意志や倫理についての雑な話

 今日の記事は粗雑で意味の通らないものになるだろう。問題にしたいことにまったく私の言葉が追いついていないからだ。といって問題にしたいことがなにか高度な問題というわけではない。ただ私の言葉が追いつかない。

 

 私はひとつの物語を寓話として好んでいたのだが、おそらく一年と少し前から言及を控えるようになった(元来人との交流が薄いので、それ以前も特段流露はしていなかったと思うが)。その寓話が、社会的な文脈により意図しない増幅を加えられ、ある属性の人たちを傷つけそうだと認識したからだ*1

 私は場にふさわしくない発言というものに対する感度が低く、それは私の無垢よりはむしろ対立物である、私の感受能力の不澄明と狭さを示している*2。それで私はあまり考えずに発言してしまうのだが、にもかかわらず慎んでいるように思い做されることがあるらしいのは、あまり考えたり感じたりしない結果として発言の種自体が少なく、始終垂れ流していても始終垂れ流していないように見えるからだろう*3。だから珍しく考えることは忘れないようこうして書き留めている。

 そんな私が話題を封じようとするのはなにか変わった事態だ。認識の原因となるような個人的実体験があったわけではないし、そもそも大きな心変わりという気もしない。こうして間接に話題にしているあたり垂れ流すという私の傾向は明らかにそのままで、強い自制を課している感覚はない。だから私は従来の態度で接した結果として封じようと思ったわけになる。封じるというからには不自然な堰があって、不自然という認識がある以上負荷を感じていることに異存はないが、それ以上の日々の負荷を全く感じていないと思う。

 よく分からない(私がなにを分からないのか分からないという人の方が多いような気がする。言葉が有意義でない)。

 

 思ったのだが、私は昔の記事で意志ということがあまり分からないと書いた。その線の用語で言い直すと割にいいかもしれない。つまり、私は基本的に私が動くに任せており*4、自分の意志で言動を決定しているという感じはあまりない。身体(という比喩には語弊があるが)の必ずしも強烈でない好悪反応、それから気まぐれというかいわば中立進化的なもので動いている。それを別の言い方で言うとたとえばあまり考えないで発言してしまうというあらわれになり、あるいは自制している感覚がないことになる(そして、いわゆる運動神経が悪いのを自制が利いていると思われることがあるようだ)*5。ところで、ある話題を口にするのをやめることにした私の選択にはどうも意志みたいなものが介在している気がする*6。私が意志的な生き方に目覚めたにしては私のありかたが何も変わっていないのだが、私のありかたも私にとっての状況も変わっていないのに、私による転換がここには起きていて、そこには意志があると見なさざるを得ず、ちょっとなんというか、(これはあくまで暫定的な言葉だが)気持ち悪い*7

 意志があると居心地が悪いのは、罪……なんの定義もなしにこんな語を出すのは馬鹿げているが(だからこの記事は最初から意味の通らないものなのだが)、意志的に犯された罪というのをどう扱っていいのか私にはよく分からないということなのだと思う。

 罪については、まず、弱肉強食とか呼ばれる程度の低い話がある。それから、もしかしたらこれは分からない人も多いのかもしれないが(ひょっとすると私の空想の産物かもしれない)、規則的に犯される罪というのも私には分かる*8。これが何かというと、ポーが「天邪鬼」として定式化したやつである。

 ……いま読み返したら「天邪鬼」はそこまでそういう話ではなかった。しかし適当に引用してみる。

たとえばある時期に、なんとかわざと迂遠(うえん)な言い方をして、聴き手を焦立(いらだ)たせてやろうというような、そんな大真面目な願望に苦しんだ経験があるにちがいない。相手を怒らせることはわかっている。むしろなんとかして喜ばせたいくらいなのだ。現にふだんは簡潔、的確、明晰(めいせき)な言い方をしているのだ。とりわけ簡明な、わかり易い言い方が、今にも口の先から出かかっていて、むしろそれを抑えるほうが苦しいのだ。それに相手方の腹立ちは、怖くもあれば、避けたいものとも思っている。それでいてその時ふと、もしある種の錯綜(さくそう)した言廻しや、插入句などを用いればこいつは相手の怒りを挑発できるかもしれぬ、という考えが頭をかすめるのだ。もうそれだけでたくさんだ。衝動は希望となり、希望は願望となり、願望はやがて抑え切れない切望となり、そしてその切望に(それは現に話し手自身にも深い悔恨と苦悩の種となり、結果の悪いこともみすみすわかっているのだが)、(おぼ)れてしまうのである。*9

 ポーの表現だと切望だとか人間本能だとか、何か深淵に潜むものという感じがするが、私の言いたかったのはむしろ、なんら望みではない、何の本質もない空転する論理ということである。つまり、横断歩道の白い部分だけを踏むとか、反対に白と黒を交互に踏んでしまうとか、そういう類の無意味な準則に従うのと同じ仕方で、罪に導かれることはあると思う(アーレントの「凡庸な悪」とは少なくとも関心が違うのではないかと思うが、読んでいないので分からない)。

 ここまでは分かり、だからまあ適当に罰されればいいと思うが(これは私がその種の罪を犯さないという意図ではない)、意志が存在すると三つ目が出てくる。つまり、純粋に意志によって志向された罪だ。快楽を求めての犯行というのは違い、(突き詰めると境界は曖昧かもしれないがいま大雑把に考えると)快楽を求めるというのは動物でもできることなのでこれは自己を他者より優先するという一つ目の例に過ぎない。意志が存在するとたとえば罪のこの三つ目の類型が出現するのではないかと思う*10。そして私にはそれをどう扱えばよいのか分からない。というのが、居心地の悪さのひとつの理由といえるかもしれない。あるいは反対で、私が三つ目の罪をどう扱えばいいのか分からないのは、私が意志を分からないからかもしれない。

 

【4月8日追記:「中立進化的なもの」という表現はかなり機能不全な比喩に思われる。私の理解では中立進化とは生存上有利でも不利でもない進化、とりわけ、表現型に影響をもたらさない遺伝的変異を指す語である。だから私はこの表現で、何ら好悪のような特徴として結実しない偏り、というようなことを意図していたと推測される。】

*1:これはつまり、私の語りには雑音が多く(これは私の語りの外から私の語りを邪魔する雑音が入ってくる、という意図ではない)、少なくともより精妙に言葉をつかえるようになるまでは弄ぶべきでない、という判断を意味する(雑音どころかそこで伝わっているものこそがまさにおまえの本性なのだ、といった話については措く)。ところでいま私は粗雑な仕方でこの文章を書こうとしており一貫していない。あまり考えずに発言してしまうとはそういうことである。

*2:突飛な発言、というものはまた別にあり(突き詰めれば場にふさわしくない発言も突飛な発言に一致していくかもしれないが)、これをするには発想力が要ると思う。

*3:ここでは私が無神経な言動により他人を傷つける事態が想定されている。それについて考えるうえでは本来、他人の無神経な(と私には思える)言動によって私が傷つく事態についても検討しなければならない。他人を傷つけるという事態に対する想像は、自分が傷ついた経験から育まれるものと思われるし(それのみにより育まれるかは怪しいにせよ)、そうして得る想像が、他人を傷つけうる事態にどうふるまうかを幾分規定するはずだからである。一言でいえば私には、物事をあまり組織的に捉えられないだとかのせいで、あまり他人の無神経な言動に傷ついた経験がないのではないかという感じがあって、それが私のふるまいにも影響していると思う。しかしここを多少なりとも彫り出していける手掛かりがいま全くなくて、書くことができなかった。こうして書き出してみるとどうやら私は自己理解のためにデイヴィッド・ヒュームアダム・スミスを読む必要がありそうだが、読んだことがない。

*4:これは自分を客観視できるということではなく先述のとおり私の視野は狭い。と書いてから読み返したら先述していなかった。「感受能力の不澄明と狭さ」と書いた部分を、書く前には視野という比喩で思い浮かべていたのだ。

*5:ところでこの段落で述べた自己像は、私が以前千反田えるのこと - 人間の話ばかりするで述べた見解と矛盾していないのだろうか。私は、当該記事を読み返していないものの、切り取りかたの問題であって多分矛盾しないだろうと思っているが(少なくとも前段落で「よく分からない」と述べたようなかすかな当惑を感じてはいない)、賛同してくれる人は多くないのかもしれない。

*6:意志による選択ではなくて、状況の変化に応じて出力される判断が変わっただけのことだろう、という筋道を示されそうだが、それではないという感じが明白にする。なぜそう感じるかというと、明白な知識の追加(体験もこれに含む)があったわけではないせいで、「状況の変化」だと思えないからなのだと思う。確かにある認識に至ったことを契機にしてはいるのだが、これは新規の情報の追加によって得られた認識ではなく、ということは新たな認識ではなく(実際その認識によって目から鱗が落ちたという感じはしていない)、したがって状況は主観的にも変化していない。これは多分プラトンが『メノン』でやっていた話だと思うが、これも半分くらいしか読んでいない。

*7:中立進化的なものではないの、という筋道もあって、これについては、それにしてはこれは倫理的な選択の匂いがする、というとても論理のない返しをすることになる。倫理的にすぐれた選択である、という自己顕彰ではなく、倫理にかかわる要素を含んだ選択問題であった、というくらいの意味だが、しかしここまでの議論を普通に追って、これが倫理にかかわる選択であったということになるか分からない。ただ、次段落以降の連想が起きたことから逆算して、私にとってここには倫理の要素があったと考えられる。次段落以降の話がここまで扱った話から連想されたという私にとっての事実はあるが、普通にみて、次段落以降の話にここまでの話はあまり活きていない。

*8:実際に会ったらどう感じるかというのはまた別だ。ともかく話としては分かる。

*9:中野好夫=訳「天邪鬼」『ポオ小説全集4』創元推理文庫、1974年初版・2015年36版、191–192頁。いまインターネット検索エンジンを使うまで完全に忘れていたが、ポーのより有名な短篇「黒猫」により簡潔な説明がある。

*10:このあたりは永井均中島義道がまともに議論していそうな気がするのだが、これも読んだことがない。もしかしたら中島隆博だったかもしれない。無知だ。