詞華集3

 神とか信仰について語る資格が私に与えられているか知らないが、私がいつもあたたかに思い返すのは次の挿話だ。

これは、ペルシア戦争のときに、ペルシア軍の侵入を危惧するデルフォイの人々に対して、神託が答えたことと一致している。デルフォイの住民は、神殿の宝物をどうしたらいいのか、隠すべきなのか、それとも、どこかに持ち出すべきなのか、お伺いを立てたのだった。すると神は、「なにも動かす必要はない。おまえたちのことだけ心配していればいいのだ。わたし自身のことについては、わたしだけで十分に、必要なことを講じることができるのだから」と、答えたという。*1

 これが神のありかたについての話ということになるだろう。そして、両者の関係はともかく生き物の側の生きかたとしては、ディラン・トマスが定本詩集に寄せた端書きの末文が心にある。私は彼の詩をほとんど読めていないが、この言葉は完璧で、以前あとがきというものを考えたときに、言うべきことはここにまとまっていると思った(私の若さからくる過信でないとよい)。

 どこかで読んだのだが、ある羊飼いが、なぜ茸の輪のなかから、群れを守るため月へ向かって仕来たりどおりのまじないを行うのか聞かれて、「やらなかったら糞馬鹿だよ!」と返したという。ここに収めた詩は、多くの無作法や疑い、混乱を伴いながらもやはり、人間への愛と神への賞賛から書かれたもので、そうやって書かないとしたら私は糞馬鹿である。

  I read somewhere of a shepherd who, when asked why he made, from within fairy rings, ritual observances to the moon to protect his flocks, replied: 'I'd be a damn' fool if I didn't!' These poems, with all their crudities, doubts, and confusions, are written for the love of Man and in praise of God, and I'd be a damn' fool if they weren't.*2

 次の記事にはディラン・トマスのとてもナイーヴな詩を載せる。それでこの端書きの話をした。

*1:ミシェル・ド・モンテーニュ=著、宮下志朗=訳「第一巻 第二二章 習慣について。容認されている法律を安易に変えないことについて」『エセー 1』白水社、2005年、197頁。省略した訳注によれば、この挿話の出典はヘロドトス『歴史』サリア訳の八の三六。

*2:Thomas, Dylan. Collected Poems 1934–1952. J. M. Dent & Sons, 1952, p. ii. 和訳は引用者による。