時にはまことの話を:酒のこと

 私のいるところでは急速に、人間に新たな病が広まっている。人知は一面まったく翻弄されながら、ある局面では私の理解の及ばぬその力能を発揮してもいるようで、ずいぶん早急にvaccineが開発され、感染や重症化を抑えるために皆が接種を進めている*1

 そのことがなんだか不意に奇妙に映ったりもする。早急な開発の限界か──などと副作用が無くて当然のように書きつけるのは種痘のいにしえを思えばきっとあまりに不遜だろうが、ともかく今回のワクチンには多少の副作用があって、皆それを知ったうえで、あらためて取り沙汰すに値しない前提のように、するりと飲みこんでいる*2。人々は接種にほとんど必ず伴うものとして副作用を話題にしながら、かかる負荷をもたらす接種をゆえに避ける、という流路はなぜだか会話に現れない。内心そう考える者はいるのかもしれないが、私のまわりで世間話の様式をたどるとき、その流路はどうやらはじめから存在しない。

 本当はワクチンなど接種すべきではないのではないか、といいたいわけではない。誰かにそういわれれば私はきっと、〈多分接種をしない不利益のほうが大きいよ〉と返すのだろう。ただ目に見えるところにこの種の問答がないことが、私を不思議な気分にさせる。問答しない人を無考えだと非難しているわけでもない。大体、彼らは内心充分利益と危険を勘案してすでに結論を出したから、今さら御託をならべないだけではないのか。ただ、私のほうではそれほど明晰な頭脳をもっていないから、自分や目に映る人の行動の理由がしょっちゅう分からなくて、おかしくなってしまう。

 その居心地に馴染み深さをおぼえて、この感覚はたとえば、と思い出す。この感覚はたとえば、酒席にいるときに似ている。私の体質や妄想のせいなのかもしれないが、酒は、酒精は、腹に含むと、美味いかもしれないのと同時に確かにひそやかな毒としての存在を主張する。嫌っているわけではなくて、ただ飲むと、毒だなあと思う。人々も、言われれば特段抵抗せずに、毒であることを認めるのではないか。ここで毒だというのは利益と不利益の差し引きで後者が勝つという意味ではなくて、後者が確かにあるというだけの意味に過ぎない。きっと酒を飲む喜びは大きいのだろう。ただ私はもしかしたら利得損失の差し引きが苦手で、より正確にはおそらく利益と不利益を量的に把握するのが苦手で、毒だなあということを消化しないまま飲んでいる。それで、みんなして当然のように毒を飲んでうれしくなるのがおかしくて、おかしいなあと思いながらうれしく座って飲んでいる。

*1:当然この「皆」には多くの人が含まれていない。アフガニスタンでは戦闘による政権奪取が行われたそうだ。

*2:こういう感想になるのは、私がたとえば育児をする他人の苦悩に寄り添ったことが一度もないからだろうか。育児をする人やとりわけ妊婦はこのたび、ワクチンの危険性の程度について痛いほどの自問自答を強いられているはずだ。