人のふんどしで相撲をとる:30 Day Short Song Challenge

 1日でやる(小説) - タイドプールにとり残されてに倣って、短歌でやってみます。

 

 

Day 1: A song you like with a color in the title

「タイトルに色を含む好きな歌」。胸のうちいちどからにしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし(前川佐美雄)*1。清涼の希求が不純物の滅却を前提するあたり、そしてかかる空への志向がむしろ初句助詞抜き、第2句第5句8音字余りで語を「つめこ」む過剰な身振りとして表出するあたりに、青春の性急さが見事に言語化されています。

Day 2: A song you like with a number in the title

「タイトルに数を含む好きな歌」。タクシーが止まるのをみる(123 4)動き出すタクシーをみる(永井祐)*2。「(123 4)」の、句切れと一致した字空けの溜めを解放する瞬間の快さ。……よく見たらお題の原文は「a number」と単数形なので、複数の数を含むこの歌は題意に沿っていないかもしれませんが、まあいいでしょう。

Day 3: A song that reminds you of summertime

「夏を想起させる歌」。季節のうちで夏だけがお題への出演を勝ち取っているのは、バカンスの時期だからでしょうか。

 捻りがないものの、〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ〉(小野茂樹)*3……と当初は考えていたのですが、これは私にとって〈夏といわれて想起する歌〉であり、必ずしも〈夏を想起させる歌〉ではないような気がしてきました。かの人も現実うつつに在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚(花山多佳子)*4

Day 4: A song that reminds you of someone you'd rather forget

「忘れたい人を想起させる歌」。お題の癖の強さが序盤のそれではない。密着ののち壊疽を起こした人間関係、それとも売野機子の短篇漫画*5みたいなシチュエーションが想定されているのでしょうか。

 私の実人生による或いは合理的な、如何なる裏付けもないですが、次の歌が浮かんで消えないので回答とします。からだに穴はあけちゃだめってお父さんが言ってたわたしの耳嚙みながら(平岡直子)*6

Day 5: A song that needs to be played loud

「大音量で流すべき歌」。ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち(長岡裕一郎)*7。濁音にまみれ全てが劇化されていきます。音量で塗りつぶそうとするような思い上がった臆病さもまた、Day 1と並ぶ若さの結晶です。

Day 6: A song that makes you want to dance

「踊りたくなる歌」。はじめは〈にほんばし探しに行かう日本橋探し当てたら渡りませうか〉(石川美南)*8などの心地よい歌を思ったのですが、ダンスというにはもう少し激しいリズムが欲しい。アルティメットチャラ男つて感じのきみだからヘイきみのなかきみだらけヘイ(藪内亮輔)*9

Day 7: A song to drive to

 お題のラストに付く「to」がいかなる機能を果たしているのか私の英語力では理解できないのですが、「ドライブに合う歌」だそうです。マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんとももで鳴らして加藤治郎*10かなあ。そもそも自動車を運転したことがないですが。

Day 8: A song about drugs or alcohol

「薬物か酒についての歌」。さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日は高きかも(佐々木幸綱)*11。お題が纏う直接的な破滅のかおりに替えて、この歌の場合半ばは端正に醒めざるを得ない屈折があるようです。

Day 9: A song that makes you happy

「幸せになる歌」。清水きよみづ祇園ぎをんをよぎる桜月夜さくらづきよこよひ逢ふ人みなうつくしき与謝野晶子*12。選んだあとで、美しさを感じることと幸せを感じることを混同するのはあまり幸せを知らない人の発想ではないかという気もしましたけれど。

Day 10: A song that makes you sad

「悲しくなる歌」。遠花火嗚咽のやうにつ街を視てをり漣の襞のうへ(川野芽生)*13。この歌を収める連作「火想くわさう」から、言葉をやめてしまうほどの苦しい虚無が歌集全体にそっと浸みていて、それでもそこから言葉は紡がれるようです。

Day 11: A song you never get tired of

「いつまでも飽きない歌」。うーむ。赤茄子あかなすくされてゐたるところより幾程いくほどもなきあゆみなりけり斎藤茂吉*14。腐った赤茄子を接写して満足してしまいそうなところ、「て」「ゐ」「たり」、さらにそこから幾程かずれ、しかもなお歩みつつの「なり」で「けり」、というこの語の延々とした連なり、粘るのに滑空しつづける焦点が、五七五の対称性から七七の流出によって逸脱する短歌定型の様態そのものと共鳴しながら、腐敗に潜む死と同じだけの異様な引力を存在という持続にもたらしています*15。現生歌人で花山周子はこれに拮抗する滑空を有しているんじゃないかという気がします。〈朝、パンを齧り目覚めゆくわがなずき テレビの中に朝青龍過ぐ〉*16

Day 12: A song from your preteen years

「小学校高学年時代の歌」。このたびはぬさも取りあへず手向山たむけやま紅葉もみぢにしきかみのまにまに(菅家)*17。プレティーンのころ知っていた短歌となると、俵万智が写真家と組んだ文庫本二冊*18が教室に置かれていたものの、基本的には小倉百人一首限定になってしまいますね。枡野浩一は中学校に入ってからだったでしょうか。そして百人一首にしても、内容よりはもっぱら歴史上の挿話への関心から、安倍仲麿と菅家すなわち菅原道真のみ覚えが早かったと。もう少しのちには音のよい、たとえば〈久方ひさかたひかりのどけき春の日にしづごころなく花のるらむ〉(紀友則)あたりを好むようになりました。

Day 13: A song you like from the 70s

「好きな70年代の歌」。年代指定の含意が分からない。インターネット検索エンジンGoogleで浅く調べた感じ、1960年代のザ・ビートルズの業績を礎に多様なロックが開花した時代なのでしょうか。短歌に応用する上では年代を移した方が題意に沿うのかもしれませんけれど、見識がないのでそのままで。そもそも短歌の発表年をどう考えればよいかも私には判断の難しいところがあり、あまり厳密に限定しないことにします。こういうのは厳密にした方が面白いのですが。

 70年代というとおそらく学生運動挫折後で、聞くところによれば〈微視的観念の小世界〉の時代かと思います*19。引用歌自体は性格が異なりますが、その辺りの作者から、鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ(小中英之)*20

Day 14: A song you'd love to be played at your wedding

「自分の結婚式で流したい歌」。〈われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき〉(大森静佳)*21……はちょっと、冷たい式ですね。もう少し寄り添っていきたい。

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に穂村弘*22。「降りかかる」すなわち散っている「花」は短歌の中ということも考えあわせればまず桜で、桜の白い花びらが降りかかった「髪」には白髪のイメージが重なります*23。肩ではなく「背中に」降ることも「ふたり」の背中が曲がっていることを示しており、してみれば、「キバ」をむき出すふたりはいつのまにか、櫻下の老鬼と化しているのかもしれません*24。こうしてよそごとが花吹雪に紛れ、夢のように歳をとっているといいのですけれど、結婚は多分、そういう責任感でやるものではないですね。うーん、結婚式のイメージが湧かない。

Day 15: A song you like that's a cover by another artist

「好きなカバーソング」。本歌取りの名作でもあげればいいのかもしれませんが、あいにくと知識がありません。

 おぼろ月夜にるものぞなき(朧月夜/紫式部源氏物語』)*25。原歌は〈照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき〉(大江千里)で、これ自体白居易の詩句の翻案とされますがさておき。『源氏物語』において、一人の女性がこの歌を口ずさみながら主人公と読者のまえに現れるのですが、そこでは原歌の〈く〉が「似る」に変わっています。漢文調のしかつめらしい語彙である〈如く〉が発話者のかわいらしい印象を損なうことを嫌ったためだと考えられて、作者とはそこまで統御しきる生き物かとちょっと慄然とさせられるカバーです。現実の作者が日記において〈日本紀の御局〉なるあだ名に示した拒否反応なども思い合わせ。

Day 16: A song that's a classic favorite

 元のお題はいわゆるクラシック音楽(classical music)とは関係がなく、「定番のお気に入り」といったところのようです。しかしそもそも他の選が孫引き頼りの定番だらけ、今更の感がぬぐえないので我田に水を引きまして、古典をもてあそぶ気に入りの歌を。以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ安永蕗子*26。上句に引かれているのは慈円愚管抄』ということです。

Day 17: A song you'd sing a duet with someone on karaoke

「カラオケでデュエットしたい歌」。短歌の場合だと、他人と自分の解釈を交錯させたい歌、という感じでしょうか。むー。アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました斉藤斎藤*27、という選択は何か、デュエットというものを根本的に勘違いしている気配がないでもないです。そういえばカラオケでデュエットした経験がない。今もここには喋る人間が一人しかいないから、人ではなくて歌の方にデュエットしてもらうしかなくて、たとえば〈クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ〉(佐クマサトシ)*28はこの歌とデュエットするべきではないでしょうか。そういえば1首目は斉藤と斎藤がデュエットしているような作者名が付されていますし2首目も「クリスマス・ソングが好きだ」と「クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ」のデュエットみたいではないですか。今のは全部嘘です。

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ〉は一字空けで切れた二つの文が並んでいる歌で、前提を置かないとするとそれぞれの文の発話者は違うと考えることも可能だけれど、短歌という短い定型の凝集力は全体に一人の発話者を設けさせがちだし、少なくともこの歌はその構造に依って面白くなっている歌だと思います。二つの文が一人に帰属したときの飲み口は平岡直子が「これはどちらも真実なのだろう」そして「ここにある「好き」も「嘘」もかなり儚いテンションなのだと思う」と述べているとおりです*29

 それで、〈アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました〉という文は真実でしょうか、真実ではないでしょうか。丁寧文末は発話者が対手を意識している証拠ですから当然表出には応じた歪みが発生していますし、「こころのじゅんび」という殊更なひらがな表記や句読点は、言葉という媒体を前景化することで読者に真意と表出の乖離を印象づけています。しかし乖離があるからといって真意を表出の対蹠点に位置づけるのは短絡で、表出に常に真意からの乖離があることは、己を代議するという擬制の前提ではないでしょうか。してみればひらがな表記を、乖離にとまどいつつもその擬制を「今、」引き受けると決意したまごころの表れとする解釈も、揶揄と取る解釈と同じだけの権利を主張できるでしょう*30

 こうして両立しがたい解釈をデュエットしているうちに、しがたかったはずのものがいつのまにか一人の口に帰属しているような、一つの穴から出てきているような、言葉の出てくるその穴からあわてて目を引くとその周りにあるはずの顔もなんだかただの穴のような、顔はどこにいったのか、しかしそもそもカラオケとは、なぜだか自分のものでない歌が歌われつづけている場だったような気もします。

Day 18: A song from the year you were born

「生まれた年の歌」。年の判断はDay 13に同じ。

 形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり(大口玲子)*31。感情表現の語でありながら文法事項の例示として、内実をもたないまま鍵括弧にくくられた──「言は」されたものであること、そして固有性を奪われる「二度」の繰り返しが状況からの言葉の遊離を印象づけます──「さびしかった」を中心に、事態の伝達に徹する文体が大きな効果を上げています。英語系の名で呼ばれる「ルーシー」はおそらく母語ではない日本語を飲み込む途上であり、もちろん語り手もLucyを長音符号2つのどこか間抜けなアクセント「ルーシー」に落とし込むしかない。二人のあいだでうわつく言葉を、だからこそ事態の伝達のための即物的な使役に抑え込まねばならない。でもそうですね、この歌にある教え教わるという出来事を、やっぱり冗長性で希望なのだと思ったっていいのじゃないでしょうか。

Day 19: A song that makes you think about life

「人生について考えさせる歌」。むー。

 ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーもできる!(初谷むい)*32。連作「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」掉尾の一篇。

 人生のよくない点として、楽には死ねず長く苦しむことになるというのがあります*33ジュンク堂から追い出されたらもう終わりでいいじゃんとか思うのですが割とまだ頑張らないといけない。

 この歌の「まあ地球」は、直後で一旦文を切り〈ジュンク堂を追い出されても、まあ私のいるところは地球ではある。〉の意味と解することも可能でしょうが、個人的には後続の言葉と一文と捉え〈ジュンク堂を追い出されても、まあいま私のいる地球というところには重力があるのだし、〉の意味だと解しています。ここには地球がよいところだと前提するのとは異なるフラットな態度と、にもかかわらず圧倒的に薄弱な根拠で地球を褒めてしまう箍の外れかたがあって、「にもかかわらず」と云いましたが実のところ後者に見られる初期化されたような期待の欠落と前者に見られる無帰属性は同じものの二つの表れです。それに楽観主義オプティミスム悲観主義ペシミスムどちらの名札を貼りつけるにせよ、札など意味を成さない、生きつづけねばならないことの「路ちゅー」的な露骨さに呆然としてしまうのでした。

Day 20: A song that has many meanings to you

「自分にとって多くの意味をもつ歌」。このお題で想定されているのは、歌が享受者にとって何かの契機になった(たとえば新ジャンルへの導きとなった)とか、あるいは人生の折々に歌を反芻した結果実人生のさまざまな出来事と観念上連合したとかいった、歌の外部における意味付与だと思うのですが、そういう享受をあまりしないので、純粋に複数の解釈をしてしまう歌を挙げます。

 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた(齋藤史)*34。「子守うた」は字義どおり子を守る歌と理解するのが正しい、と今では思います。でも学校の教科書で初めて読んだときの私にとって、「子守うた」とは多分何の疑問もなく、眠らせるための、子供の目を閉ざすための歌でした。己が「うた」が「子」の目を「暴力」に閉じさせることを歌う「うた」、だと思ったのです。そういう理解の失礼な偏向が私の目にはずっと巣食っている気がします。

 まったく違った意味で、〈みじかかる夢さめぎはにきこえくる他界の我のうすわらふこゑ〉*35なども、なんだか二つの読み方をしてしまう歌です。「さめぎは」は覚める間際、直前ですから、語り手はまだ夢の中にいることになります。してみれば「他界の我」とは案外、夢の外で笑っている現し身の我ではないでしょうか。

Day 21: A song you like with a person's name in the title

「タイトルに人名を含む好きな歌」。しまった、虚子の忌の喋る稲畑汀子かな(関悦史)が最初に浮かんでしまった*36。短歌だと〈ウエディングドレス屋のショーウインドウにヘレン・ケラーの無数の指紋〉(穂村弘*37などが浮かびますが、天啓を優先します。

Day 22: A song that moves you forward

「自分を前に進める歌」。生きてきて意識して前進した記憶がないのでなかなか難しいです。

 おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ(フラワーしげる*38。まず正体不明の存在として登場する語り手、自分を知らず正体を問うてくる人に名乗るところらしいのに不躾な人称を崩さない「おれ」の傍若無人さは、自分を「存在しない」存在だとする理不尽な宣言によって頂点に達し、けれどもそこから転調していきます。「おまえ」を上位から弄ぶかに見えた「おれ」は、自分を「おまえ」の先行する生に依存する、より幼い「弟」として位置づけるのです。さらに「おれ」は「ルルとパブロン」、即ち人をなんとか支えるために消尽される市販の風邪薬として己の組成を語り直します。3音・7音・7音・5音・8音・7音と次第に57577の定型に収まっていく構成も、「おれ」が次第にその奉仕的な本質を開示していく様と呼応しているようです。

 しかしなぜ「存在しない」のか。そもそも「存在」する弟ならこれほど都合はよくないはずで、「おまえ」と呼ばれる私に依存する彼は、やはり私に造られたものなのでしょう。市販の無機物では満たされなくて乱暴口調の「獣」の命を幼稚な継ぎはぎで仮構したくせに、結局要素として私を労わる「ルルとパブロン」しか認めず人と扱わない。なんならそんな私の仮構こそが「存在」していた弟を「存在しない」ものに変質させているのではないかという疑念さえ頭をよぎりますが、それでも私は身勝手に、いつか、思い出せないほど疎遠になれた私の仮構フィクションが一人の風邪の夜にやってきてくれるところを想像して、支えられてしまうのです。

Day 23: A song you think everybody should listen to

「みんな聴いた方がいいと思う歌」。あと絶えて幾重も霞め深く我が世をうぢ山の奥の麓に式子内親王*39。同作者の〈霞とも花ともいはじ春の色むなしき空にまづしるきかな〉なども季節に対するしらじらとした厭悪が感じられてすさまじい*40

Day 24: A song by a band you wish were still together

「今も続いていてほしかったバンドの歌」。共同制作は贈答歌や連歌の昔から短歌にしばしば見られるようですが、基本的に、固定メンバーを活動単位とするバンドよりも一過性を重視したセッションに近い印象です*41。よってバンド、まして解散してしまったバンドにあたるものは一向に思い当たりませんが、だからといって〈みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム〉(笹井宏之)*42をあげるのも違う気がするので、無理筋ながら。

 短歌にまつわって共同制作的な面白さが最も発揮されやすいのは、短歌を持ち寄りその一首ずつについて話し合う歌会の場における会話ではないかと思います。その話を経て変質した歌の、半ばは横領的でもあり得る共同制作性。というわけで思いっきりセッション的なものですが、最近触れた歌会記録から、窓A 窓B 窓C どこからも尾が見えてるイルカ(温)*43。この歌会記録は鈴木ちはねが異常に面白いです。最初の「よろしくお願いします。」以外の全ての発言が面白い。

Day 25: A song you like by an artist no longer living

「死んでしまったアーティストの好きな歌」。お題はなんとなく、生前を知っているアーティストを指すような気がしますが、私の場合歌を知ってから逝去したのは岡井隆くらいです……べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊(永井陽子)*44

Day 26: A song that makes you want to fall in love

「恋したくなる歌」。大学の北と南に住んでいて会っても会っても影絵のようだ(大森静佳)*45。会いたさに実際の逢瀬が間に合っていない歌なのだと思います。多分恋着を罪より罰と感じるほうが私に馴染むのです。

Day 27: A song that breaks your heart

「胸が張り裂ける歌」。

 先に選んでしまったDay 10「悲しくなる歌」との違いは、きちんと設定できていないですが。とどめおきてたれをあはれとおもふらんはまさるらんはまさりけり和泉式部*46。〈逝ってしまった娘、あの子はいま誰を遺してすまないと思っているのだろう。母親の私などよりも、娘自身の子たちのことをおもっているのだろうね。私も、他の誰よりもあの子との死別が、もうずっとつらかったのだ。〉

 哀傷歌であって、けれども愛する人が煙と消えたのが問題ではないところに、作者の奇抜な論理があります。過去推量ではなく現在推量の助動詞「らん」は、娘が消えたどころか、幽明境を異にしながら今も愛執に囚われて在ることを示す。けれどもその原因は自分ではない、というのです。今この瞬間も、所謂死に別れた人の視線は、私ではない者に注がれている。語り手が他の愛をすべて切り捨て「まさ」る思いを証せば証すほど、構図上の﹅﹅﹅﹅必然﹅﹅として﹅﹅﹅、その人の愛もまた自分を切り捨て逸れていく。もはや死に分かたれたと称することすら、あらかじめ与えられなかった権利として。和泉式部による片恋の歌の最高傑作。

Day 28: A song by an artist whose voice you love

「声の好きな歌手の歌」。歌唱に対する無知ゆえかも知れませんが、声が好きであることは、歌い方が好きであることとは区別されるように思います。そして個人的には、短歌はその短さから例えば散文に比べても、内容と切り離せない言い方の問題に回収されがちで、「声」を取り出すことが困難なのではないかとも感じます*47。それでも声というものを短歌に感じるとすれば。

 ひきよせて寄り添ふごとくししかば声も立てなくくづをれて伏す宮柊二*48。人を刺し殺すという事態の非情さを、句跨りもない定型の完璧な遵守、Day 18にも通じる事態伝達の文体に載せた、言い方短歌の極致。一見メッセージの伝達に全霊を費やすこの歌に、けれども声を感じるのは、四句目の「立てなく」のためです。つまり〈立てずに〉ではないということ。強いて言い方の問題に還元すれば、死地の表現にあたり句間を生ぬるく繋げてしまう〈立てずに〉を退けたと云えるかもしれませんが、多分単に漢文脈の素養から来る癖じゃないかと思います。〈立てずに〉でもこの歌の伝達は成立していて、それでも「立てなく」でしかありえないなら、それこそが声ではないでしょうか。同作者〈目にまもりただにるなり仕事場にたまる胡粉の白き塵のかさ*49のとても「ただに坐る」とは思えないかっちりした上句、また〈かなしみのきわまるときしさまざまに物象ちてかんの虹ある〉*50の坪野哲久などにも類似の声を感じます。トキシ! ブッショータチテカンノニジアル! かっこい~。

Day 29: A song you remember from your childhood

「子供時代の歌からひとつ」。私の場合短歌でやると、Day 12と同じく百人一首以外の選択肢がなくなってしまいますね……おほけなくうきたみにおほふかなわがたつそま墨染すみぞめそで(前大僧正慈円*51

 耽美主義や芸術至上主義の自称をとっさに疑ってしまうのはしばしば自分で自分の価値をずらしとしてしか信じていないように聞こえるからです。かえって直ぐなる正しさの追求のほうに他の箍を失くした異様さがちらつくことがあって、この歌にもその気配があります*52。言挙げの歌でありながら、長音「おほ」の悠揚たる繰り返しと墨がもたらすモノクロームの視界が、奮起や陶酔を置き去りにして、ただ冷え冷えと、人より大きい何かにならねばならぬからなろうと思い、他人や世界から異論があるなどと思ってもいない真顔を写し取るのです。

Day 30: A song that reminds you of yourself

 最後、「自分を想起させる歌」。歌にとってはいい迷惑ですね。

 まがごとをもたらさむひとどもりつつ國語あやふくあやつるふゆよ吉田隼人*53。禍事をもたらすのが禍言だとして、禍言を高度に練り上げられた呪詛だと思い描くのは詩人たちの過信なのかもしれません。練られた言葉のほうが多くを変えるという過信、あるいは誠意を込めなければ世界は壊れないという過信。凡庸に穴だらけで寸法の狂った私の言葉は、だからこそ粗雑な力を帯びて禍事に寄与していく。なのに話をいつまでもやめないのは何故でしょう。

*1:穂村弘=選「短歌」池澤夏樹=個人編集『日本文学全集29 近現代詩歌』河出書房新社、2016年、258頁。

*2:永井祐「日本の中でたのしく暮らす」『歌集 日本の中でたのしく暮らす』BookPark、2012年、38頁。

*3:小高賢=編著『現代短歌の鑑賞101』新書館、1999年、101頁。穂村選前掲書302頁にも旧字体表記で掲載。

*4:穂村弘「〈読み〉の違いのことなど」『短歌の友人』河出文庫、2011年、181頁。

*5:売野機子「夫のイヤホン」『売野機子のハート・ビート』祥伝社、2017年。

*6:平岡直子「記憶を頬のようにさわって」『歌集 みじかい髪も長い髪も炎』本阿弥書店、2021年、16頁。

*7:穂村弘『短歌という爆弾 今すぐ歌人になりたいあなたのために』小学館文庫、2013年、180頁。

*8:石川美南「大熊猫夜間歩行」『歌集 裏島ura-shima』本阿弥書店、2011年、93頁。

*9:山田航=編著『桜前線開架宣言 Born After 1970 現代短歌日本代表』左右社、2015年、245頁。個人歌集で連作中の一首として読むとまた異なる印象かと思います。藪内亮輔「ラブ」『歌集 海蛇と珊瑚』KADOKAWA、2018年、192頁。

*10:穂村弘、山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社、2012年、206頁。

*11:永田和宏『現代秀歌』岩波新書、2014年、47頁。

*12:穂村弘=選「短歌」225頁。

*13:川野芽生「火想」『歌集 Lilith』書肆侃侃房、2020年、137頁。

*14:山口茂吉、柴生田稔、佐藤佐太郎=編『斎藤茂吉歌集』岩波文庫、1958年・1978年改版、36頁。

*15:短歌定型が現代人にもたらす印象を、俳句の対称性との比較において巧みに言い表しているのは高橋睦郎です。俳句が五七五のシンメトリな詩型であるのに対し、「短歌は五七五七七で、内側に収斂しないで外に開いている」「五七五で「別れてやる!」というのが俳句なら、下の句七七で「……でも別れられない」というのが短歌、だから俳句は決断の詩型、これに対して短歌は未練の詩型」。高橋睦郎「沈黙に学ぶ」『俳句』2014年10月号、KADOKAWA、97頁及び98頁。

*16:花山周子「鉛筆の味」『歌集 風とマルス青磁社、2014年、28頁。もっとも、凝視というにはあえて解像度を下げたような身体的時空把握表現の技法は、破調の取り込みも含め、むしろたとえば森岡貞香と並べるほうが自然かもしれません。〈けれども、と言ひさしてわがいくばくか空間のごときを得たりき〉(森岡貞香)。小高前掲書37頁。

*17:小池昌代=訳「百人一首池澤夏樹=個人編集『日本文学全集02 口訳万葉集 百人一首 新々百人一首河出書房新社、2015年、125頁。

*18:『とれたての短歌です。』『もうひとつの恋』。

*19:「昭和四〇年代後半の歌の内向化傾向を指して、篠弘が名づけたことば」(沢口芙美「微視的観念の小世界」『岩波現代短歌辞典 デスク版』岩波書店、1999年、548頁)。小説の世界にも〈内向の世代〉という語があったそうですが、対応しているのでしょうか。なお、70年代から80年代には「女性短歌の再考を試みた歌人たち」が登場したとの指摘もあります。瀬戸夏子「前衛短歌」『はつなつみずうみ分光器 after 2000 現代短歌クロニクル』左右社、2021年、177頁。

*20:小高前掲書103頁。

*21:大森静佳「M・M」『新版 歌集 てのひらを燃やす』KADOKAWA、2018年、52頁。

*22:穂村弘「シンジケート」『シンジケート』沖積社、2012年重版、19頁。

*23:言葉のうえでは「八重歯」から〈八重桜〉への連想も働きます。もっとも八重桜の場合花びらひとひらごとに散るのではなくまとまって落ちるような気がしますし、色も個人的には白より濃いイメージがありますので、実景として整合的なわけではないでしょう。

*24:

「その人たち、ぼくをどうするの?」

[中略]

「小さな男の子も、小さな女の子もきらいなの。だけどね、小さな女の子は食べて﹅﹅﹅しまうのよ」

「エセル、やめて。子供たちがこわがってるわ。ほんとじゃないのよ、ちびちゃんたち。からかってるだけなの」

「その人たちはね、夜しか外へ出てこないの」悪い女は、よこしまな目で子供たちを見た。「暗くなると、小さな子供たちをさらいにいくのよ」

シャーリイ・ジャクスン=著、市田泉=訳『ずっとお城で暮らしてる』創元推理文庫、2007年初版・2010年5版、237頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

*25:花宴はなのえん」柳井滋、室伏信助、大朝雄二、鈴木日出男、藤井貞和今西祐一郎=校注『源氏物語(二) 紅葉賀—明石』岩波文庫、2017年、96頁。

*26:小高前掲書46頁。

*27:斉藤斎藤「「ありがとう」」『渡辺のわたし 新装版』港の人、2016年、74頁。

*28:佐クマサトシ「vignette」ウェブサイト「TOM」、2017年。

*29:砂子屋書房のウェブサイトの連載「日々のクオリア2018年2月9日の回

*30:

権力への「抵抗」が即「死」につながりうる状況下において、それは彼らが示しうる最大の「抵抗」であったことは間違いない。しかしそれゆえに、権力側からは容易に利用されることとなった。彼らが身をもって示したのは、そのような逆説であり「偉大な敗北」という悲劇であり「イロニー」であった。

石川公彌子「第五章 保田與重郎の思想」川久保剛、星山京子、石川公彌子『叢書 新文明学3 方法としての国学──江戸後期・近代・戦後』北樹出版、2016年、121頁。

*31:小高賢=編著『現代の歌人140』新書館、2009年、276頁。

*32:初谷むい「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」『花は泡、そこにいたって会いたいよ』書肆侃侃房、2018年、34頁。

*33:〈メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい〉平岡直子「東京に素直」『歌集 みじかい髪も長い髪も炎』9頁。

*34:穂村弘=選「短歌」266頁。なお作者名について字体を変更しました。次注の書名についても同様です。

*35:『改訂版齋藤史歌集 齋藤史自選』不識文庫、2001年、114頁。

*36:関悦史「襞」筑紫磐井対馬康子、高山れおな=編『セレクション俳人 プラス 新撰21』邑書林、2009年、238頁。のち個人句集『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林、2011年、48頁。

*37:『世界中が夕焼け』55頁。

*38:東直子佐藤弓生、千葉聡=編著『短歌タイムカプセル』書肆侃侃房、2018年、186頁。

*39:馬場あき子『式子内親王ちくま学芸文庫、1992年、127頁。

*40:同137頁。

*41:未読ですが『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』の岡野大嗣と木下龍也などはバンドに近いのかもしれません。なお短歌そのものを複数名で制作するに限らず、注18で挙げた俵万智浅井慎平のような異ジャンル間の共作もバンドに類比し得ると思います。

*42:『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』PARCO出版、2011年、119頁。

*43:うたポル歌会記―加賀田優子、鈴木ちはね、温(2022年6月1日) – うたとポルスカ

*44:小高賢=編著『現代短歌の鑑賞101』166頁。

*45:大森静佳「一行の影絵」『新版 歌集 てのひらを燃やす』42頁。

*46:久保田淳、平田喜信=校注『後拾遺和歌集岩波文庫、2019年、286頁。ただし原文は反復記号を用いています。

*47:この点について、ソーシャル・ネットワーキング・サービスTwitterにおいて鈴木ちはねが2021年12月2日1時22分以降行った一連の発言は非常に示唆的な異見です。当記事の視野は、いくつかの歌についてはむしろ意味を損ないかねないほど、意味とそのレトリックに偏しているようです。

定型詩のいいところは意味(何を)やレトリック(どのように)に依存せずに、定型それ自体によって成立しうるところだと思うのだけど、みんなそのことにあんまり気づいてないのかもしれないと最近は感じている。

もう少し踏み込むと、(定型)が第三項ではなくレトリックの一種として処理されてる場合が多いのでは? という印象がある。たとえば句跨りの効果がどうとか字余りの効果がどうみたいな話になるときに、(何を)と(定型)の間の相互作用が(何を)と(どのように)の関係として捉えられがちなのではという説。

*48:穂村弘=選「短歌」270頁。

*49:小高前掲書24頁。

*50:小高前掲書17頁。

*51:小池訳前掲書245頁。

*52:Day 16の歌に引かれた『愚管抄』の文言も、元は当代までの歴史を説く理由を〈「保元以後ノコトハミナ亂世ニテ侍レバ」よくない事例とのみ思って人々が歴史を書き置かないのは浅慮であって、よくよく考えれば誠に話が通っていると分かるものを、気づかないで道理に背くことばかり志すから世が鎮まらないのだ〉と述べている箇所ですから、慈円自身は乱世を乱世と呼んで済ませる怠惰を否定し、正しさを追求しているわけです。岡見正雄、赤松俊秀=校注『日本古典文学大系86 愚管抄岩波書店、1967年、129頁。

*53:吉田隼人「流砂海岸」『忘却のための試論』書肆侃侃房、2015年、120頁。