何らかの意味で悪である

()きにならなきゃいけないと(おも)ってつらかったんだね*1

 

 以前先達に、創作を続けてね、と言われたことがあり、あれはどういう趣旨だったのかと甘えた質問をしたことがある。覚えはないけれども私が人にそう言うなら、と前置いて、君は自分の作品に必ずしも価値を感じていないようだから、というのが答えだった*2。たしかに、私は私に強く愛着しているけれども、自身の感受や表現に価値があるとは、ゆえにあまり得心していない。理路は一貫しているつもりで、こうなる。1.ものはそれぞれに異なる。違わないものは違わないのだから違う二つのものとして存在しえない。2.ゆえに、ものの本質あるいは規定が他のものと共有されることはない。3.少なくとも(ひと)(よう)のものにとって、世界をいかに読むか、世界が自己においていかに表出するかは、自己の本質である。4.したがって、自己を規定するような表出感受は、自己を規定している以上、他者に共有されない。それを認めることに自己が依存するような本質的価値は、定義からして、他者に認められることがない*3

 別の言い方をすると、他者に認められうるのはかけがえのある価値であり、全てのものはかけがえがないから、全てのものは自身にとって本質的な価値を認められることがない*4

 いくらか補わねばならない。まず、作品が作者と別物であるにもかかわらず、ここまで、作者の本質と作品の本質の区別が曖昧ではないか。簡潔な一つの立場は、作者の本質とは無関係に作品の本質的価値を問題にするもので、この立場からは、作品を作者と結びつけ作者の将来の創作に期待する理由がない。より現実的には、作品は作者における表出感受となんらかの形で分かちがたく結びつくように思われる*5。というのも作者は単にその全てを造形せねばならないために、最も注意深い感受者と同程度に作品のあらゆる細部に直面することを強いられ、しかもかかる自身の感受にもとづき作品を操作しうるからである*6。穏当にまとめるなら、作者を含む感受者にとって問題になりうるのは作品の本質というより感受者において作品の本質として表出するものであり、そのいかに表出するかは感受者自身の本質だ、という辺りになるだろう*7

 ともあれ、作者は自身において作品にひとつの価値を認め、その価値が他者において認められることはない。他者が作品に価値を認めることはありうるが、その認められかたを作者が本質的だと感じることはできない*8。賞賛を的外れと見て喜ばない態度は他者を不快にさせるかもしれない。しかし、自身が参与しないなんらかの(場合によっては偏狭な)価値観に沿うものとして自身の作品が認められ称揚されたとき、その賞賛を快く容れるべきだという見解もまた疑わしい。

 明らかに手つかずの、より重要な補説がある。私にとって本質的な価値は、少なくとも私に認められているのだから、他者に認められなくとも価値として不足がないのではないか。私の異見はここまでの道行に外れている感もあるが、さしあたり二点から表される*9

 第一に、ひとりがしか認めない価値をただそれゆえに価値として認めて臆しない者は、その破壊的な影響を過少に見積もっているように思われる。ひとりがしか認めない価値は、他者にとって大きな害でないこともありうるかもしれないが、存在者の少なくなさを踏まえれば確実にそのなかに、破壊的な視座をも含むことになる*10。粗雑にたとえれば殺生嗜好のような自己表現だ。

 第二に、少なくともと述べた期待は過剰でないのだろうか。自身を規定するような感受、というより大半の感受は、平板であるとは考えにくい。感受者がその感受にどこまで意識的でいるかは疑問だし、意識しているとすれば、その感受を対象にした感受もまた発生しているだろう。このとき感受者が、意識された自身における表出感受に必ずしも好意的である謂れはない。第一の異見にもあるいは影響されながら、その評価には陰翳がはびこるように思われる。

*1:仲谷鳰やがて君になる』1巻、KADOKAWA電撃コミックスNEXT、2015年初版・2016年9版、35頁。

*2:おそらくこのとき先達は、別の場で私がした特定の作品についての発言を念頭においていたと思うから、本当は「価値」及びその「価値を感じていない」素振りとして語が喚起するよりかなり特定の方向が想定されており、意図を解するにもその具体を踏まえる必要があるのだろうけれども、いまは立ち入らない。

*3:この道行のひとつの奇妙な軸は、ものの不変性、不可侵性(プライバシー)に対する執着だろう。ものが二つ以上存在しているということに私は拘泥しているように思われる。以前十の本を並べたときも、せっかくの十冊は単調にも、おそらく相互に独立でないただ二つの主題の表れに過ぎなかった。すなわち、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」、『あらすじで読む日本の仏様』、「パルタイ」、『古都』、『日本幻想文学集成16』、「美と弁証法」は言葉=二重性(ドッペルゲンガー)の主題に、『学習漫画世界の歴史11』、『ディスコ探偵水曜日』、『隷属への道』、『楽園の知恵あるいはヒステリーの歴史』はクロムウェルの主題——いわば、個人の構え(フィクション)の原理的な非公共善性——に、位置づけられる。

*4:価値とは、同語反復的だが、よさやわるさであり、よいものやわるいものをそのよさやわるさに注目しながら呼ぶときの呼び方である。「本質的価値」は「本質」と同じものを指しており、ただそのよさやわるさへの注目をともなうときの呼び方である。価値は当然、なににとってよいのかという評価の視座を論点として孕む。しかし同時に、なににとってのという限定を省いた「価値」という語単独の通用には、個別の視座を超えた一般的な理解可能性への気配がある。いずれにせよ、認められることのない(認める視座のない)価値は形容矛盾といえるだろう。四点つけくわえる。一つ目に、特にわるいという語が誤解されるかもしれないが、よさやわるさはいわゆる倫理的な側面からの判断に局限されているわけではない。二つ目に、「評価」とか「認める」とかいうときに、意識的に行われている必要はない。「感受」という言い換えはそのことを示している。三つ目に、どうやら私は、評価を伴わない感受の存在をあまり想定していない。別の言い方をすると、よくもわるくもないものをあまり想定していない。おそらく快不快という語にとりかえることで、それを全く伴わない感受が思い描きづらいことは共感されやすくなるのかもしれない。とはいえ快不快という語にも、集団と結びつきづらかったり、選択が可能であることを超えた計量的比較の可能性と結びつけられたりする難点がある。ところで、よさとわるさは一つの対立軸に還元されるのだろうか。四つ目に、これは余談だけれど、何がよいかという価値観については多様性が想定される傾向にあるのに比して、よいものをどう扱うのがよいかすなわち好意や尊重の作法については、一様に想定される傾向があるかもしれない。

*5:

 ですがそれは、作家が何を考えていようと小説にはいっさい反映されないということではありません。私が思うにという範囲の事ではありますが、小説を書く上ではおそらく、この世をどういう場所だと思っているのかは、偽ることができない。この世はしょせん堕落が蔓延するだけの場所だと解しているのか、世界は理想に向かって進歩し続けると信じているのか、人間の本性は善だと思っているのか、それとも人間は一皮むけばどいつもこいつも醜悪だと考えているのか、そしてもっと複雑で全体的な「この世の見方」、いわばその人の哲学を偽って小説を書くことはできない——私はそう思っています。

米澤穂信『米澤屋書店』文藝春秋、2021年、27頁。なお「より正確には、やってやれないことはないけれど小説が薄っぺらくなると思っています。」と注記がある。

*6:しかし作品の細部と作者の関係についてのこの記述は、少なくとも例えば産業アニメーションにおけるような集団制作や、実写映画におけるようないわば現実世界の流用には、即応しないようでもある。

*7:この道筋において、感受者が作者である必要はない。むしろ、自身が創作したわけではない多くの作品の感受者における表出が、かけがえのない価値を体現しながら感受者の規定であるだろう。そしてその感受、その人を規定する評価、ときにその人の愛と呼ばれるものが——この記事でなされた多くの引用がそうありうるように——同じ作品の各自における表出に支えられている作者その他の感受者にとって、許しえない脅かしであるかもしれない。もちろん感受の対象は作者の存在しないようなものでも構わない。私の鼻先でしきりに踊っているものを、きっと次の疑問にまとめてよい。すなわち、私を支えるような表出感受は何らかの意味で悪である蓋然性が高いとして、どうか。

*8:しかし私はこう書くことで、共有を信じたことがあるとかつて書いたときよりも、知的に後退しているような気がする。表現者は、表現を他者に開示している限り、自身の表現に価値があり、かつ、その価値は一部の者に理解される可能性がある、と信じているべきではないか。次に部分を引用する表現者のために、抽象的なことを|山口尚は、現実の適切な記述であると同時に、いみじくも「共有されるべき」と冒頭にあるとおり、規範性を有するように思われる。

じつに、自分の活動をわがことのように「喜んで」くれる鑑賞者が現れてくれば、表現活動はいよいよ「自分だけのもの」ではなくなる。それは、個人的なことに尽きず、自己を超えた何かしらの価値への貢献のベクトルも得るのである。

*9:どうあるべきと感じているのかという問いを含めて、なにがしかについてどうあると感じているのかという問いは、ひとまずは当為ではなく私の事実に関する問いである。当為の一貫した規範ではなく事実の一貫した説明に関心がある場合、一見したところの不整合は道行の()()りであり、親愛を抱けないときでさえ、解消を焦って整合しない項のひとつを排除するよりは、むしろ思索の浅瀬にとどまることで不整合を保持するほうがよいようだ。保持できていれば体調のよい日には手繰れるかもしれないし、仮に、規範を知るべく努めない時間はその分だけ(まさ)に為すべきを為さない罪を生むから規範の探究には猶予が許されないとしても、事実の説明については探究を危うく急かされる理由はないからだ。

*10:ライプニッツはこの問題に恐ろしい答えを与えている。フランクリン・パーキンズ=著、梅原宏司/川口典成=訳『知の教科書 ライプニッツ講談社選書メチエ、2015年、94頁。

 要約しよう。何ものかが現実に存在しているのだから、存在しないことより存在することのほうが完全である。神は最も完全なことを行ったのだから、神は可能なかぎり多くのものを創造しなければならない。矛盾しないものはすべて可能である。それゆえ、神は最も多くの事物が矛盾なしに存在する世界を創造する。これは、可能な限り秩序づけられた世界を必要とする。完全性は、最大の多様性と、最大の秩序を要求する。

 可能なものは等しく現実に存在することを志向する。矛盾するもの同士はつばぜり合って、多くと共在可能なものがその現実存在を確かにし、可能なうちで最も存在に満ちた豊かな世界が実現する。現実存在するほどのものはみな相互に破壊的ではない。共在不可能なものは、あらかじめ私たちにその現実存在を圧死させられているから。