスティーク』Vol. 1、日本美学研究所、2014年、105–106頁。

*10:牧野修「病室にて」『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』ハヤカワ文庫JA、2007年、14頁。