かつて書きあがらなかった記事たちの残骸をいくつか公開する。供養というか、執筆継続が生む追善によってのみこれらの記事は成仏できようところ、それを手放して楽になるために公開するのだから、ただの遺棄だとは思う。掲載順と執筆順は特に対応していない。
- 谷山浩子『ひとりでお帰り』集英社コバルト文庫
- 日記(読むことと疲労について)
- 谷山浩子「冷たい水の中を君と歩いていく」
- 天乃忍『ラストゲーム』白泉社
- 小川麻衣子『魚の見る夢』
- 自分の生むものに価値はあるのか、という問い(椎名うみインタビュー)
- くらもちふさこ『おばけたんご』死者と個人主義
- 過去とアイデンティティ(米澤穂信『クドリャフカの順番』)
谷山浩子『ひとりでお帰り』集英社コバルト文庫
谷山浩子『ひとりでお帰り』を読みました。
ざっくり言って、谷山浩子の小説には、サンリオから出ていたファンタジック童話系統と、コバルト文庫から出ていた少女小説系統があります*1。前者についてはいくつか読んできたのですけれど、後者については実ははじめて読みます(ついでに言えば、コバルト文庫自体はじめて)。
かなり惹かれた部分もあったのですが(序盤になりますが飲酒シーンは蒙を啓かれました)、紙数の関係か結末が消化不良かな。具体的には、最後に友人のほうとの関係がほったらかしになる点が。
ただ、友人との関係を整頓すると、タイトルと連動している現状の結末が崩れてしまうような気もして難しい。あとがきの「この二年くらい、個人的にいろんなことがありました。これだけ派手に浮き沈みして、泣いたり笑ったり、悩んだり喜んだりできれば、人として生まれた甲斐もあるというものだと、つくづく思うような激動の二年間でした。」「なにしろ精神的な浮き沈みが続いていたので、どういう展開にするかずいぶん迷いました。」という言をみると、安易ですが、当時の谷山さんの実人生ともリンクしてのこの終幕なのだろうなと憶測されるところですし*2。
他に特筆すべき点として、絵がすごくいいです。スクリーントーンではなく硬質な線を細かく描きこむことで色づきを表す手法(カケアミというのか?)の清潔感が、一般に私の好みであるという面もあるのかもしれない。描き方だけでなく描いているものの選択も、たとえば作中に対応するシーンのない表紙イラストなんか、かなり正解ですね。結晶石なんか完全にオリジナルなモチーフなんだけど実に的確だと思う。
イラストレーターは眞部ルミさん。……いま調べていたら、「マナベウミ」としてこちらのウェブページに紹介がありますね。「トーンを使わずカケ網や点描を丹念に使って陰影を形成しながら主線の存在感を究極消してしまうその画風」という説明に、なるほど。着眼点は悪くなかったけれど、主線が消えてしまうところこそが私の好みの本筋か。惹かれる理由を探ろうとして楠本まきを連想したりもしたのだけれど、楠本まきのことも確かに、カニッツァの三角形じみた雪景色の美しさとして記憶している。そして私は実はオーブリー・ビアズリーがよく分からないのですが、主線に差があったわけですね。
それからコバルト文庫の谷山作品から、『きみが見ているサーカスの夢』のレビューが『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』に掲載されているらしいのも発見しました。見てみたいです*3。
余談1。既読の谷山作品のなかでベストは『ユキのバースデイシアター』です。ただいま思い返してみて、初読時に未収束の不満を感じた『少年・卵』は、それを前提に再読すると評価があがるような気がしますね。『日本幻想文学作家事典』ではたしか谷山の代表作として『猫森集会』と『少年・卵』が挙げられていたような気がして、幻想文学事典の嗜好としては何となくうなずかせるものがあるのでした*4。
余談2。今家内捜索をしたら、持っているはずの『悲しみの時計少女』が見つからない*5。なぜだ。
余談3。説明をすっぽかしていましたが、谷山浩子はシンガー・ソングライターで、本作と同題の歌「ひとりでお帰り」があります。名作です。「悲しみの時計少女」も。
日記(読むことと疲労について)
仕上がっていない記事の二つ目は、見かけたあるツイートとその受容に疑いをはさむものだ*6。
批判しようと思えば熟読する、繰り返し読むことになり、そのうち不意にそれまでの読みの準拠枠から外れて、自分がまったくあたらしい相貌をした言葉を眺めていることに気づく。これはときどき起こることで、思い出す限りだと私の場合だいたい三年に一度のペースで今回が三度目ではないか。別にそれだけの頻度で他者の言葉に対し好戦的にふるまうわけではなく(恥ずかしながら過去二回の熟読は必ずしも自発的なものではなかった)、〈
快感であり読んでいてよかったという気になる。けれども時間が湯水のように捨てられていく。それでいて、単に読み違い、つまり自分が焦点の置き方を誤っていたことに気づくだけなので、深度を得られるわけではなく、不思議に聞こえるかもしれないがどうやらさして応用が利かない。読みが深まるなら二週間や一ヶ月、もっと長いこともあるが、そのくらい捨てたとはいわない。さらに問題なのは、普通ひとは言葉をそう飴玉のようにしゃぶらないので、むしろ世間的には言葉はもっぱら読み違えられたものとしてこそ流通するように思われることだ。ツイートの文面は当初の意味とはまるで関係なく受け手の
きっと私はいわゆるオルタナティヴ・ファクトのほうへ足を踏みだしている*8。もちろん上記の主張は、言葉の受容が変化しないことも、自身が受容決定の局外者であることも意味しない。私たちは
疲れているから何だというのだろう。疲れたからと放置することで形成される場から日常的にこうむる苦痛がある者は争いをやめることはできない。争いというとつねに社会全体の変革を掲げるもっぱら利他的なもののように聞かれることも多いけれど、その理解は一面的だ。心地よい空間に引き籠もることも、社会のなかから近しい人を選別して集め、身の周りに特別に歪んだ場をつくりだす行いである以上、外圧と争って場を形成する意図的行動のひとつの形にほかならない。また、さもなくば均されてしまっていただろう局所の歪みが存続し、微弱にではあれ周囲へ全体へと波及しうることまで考えれば、全体の変革においてさえ不可欠な一要素といって差し支えない*9。だから、人は争いつづけている。
谷山浩子「冷たい水の中を君と歩いていく」
それにしてもわたしが感じ入るのは、1番の終わりの歌詞だ。
あんまりそれがきれいなので 誰にも言葉はつうじない
〈言葉にできない〉でも〈言葉はとどかない〉でもなく、「言葉はつうじない」。些細な、作者も無意識なのかもしれないこの選択に、けれどもこのひとの深刻さがあらわれているように思う。
言葉とは、他者と共有される世界の解釈コードだ。言葉はふだん、世界をすきまなく表現できるかのようにふるまい、そしてわたしたちに、言葉を交わしあう他者にも世界が同じものとしてあらわれているかのように思いこませる。けれどもしばしば、ふと自分にとって解釈コードが失効し、世界が遠くなってしまうことはある。
その状態をどうとらえるか。〈とどかない〉のであれば、単に距離の問題だ。言葉自体は共有されており、両岸は同じ世界をたどっている。少なくとも、失効を意識してはいない。〈言葉にできない〉のであれば語り手は、人々に共有される解釈コードの裂け目に気づいてしまっている。口をあけた深淵のまえで立ち尽くしている。きっと多くのひとが、一時的にそこまではいける。一時的になるのは、その裂け目が日常のまどろみのうちにふたたび埋没するからというだけではなく、ひとはふつう深淵に耐えられないからだ。耐えられなくなって、人々のほう、言葉のほうへ戻ろうとして、それとも深淵に呑まれてしまう。
けれども、このひとはとどまる。その時間をゆく。「誰にも言葉はつうじない」。それが意味するのは、語り手が別の言葉をしゃべっているということだ。一時ではすまない長さを深淵のふちに立ちつづけ、いつかそのひとは独自の言語を編んでしまっている。
うたかたの夢に狂ってほろびることになんの悔いがあるだろう。
問題は、人はそう簡単にほろびるものではないということなのだ。
映画では、もうおばあさんになった安部定がインタビューを受けていた。
定さんは、あれほどの恋の後、老いるまで生きたのだ。
酔うことも狂うこともない、素面の日常を毎日毎日何十年も積み重ねたのだ。
おそろしいのは恋のはかなさなどではない。
人生なんてたちの悪い冗談だと言えるほど私は達観できず覚悟もできない。少なくとも今はまだ。
日常はこれほど強固で、一分一秒ずつしか刻まれていかないものなのだから。
酔い続けているには人生は長すぎる。
そして、それでも酔い続けているにはこの強固な現実に対峙できる強さが必要なのだ。*10
天乃忍『ラストゲーム』白泉社
作品享受がどの立場からなされるかを論じたものとしては、少女漫画を例にとった泉信行「私たちの気付かない漫画のこと 第3回 主人公の視点「だけ」で感想が決まってしまうこと」がきわめて平易かつ示唆的である。
「少女漫画家には、イケメンだけじゃなく、美少女を描きたくてテーマを決めるタイプの人もいるんですよ」と説明すると、「それ本当に?」という反応をして、にわかには納得しない人っているんです。それも女性の漫画読者で、ですよ。
彼女らの思う少女漫画とは、「男子にときめくもの」であって、自然と「主人公の視点から男子を見る」、つまり(主人公への共感は求めても)「主人公を可愛がる視点にはならない」ものとして認識されているようでした。
少女漫画読者の感情移入先がヒロインであることを無自覚に前提した評を批判して、泉は読者の感情移入先がむしろヒロインを愛でるヒーローや女友達でありうること、さらには感情移入先が同時に複数でありうることを述べる(感情に限った話ではないため、泉が用いている「同化」という表現のほうが適切かもしれない。)。
泉はヒーローと女友達の区別には深入りしないが、この点をめぐり天乃忍『ラストゲーム』全11巻(白泉社、2012〜2016年刊)に言及したい。学生日常ラブコメディ少女漫画としてはおそらく画期的なことに、本作は書籍裏表紙記載のあらすじ紹介において、ヒロインの呼称が一貫して「九条」と名字呼び捨てなのである。ヒロイン自身やヒロインの女友達としての立場から享受する際、ヒロインは(あらすじ紹介にはやや用いにくいあだ名を除けば)もっぱら下の名前、もしくはさんづけで呼ばれることになろう。しかし『ラストゲーム』で多く視点人物を担うのはヒロインのため奮闘するヒーローであり、しかもいわゆる優男風ではない彼はヒロインを名字で呼び捨てる。さらにいえばヒロインの主要な女友達は一人しか登場せず、この友人は彼女を下の名前ではなくあだ名で呼ぶ。ヒロインの名字呼び捨ては、以上のような条件があわさってはじめて生じた現象だと考えられる。
小川麻衣子『魚の見る夢』
感情同士の衝突あるいはふれあいに視線を注いでいる作者だという印象を受けた。登場人物はそれぞれがひとつの感情を湛えたかたまりとして配置され、それらがスパークする場面場面を作者は明晰な筆致で彫り込む。一方シーンをつなぐ物語的な理路や説明はかなり潔く省略されている。たとえば最終盤で九条と黒川(ナツ)が対峙するシーンについて、両者の集結が故意か偶然か、黒川がいかにして九条の所業を知っているのか、説明する必要を作者は認めない。作中人物としての知識その他の制約を捨象され、ほとんど、読者と同じ地平の思想闘争における二つの観念の代理人そのもののように斬りつけ合う二人の姿は、どこかアレゴリカルな道徳劇の気配さえ漂わせている。
私自身は物語作品を享受する際、まずは登場人物の
身も蓋もないいえばつじつまを合わせる
つじつま合わせは馬鹿にしたものではなくて、作中事象に自律的な生起の外貌を与え、迫真性を高める効果があるだろう。しかしでは『魚の見る夢』は迫真性を手放している
犠牲にしているのかといえば、
内的真実を。毀損したくない。最上のもの。説得。
私とは別様の詩学。
他方にあるたとえば峰浪りょうによる長篇漫画『ヒメゴト~十九歳の制服~』はその論理性への。思い当たる。一例といえるだろう。(形而下的な意味での整合性)。そして、仲谷鳰『やがて君になる』
自分の生むものに価値はあるのか、という問い(椎名うみインタビュー)
先日やっと椎名うみの連載長篇漫画『青野くんに触りたいから死にたい』の既刊全7巻を読むことができた*12。連載開始直後から話題になっていた作品だと思うが、私自身はその題名から、あまり趣味の合わない様式に依存した作品ではないかという偏見を抱いており、しばらく読まないままでいた*13。のちに新古書店で第1巻を立ち読みしてそのなんというか、武骨なまでの危うい力づよさ、に認識を修正してからも、購入、そして今回の読破にいたるそれぞれの段階で、ときどきの事情から若干の足踏みを余儀なくさせられた。ようやくここに至れたことを我ながら喜ばしく思う。
第2巻以降、作品は第1巻を読み終えた時点でも予感しなかった膨らみと勢いを見せており、感嘆すること頻りだった。椎名とその担当編集たしろへのインタビュー記事において、「軸がオカルト」ではなく「恋愛の話」であると言明されていたこともあって*14、私は第2巻を読むまで、たとえば学園内にとどまるような狭い人間関係の範囲で話が展開するものだと思っていた。実際には殊に「新章」と謳われた第3巻*15以降適宜新領域を示しつづけることで、キャラクターの固有性への関心を差し引いてすら成立しうる、連載ストーリー漫画としての高度なエンターテインメント性を発揮している*16。インタビュー記事で語られるとおり、椎名が作品を他者に届けるために想像を絶する努力をしていることがうかがわれ、ほとんど信じがたい。
さて、けれども、今考えようとしているのは直接には作品ではなく、そのインタビュー記事のほうについてだ。【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その3> - コミックDAYS-編集部ブログ-で、椎名とたしろは次のように述べている。いわく、椎名は創作にあたって〈描こうとしているものをきちんと描けるか〉とは別に、〈そもそも自分が描こうとしているものに価値はあるのか、この世に必要なものなのか〉という不安を抱えていた。たしろは椎名が後者の不安を抱えていることにしばらく気づかず前者の心配ばかりしていた、と。私は後者の不安について考えたい。必ずしも不安という語、〈価値があってほしい〉という前提を感じさせる語でなくてもいいのかもしれないが、後者の疑問について言葉を接ぎたい。というのも、なぜこんなものを産まねばならないのか──逸って拡張的に言い換えるならきっと、なぜ生きて、私という視座から世界を切り取らされるのか──という問いは私を引き寄せるにもかかわらず、それこそたしろが問題にしていなかったように、なんだか語られることが少なく思われるから。だから椎名がその問いについて語っているのを読んだとき、私は嬉しかったのだ。
「なんだか語られることが少なく思われる」という私の意見に、首をかしげる人もいるかもしれない。この問いは、〈自分の好きなもの、面白いと思うものを他者が好きではないらしいとき、自分の好きなものを創作するのをやめるかどうか〉という形では頻繁に話題にされているのを見かけるからだ。しかし問いをこの形に還元したとき、産み出そうとしているものを少なくとも自分は好きである、少なくとも
たとえば酒がないと依存症患者は苦しむだろうが、その人にとって酒は価値があるということはためらわれるだろう。
〈他者は他者、自分は自分〉自分にとっての価値を疑わない人間。
作品を世に出すことには責任が伴う。有害と知って散布すべきではない。価値判断の正誤とは別に、当人は価値があると信じていなければならない*17。
まずもちろん、描こうとするものに他者から認められる価値が必要だという椎名の主張は、「漫画家で生活するんだったら」、広くとっても「読んでもら」いたいならば*18、という限定を附したものであって、椎名は「自分のためだけに描」く*19態度を完全に否定しているわけではない。
椎名:そうなんですよね~。でも、そんな私が、この作品に価値があるんじゃないかって肌感覚で信じられるようになったのは、たしろさんが「椎名さんの漫画を信じてるよ」っていうのを何度も何度も伝えてくれたのと、読者の方が熱を持って感想をくださったからですね。そういう言葉が、心の器にたまっていって、ある日あふれたって感じでした。「この物語を書いていいんだ!」って。だからほんとに、周りの人のおかげで「私の作ろうとしている“人間”には価値がある、このまま描き切ろう」って思えるようになったんです。*20
次にその結末部を引用する短文、表現者のために、抽象的なことを|山口尚|noteは、だろう。
じつに、自分の活動をわがことのように「喜んで」くれる鑑賞者が現れてくれば、表現活動はいよいよ「自分だけのもの」ではなくなる。それは、個人的なことに尽きず、自己を超えた何かしらの価値への貢献のベクトルも得るのである。――こうした水準において表現活動に携わるようになると、個別の批判に挫けていられなくなる。
くらもちふさこ『おばけたんご』死者と個人主義
かわいらしい題名……だと読むまえに思っていたものは、実はかなりシリアスな作中設定の逐語訳だ。
端午は私の婚約者だ
「
憧子 は大きくなったら端午君のお嫁さんになるのよ」おばばの言葉に
「およめさんになれば おっきくなっても ずうっとたんごとムシとりやたんけんごっこができるゾ しめしめ」7歳だった私はなんの抵抗もなかったのも当然だ
だから婚約者といっても 7歳のおつむには「コンニャクしゃ」程度に響くだけだった
リアリティを追求するくらもち作品らしからぬ、語りの〈現在〉を提示しないまま為される俯瞰したナレーションに、微かな違和感を覚える*23。その感知は正しくて、回想が端午の事故死によって突然の幕を降ろすと、後景化していた現在、高校生の憧子が現れる。けれども、過去語りへの埋没に現在地が遅れをとるそのありようが示すとおり、憧子の意識は過去にとらわれている。事故死した端午の存在──〈おばけたんご〉に。
人を過去にとらえるのは後悔と罪悪感だ。「なんの抵抗もなかった」7歳の憧子はその夏、端午と忍び込んだ親の医院で、同い年の陸朗に出会って一目惚れし、察知して焦った端午と仲違いした。そのまま端午が東京へ帰ろうという日、陸朗の乗った車を目にした端午は、そっぽを向いて親にいう。「パパー まえのクルマおいぬいて」*24。そして追突事故が起こり、陸郎の両親と端午は命を落とす。
けれども過去がただ責めて苦しめるだけの存在ならば何ほどのこともない。罪悪感に苦しめられるのは負い目があるからで、負い目があるとはつまり、それが自分に尽くしてくれることを意味する。冷たいだけの存在ならば離れることができる。憧子に過去に埋まりかねない危うさを感じるのは、彼女が端午を恐れているからではなく、端午の優しさを信じ、依存しているからだ。実のところ〈おばけたんご〉の語が作中一度も登場しないことは、化け物としてのネガティブな側面を思い描くには、憧子が端午を今なおあまりに身近な存在として、生きていたときの自分に優しい男の子のままの姿で、隣に据えていることを意味する。
たんごさま てえきわすれちゃったよ たんごさま
たんごさま なんとかしてくれないかな*25
「端午さまお願い」が なんとなくクセになってる
過去に絡め取られた憧子の傍らにはあまりに自然におばけたんごが存在し、彼女の支えとなっている。支えとしての死者の善性は、死者への負い目をいやましに大きくし、一層彼女に現在を見失わせていく。
歪んでいるかもしれない私の視野に現れる『おばけたんご』は、〈死者の残念にどう向き合うか〉を
死者にとらわれた人を描く作品は大抵の場合、死者への誤解の解消や、生者との新たな関係の構築による現在の更新を終点に据えるだろう。けれどもくらもちがこの主題を扱った作品には、それとは異質な手触りがある。原因はおそらく、死者に限らず他者とのコミュニケーションについてくらもちがとる姿勢にある。
人はごく当たり前に視野狭窄であるから、完璧にその居場所を得ることはできない。世界は、他人は、主人公が自覚していない場合も含め(自覚していない場合こそ主人公のみっともなさは激しくなる)、主人公にとって理解できない異物であり続ける。だからくらもちの作品では過去や現在との完璧な和解は起こらない。死者にせよ生者にせよ、他者は異物でありコミュニケーションはたいへんである。
しかし生者と死者には一つ異なる点がある。みな視野狭窄で他人には理解できない行動をとる、だからこそ、相手が生者であれば究極的には相手のことは相手自身に任せておけばよい。けれども死者は自分のことを自分でする機会を奪われていて、放っておくと自分の身勝手さが死者を踏みにじってしまうかもしれない。だから自己中心的な主人公は、死者の依り代とされることには強い義務感をもっており、自分ばかりか自分以外の生者も視野狭窄的に犠牲にしながら、残った念に操られ遺志をなぞろうとする*29。
過去とアイデンティティ(米澤穂信『クドリャフカの順番』)
「で、なんのコスプ……」
言いかけの台詞を遮って、クロスレンジに踏み込んでのボディーアッパーが、僕の胃を見舞った。[中略]摩耶花は眼に剣呑な光を宿して、ぼそりと言った。
「カタギさんの前で、その手の用語は使わないで」
コスチュームプレイぐらい、いまどき禁句にすることもないと思うんだけどなあ。
小説『クドリャフカの順番』の作中人物たる高校一年生・摩耶花は、所属する漫画研究会の方針により、文化祭でやむをえず、漫画作品等のキャラクターに扮するいわゆる「コスプレ」をおこなうことになる。事情を知る友人に公道で「コスプレ」の語を出された際の摩耶花の反応が、上の引用部分となる*30。
ここで摩耶花は非オタク一般人のことを「カタギさん」と呼んでいる。これは無論、違法行為を生業とする〈ヤクザ〉と対比して一般人を指す語〈堅気〉のことだろう。「カタギ」という語を選択する摩耶花/作者の言語感覚が可笑しくて印象に残っていたのだが、先日熊代亨「「あの時代」のオタク差別の風景と「脱オタ」について」を読んで、どうやらこの用法が独自のものではなく、ある時期のオタクたちのあいだでは共有されていたらしいことを知った。
世間に向かって「アニメやゲームが趣味です」と表明しにくい時代、マトモな趣味とはみなされない時代は確かにあった。オタクの間で“一般人”“カタギ”といった表現が盛んに使われ、趣味がバレることを“カミングアウト”と呼んで憚った、90年代〜00年代のオタク界隈の空気を、覚えている人は覚えているはずだ。
『クドリャフカの順番』を含む〈古典部〉シリーズの第一作『氷菓』は2001年に刊行された。作中では1967年が33年前と述べられているから舞台設定は2000年、『クドリャフカ』でも舞台は同年だ。また『クドリャフカ』単行本刊行は2005年のことであり、作中設定と別途現実社会が反映されるにしてもこれが下限となる*31。「カタギさん」という言葉にあるいは刻印されていたかもしれないその時代背景を、知らない私は見過ごしていた*32。
言葉にまつわる時代の文脈を知っても知らなくても、二人のやりとりの意味は、表面的には変わるわけではない。摩耶花は自らの漫画趣味を公道で曝すべきではないと考えており、おそらく趣味を同じくしない話し相手の友人は、それをやや時代がかって過剰な羞恥だと感じている。小説本文に書かれてあるとおりだ。けれども「表面的には」と逆らいたくなるのは、事をそこにいる個人の自由選択、二人の感性の差に還元するのがためらわれるからだ。それでは、踏み込みが足りない。
「不完全って、昨日の折木さんの説がですか? 間違っていたんですか」
「わからん。方向が間違っていたのか、踏み込みが足りなかったのか」*33
摩耶花はただ個人的感性にしたがって、自然にこのふるまいを生み出したわけではない。オタクと眼差されオタクと自認したある文化集団に属する者として、そのときそこに流通していた語法を吸収したのだ。吸収した時点で、発生時の含意がどれほどに変質していたかは疑ってしかるべきだろう。摩耶花がその残響と変質にどれほど自覚的だったかも。差異の痛烈な原体験など欠いたまま、差異化の身振りだけを模倣しているに過ぎないのかもしれない。それでも、殊に本作が、自身に切実たりえないものに肉薄するための文章読解に執する〈古典部〉シリーズであってみれば、残響をないとするにはためらいがある。すでに過去に過ぎないことを、きちんと埋葬するためにも、過去を知る必要はある*34。
2012年、〈古典部〉シリーズは「氷菓」としてテレビアニメ化された。アニメでは1967年が45年前とされており、舞台設定は2012年に変更されたことになる。摩耶花はやはり、「カタギさん」のことを口にした。
*1:もっとも、私の知識はほぼまこりん氏によるウェブページ谷山浩子 全小説レビューのみに依拠しており、そのうえ本文で述べたことは知識ではなく知識からの臆断に属するので、どこまで正しいか分かりませんが。
*2:今気づいてびっくりしたことには、コバルト文庫、奥付がないらしい。あとがきに「一九九三年 十二月」とあるので擱筆時期は分かるのだけど。
*3:【編注】その後実見した。嵯峨景子「ピエロが誘うダークな谷山ワールド」嵯峨景子、三村美衣、七木香枝=編著『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』時事通信社、2020年、141頁。なお当該レビューは「従来の谷山小説はファンタジー路線の作品群と、恋愛モチーフの作品群とに分かれるが、『きみが見ているサーカスの夢』は両者の色を融合させたような趣がある」としている。
*4:【編注】この記憶は歪んでおり、実際に書名が挙げられているのは『谷山浩子童話館』『猫森集会』『サヨナラおもちゃ箱』『お昼寝宮お散歩宮』『きみが見ているサーカスの夢』『少年・卵』である。東雅夫、石堂藍=編『日本幻想作家事典』国書刊行会、2009年、439頁。
*5:【編注】未だに見つかっていない。もしかするともともと所有していなかったのだろうか。
*6:【編注】この文章は、当時手がけていた別の記事たちがいつまでも仕上がらないので、箸休めの日記としてそれら将来の記事の内容を紹介しようとしたものだが、結局日記そのものも仕上がらずに終わった。ちゃんと覚えていないが、二年前のこちらの記事に「かかずらっている四つの記事」とあるのはそれらへの言及だと思う。
*7:この点はそれこそ予断をもって読まれそうだが、私は必ずしも、インターネット普及後我々の文章読解力が落ちたという類の話をしているわけではない。いま思うに、私が言葉は〈正しく〉読まれないという感覚を覚えた重要な契機は、印刷された紙の雑誌上で1962年に行われた論争の一部をたどったことだった。
論争中の人物として二名、岡井隆と寺山修司を紹介する。角川書店『短歌』の短歌年鑑1962年版(発行は1961年)で寺山修司が岡井隆の短歌集『土地よ、痛みを負え』を評し、これに4月号で岡井隆が応答した。ところで、岡井は寺山の批判が書中の連作「ナショナリストの生誕」「思想兵の手記」に向けられたものという体で応答している(「現代短歌演習13 〈私〉をめぐる覚書(その一)」『短歌』9巻4号138頁)。たしかに寺山は両連作の名に触れているが、批判に際して挙げているのは別の連作「私をめぐる輪舞」「暦表組曲」なのだ(「前衛の結実」『短歌』8巻13号19頁)。過失か故意かいずれにせよ、対象すら踏まえずに批判を〈正しく〉読解できるはずがない。ところがこの読み違えは正されない。寺山自身が翌年3月号の再説では、おそらく修正の自覚なく、岡井の読み違えに追従するに至る(「「私」とは誰か? 短歌における告白と私性」『短歌』10巻3号68頁)。
両者を軽蔑するわけではない。むしろ論争における優先順位からすればこれがあるべき姿とも考えられるのだ。他者の文章に口を挟むのはまず、自身その論点に一家言ある者、つまり純粋な批判よりも異論の提示を目的とする者だろう。でなければ動機が分からず不気味である。従って論者は持論を開陳することを目的として、典型的には以下のような段階を踏んで文章を構成することになる。
0. 他者の論を理解し、またその理解の客観的な妥当性を可能な限り示す
1. 上記理解に基づき、他者の論の欠陥を指摘する
2. 代案として自説を開陳する
0. と1. が批判読解、2. が異論の提示とまとめられる。しかし紙面や読者の注意量の制約から、すべてを十分に展開できるわけではない。このとき最も優先されるべきは、目的でありかつ独創的とされる2. の部分だろう。論者自身の欲求からしてもそうなるし、読者も1. はともかく0. については退屈がるようだ。批判部分は省略対象、検証に値しない対象と見なされる。してみれば論争に求められるのは他者の読解と応答ではなく、魅力的な異論のカラオケ大会なのだ。批判読解は枝葉、なればこそ岡井は寺山を読み違えたし、また寺山も自分が岡井をどう批判したかよく覚えていなかったのだろう。
もっとも、残されたこれらの記事における批判読解の練度を論争の典型と捉えるべきではない可能性もある。たとえば二人の議論は衆目を集めるためのプロレスだったのかもしれない。また、雑誌記事の合間に私信や対面において対話を深めたことで生じた修正が、雑誌記事においては前提とされているのかもしれない──もしそうなら置いてけぼりの雑誌読者は気の毒だが。しかしその読者こそ、批判より自説開陳を喜ぶのだ。岡井は連載評論中のさらに二回を割いて議論を展開し、しまいに次のような「短歌の生理」を主張するに至る。「現代短歌演習15 〈私〉をめぐる覚書(その三)」『短歌』9巻7号99頁。
短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の──そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物[中略]を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。
この言明は多大な賛嘆反響を呼び、40年後の事典類においてすら「とくに数多くの評論で引用されている」(吉川宏志「現代短歌入門」『岩波現代短歌辞典 デスク版』岩波書店、1999年、242頁)、「私性の変遷を貫いて、[中略]二〇世紀末の現在もなお生き続けている」(穂村弘「私性」同733頁)と評価されている。しかしいかにも奇妙なのは、実のところこの言明が、それまで三回にわたり展開された議論により導かれた定理ではなく、終盤に突如断言されるぽっと出の公理だということである。本当にそんな「生理」があるのか、あるとして言葉一般ではなく「短歌の」生理なのか、なんら説明はなされない(だから信ずるに値しないと言いたいわけではない)。
岡井の連載評論はのちに『現代短歌入門』として書籍化された。論争に当てられた三回は第11章にあたるのだが、一冊を通読すればわかることは、11章の議論の基盤にはつねに第3章および第4章で持ちだされた「場」の概念があるということだ。私性とは「場」を形成する一要素に過ぎない。極端にいって、下手に11章を読むくらいなら3章4章を読んだほうがよい(岡井隆『現代短歌入門』講談社学術文庫、1997年、58–84頁)。
なお「私性」なる語については、当ブログではこれまであいみょん「マリーゴールド」の記事の注釈6および籠釣瓶と『クズの本懐』の記事の注釈11で触れている。この岡井の言明に関連づけて説明すると、前者は、自立に不可欠なのは「人」すなわちキャラクターではなくキャラの水準ではないかという主張であり、後者では、キャラ/キャラクター/実在の発話者がゆらぎつつ重なる機序を念頭に、Twitterを短歌と類比している。
たとえば詩の言葉について述べたこんな一文を引いて、岡井と並べてみたくはならないだろうか。「遍在するのは、ただ一つの顔──どの言葉にも自己の言葉としての責任を負う、作者の言語的相貌のみである。」ミハイル・バフチン、伊東一郎=訳『小説のことば』平凡社ライブラリー、1996年、74頁。もっとも岡井には顔をしかめられるかもしれない。「よそで有用だった概念や分析を無反省にもちこんできて、その実、短歌的土壌の一尺も掘れていないという手合いが多すぎるんだ。他国他郷生まれの概念や分析用語は、税関で厳重審査の上、入国させてほしいよ。」岡井「現代短歌演習15 〈私〉をめぐる覚書(その三)」96頁。
*8:Alternative facts - Wikipedia。(【編注】いったいどの時点の当該ページの内容を読んだのか不明である。確かめる気も起きない。)
*9:特別に歪んだ場については、別の表現をとりつつ以前の記事のとくに注1でも触れたことがある。
*10:二階堂奥歯『八本脚の蝶』ポプラ社、2006年、48–49頁。
*11:野暮を承知で敢えて補足すれば、「享受する際」「描かれることを」想定する、といいつつ、ここには〈私が作者ならこう描く/描いてしまうだろう〉という意味合いがある。作品の賞味には、作品あるいはその創作の機序を探究することが、さほど意識的な必要もない一部として含まれているものだ。
*12:椎名うみ『青野くんに触りたいから死にたい』既刊7巻、講談社アフタヌーンKC、2017–2020年。……とか言っていたら、私が記事を仕上げるのが遅いせいで、書いているうちに第8巻が出てしまった(2021年)。幸い即購入して日を空けず読むことができた。変わらずよかった。特に2点感想を書きつければ、
- 連載始動のチュートリアルとして結果的にその後の物語展開からは外れたものと思っていた第2話が、第3巻の歌ばかりかここに来て衣装係として戻ってきたことに小さな感動を覚えた。ただそれなら147頁の質問と、返答へ納得した風の次頁反応とが不思議ではある。
- 生々しさに力点を置くこの作品で、フィクションが私たちに与える救いが描かれるとは予想していなかったので、178頁からの一連には作者はこんな手まで使えるのかと動揺してしまった。確かに本巻表紙カバーイラストを見たとき、その舞台設定が不思議ではあったのだけれど。思えば作者の第一短篇集表題作は、聞くところによると高校演劇の話なのだった。仲谷鳰『やがて君になる』とか、あとなんだ、峰浪りょう『初恋ゾンビ』もそうだが、漫画の中学高校生はやたらと演劇をする印象がある。きっと作家が大抵フィクション好きだからだろう。
ところでこれは全く主観的なつながりをしかもたない余談だが、『青野くん』第8巻を購入したのと同じ日、私は入手できずにいた明智抄『サンプル・キティ』朝日ソノラマ文庫版第3巻を手に入れることにもなって、やっと『サンプル・キティ』『砂漠に吹く風』を読み通せた。明智抄については以前その訃報に言及した。乱暴に──このブログの記事はいつも乱暴だから──いって、明智もまた『青野くん』と同じように歪な生の究極の肯定を作品化できる人で、ただ明智はおそらく稀有なことに他者に優しくあるという能力を救いの前提としなかったから、その救いは私にとって特別な位置を占めている(二人のあいだに木地雅映子を置いてみようか)。もちろんこれは、明智の作品と椎名の作品に優劣をつける趣旨ではない。
*13:やはりいざ読んでみたらこの種の偏見が裏切られた漫画作品として、ほかに佐倉準『湯神くんには友達がいない』全16巻、それから第1巻しか入手できないままでいるが衿沢世衣子『うちのクラスの女子がヤバい』、の二作が思い浮かぶ。
*14:【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その2> - コミックDAYS-編集部ブログ-。ただし実はインタビューを厳密に読むならば、「軸がオカルト」でないところまでは確実だが、「恋愛の話」なのかは断定できない。たしろは椎名に作品の軸を問うたときこの二者択一を想定していたけれど、たしろを納得させたという椎名の返答が同じ土俵に立っていたものかについて、このインタビューでは明言されていないからだ。
*15:第3巻表紙カバーの裏表紙あらすじより。筆者が所有しているのは2020年9月発行の第8刷。さらに5巻187頁の次巻予告では「四ツ首様編、決着。」なる惹句が掲げられるに至っており、あまりにも〝普通にエンタメ〟した連載漫画風の煽り文句なので愉快な気分になってしまった。
*16:しかしかかる物語の豊かさとは裏腹に、表紙カバーイラストには既刊を通じて、主人公たる刈谷優里と青野くんの二人以外を頑なに配置しない歪さも印象的だ。第3巻表紙カバーの人物が銀髪であるなど容貌が変化していくため、実際に作品を読むまで認識できずにいたが。市川春子『宝石の国』のフォスフォフィライトかよ。実際、『青野くんに触りたいから死にたい』が第1話からぶちかます主要人物二人の〈信頼できない語り手〉感によるサスペンスは、主人公にもかかわらずキャラクターとしてのアイデンティティに支障をきたす水準で身体変容を重ねるフォスフォフィライトが与える先行き不明のドライブ感に通ずるものがある。
*17:「その声売ってんだろ。客の前で自分の売った商品はダメですとかアウトだろ」
有川浩『シアター!』メディアワークス文庫、2009年、143頁。
*18:【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その1> - コミックDAYS-編集部ブログ-。
*19:注14前掲記事。
*20:元記事を読めば分かることだが一応注意しておくと、ここで「“人間”」なる語が登場しているのは、ひとまずは、物語の完成形を人体に喩えるという文脈を踏まえたものに過ぎない。
*21:例えば5巻159–160頁、互いへの信頼を吐露しあったあと藤本からかけられる言葉に愕然とする優里や、7巻176–178頁、名言を大ゴマで放った直後、自分の言葉が自身に不信を抱かせた大人の発言と似ていることにうろたえる優里、といった描写には、一見した正解や安心にまどろむことなく精査を加えようとする作者の姿勢が表れている。
ちなみに私見では、この種のすれ違いを所与のものとする人間観、登場人物は正解にたどり着くとは限らない──いわば、漫画は一人称ではない──という生きたひとりの人間の限界をおそらく本人は意識すらしないまま表現しつづけて極北に立っているのがくらもちふさこである。くらもちふさこ登場時の読者の反応について、恩田陸が第7回 内田善美を探して〈2〉 | 晶文社で「「なんでこんな嫌な話描くんだろう」と憎んでいる子も多かったと記憶している」と回顧するのも、さもありなんと頷かれる。
*22:くらもちふさこ『おばけたんご』集英社マーガレットコミックス、1993年、5–7頁。引用に際してルビを適宜省略、以下同様。なおこの引用中鉤括弧「」表記は、フキダシ中の台詞を意味するものではなく原文ママ。
*23:例えば『おばけたんご』と同じく幼年期を経て思春期に移行する、くらもちの初期作『いつもポケットにショパン』や近作『花に染む』においては、幼年期はリアルタイムに語られる。
*24:『おばけたんご』35頁。
*25:同43–44頁。「てえき」はバスの定期券のこと。
*26:同58頁。
*27:本当はこの主題を掲げて記事を書くなら、あだち充『タッチ』くらいは読まないといけないのかもしれないが、序盤しか読んだことがない。高橋留美子『めぞん一刻』は一応読んでいる。徹底して死者を意思なき記号として扱う『めぞん一刻』は、死者の意思が生者を操るくらもちの世界と好対照をなしている。
*28:この点で、くらもちが自身に作劇の指針を与えた作品としてヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を挙げているのは、本人にどこまで自覚があるかとは別に、あまりにもそれらしい。『ねじの回転』自体はいわゆる〈信頼できない語り手〉を主題に据えた一人称小説として有名だが、ヘンリー・ジェイムズという作家についておそらくより重要なのは、彼が語り手と視点人物を分離することで、作中人物に固定焦点化した三人称小説叙述を理論化した点である。
一人称小説の語り手「私」が、作者になりかわって小説の文責をにない、比較的冷静にすべてを回想して語る人物であるのに対して、視点人物は、あくまで登場人物の一人にすぎないが、作者はその人物に特別な関心をいだき、その人物にとって出来事がどのように見え、どのような反応や認識をその人物に引き起こすかを、つねに記述しようと心がける。作者にとって視点人物は、出来事を語るための方法であるとも言えるが、その出来事がどのような効果をその人物に対しておよぼすか、という、作者の主題的な関心をも引き受けている、と言ったほうが正確だろう。
[中略]「人は現実のすべてを冷静に、客観的に観察することはできない」という意見にジェイムズは傾いていた。現実とは、人にすべてとらえられるものではなく、謎や誤解がつきものである。そのような限界の中でしか、人は現実を見ることができない。[中略]
こうした現実認識論に立つことによって、ジェイムズはプロット上の中心を、現実のわからなさ、誤解のしやすさ、平明な認識の困難、などに見いだすことになった。というのも、視点の方法をもちいることによって、物語や主題になにも違いが出てこなければ、わざわざそんな面倒くさい方法を試みる意味はないから、視点人物によって見えない真相、誤解される表層が、現実観察の必然的な一部として、おのずから強調されることになったのだ。
平石貴樹『アメリカ文学史』松柏社、2010年、263–264頁。漫画は一人称的表現をとろうとすると、すなわち焦点化の対象人物の視野をそのまま提示しようとすると、当該人物の存在が図像上消去されてしまうため、基本的に一人称的ではなく三人称的な媒体とならざるをえない。(例えば猫に焦点化したことで知られるくらもち『天然コケッコー』scene69にしても原則猫の視野を提示しているわけではなく、ほとんどのコマの中に猫自身の姿が収められている。他方漫画に可能なかぎりの一人称的視野を提示しようとした怪作として、高野文子『棒がいっぽん』所収の「病気になったトモコさん」を挙げておきたい。)くらもちの作品はこの媒体特性を真摯に探究することで、ジェイムズ的に制限・多重化された現実認識を有している。例えば川崎ひろこは文庫本解説において、くらもち作品の〈読者に対する不親切〉を指摘する。
事実がどうであったかは、和佳子にも読者にもわからない。これが不親切でなくてなんだろう。
おそらく、作者にとって大切なのは、一つのエピソードが主人公の心に投げかける波紋であって、その波を起こした石ころを描くことは本意ではないのだろう。だが、読み手としては、どんな石か知りたい。それをわかっていて、あえて切り捨てているのか、それとも読者の理解力想像力を信じているのか。
……謎である。
川崎ひろこ「Fの謎」くらもちふさこ『海の天辺』第1巻、集英社文庫、1998年、381–382頁。
*29:別の角度から同じ話をする。世界との完璧な和解が実現しないというのは、自分が主人公だと思っていると足をすくわれるということだ。それをストレートに主題にしたのが『月のパルス』だが、ここでは自分を脇役にしてしまう世界の意志が〈前世からの因縁〉と呼ばれている。死者の残念はこれとイコールで結んでよいだろう。
*30:米澤穂信『クドリャフカの順番』角川文庫、2008年、33頁。ちなみに同書には「どうして摩耶花さんが個人で二百部もの文集を刷ろうとしていたのか、それはわたしにはわかりません。」(57頁)なる文もあり、この箇所の語り手である摩耶花の同級生・千反田が、同人誌やその即売会の概念を有していないことがうかがえる(知ったうえで部数の多さを問題にしている、というわけではないと思う)。もっとも千反田個人の認知を、摩耶花の世代における平均的な認知程度と見なすべきかはまた別の問題だ。というのも、たとえば下記引用箇所から、千反田はおそらく同世代平均よりもサブカルチャーには疎い人物ではないかと類推できる。
「[中略]知らないか?金ヶ崎の退き口」
こういう教科書に出てこないこととなると、成績優秀の千反田は弱い。首をかしげる。
『遠まわりする雛』角川文庫、2010年初版・同年五版、254頁。
*31:参考に附すると、『電車男』映画化が2005年、テレビアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」放映が2006年だそうである。
*32:もちろん、その証言が事実の場合であってさえ、ひとつの証言の適用可能範囲を過剰に敷衍すべきではない。熊代は「アニメやゲーム」を挙げているのに対し、摩耶花は主に漫画を愛好の対象としている(もっとも『クドリャフカ』125頁によれば、ゲームキャラクターのコスプレを解説を受けずに判別するだけの見識は有している)。またたとえば地域性も考慮すべき差異だろう。