受粉の季節

 受粉の季節がやってきて、もちろん他の時期にもそれぞれ受粉をする多くの植物がいるのだろうけれど、私に感受できるのは大半この頃に飛ぶ花粉らしい。植物は交接のため突端に粉を生じ、気流に乗せて頒布する。浮遊のはて、仲間の花に吸着すれば交わり子を殖やす。仲間の花に到り着くとは限らない。たとえば私の皮膜を覆う粘液の層に着水する。

 たとえば私の眼球に吸着し、爆ぜる。私の眼は仲間の花ではなく、かまわず逸る粉に抉られた微小な部分は受粉により、形を成さない水へ崩れる。風に乗る粉は軽く、ために小さい。接するまで私には認められず、どころか接してもおそらくそれ自体では感受できない。抉られの重なるうちにようやく花粉と気づく。眼蓋(まなぶた)(あい)にうすくはる垂直の水が次第に湧いて、目尻に滲み、ひと時、窪とめくれあがった角質の拡大された像が二三視野に重なる。眼だった部分は(なり)におくれて機能も失い、頬を伝うころには像は加速度的にぼやけ、滑りあがりながら消えていく。それより早く追撃は十もあり、(はだえ)や空気の像が入り乱れる。その()の像も損耗を受けてわずかに乱れ始めており、私はほとんど義務的に杖に縋って、心に留めていた道端の腰掛け椅子へ足を向ける。

 急に祖父のことを思い出す。祖父だと思っていた人のこと。「鶏の卵にゃ雛が入ってる。煩わしいだろ。そこに花粉を注いでやれば、融けてなくなるわけさ。清潔な卵はこうしてできてる。」声は近づき、鼻腔に香ばしく焼けた匂いが広がる。眼窩に流すものがなくなり泣けなくなっている私のまえに、ごとんと置かれる。「食べな。眼が早く戻る。」