『竜とそばかすの姫』が良かった

 人に連れられて、細田守監督の新作劇場アニメーション映画『竜とそばかすの姫』を観たら、すごく良かった。

 これまで細田守の作品でちゃんと観たことがあったのは『時をかける少女』だけで、これは作品の存在は認識したまましばらく見ないでいたのを、何かの機会にレンタルして家で観たのだったと思う。認識したのはいつか覚えていないが、ただ昔同居していた一人がこの映画を大層好きだったのは覚えている。私が観たのは何年も経ち、その人が家を出たあとだった。ほかに、同じ人が居間で『サマーウォーズ』を観ているところを出たり入ったりもしたので、『時をかける少女』以前に『サマーウォーズ』には断片的に触れているといえなくもない。

時をかける少女』は、物語としての訴求力に重心が置かれた作品だった。たとえば後発の新海誠が──そういえば『秒速5センチメートル』も同じ同居人に教えられたのだったろうか。それはともかく、たとえば後発の新海誠が主人公たちの自意識を色濃く反映したモノローグ的な作品を提供するのに対して*1、『時をかける少女』はもっぱら個人の自意識ではなく人物間の交流に関心を寄せている、大変健全な作品だったと記憶している。だからそういう、少なくともアニメーションに見識のない私たち一般的な観客にとっては、メディアでなく物語が目につき後者を味わう作家なのだと思っていた。『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』といった作品群が公開されるたび、物語内容の水準で、その公共機能の薄弱な社会像・家族像の是非が議論を呼んでいたことも、もっぱら物語内容が重要な作家なのだという印象を助長した*2

 けれども、『竜とそばかすの姫』を観てみたら、まったく違う作家だった。

 

 本作を観て、物語内容が重要だと思う人はいないと思う。

 物語内容が退屈だ、というのではまったくない。破綻している、といえば多少は近いが、実際の視聴体験とは印象が異なりそうだ。躍動している、というのが近いだろうか。わくわくさせられる、という褒め言葉では必ずしもなく、いわば物語の遠近感が狂っている。狭小な想像力のせいで消失点を置く位置がおかしいだけで置いた消失点には忠実な凡百の作品とは異なり、異様にちらかった要素が他人にはよく分からない組みあがり方をしている。台詞も情熱的に説明的というか地に足が付いていないといおうか、つまり筋書きも台詞もむしろ要素の過剰に対し説明の尺が足りないから詰め込みになっているのだろうが、散らかりゆえにスピーディで、半分くらいコースアウトしているような気がする。これに疑問なく感情移入して物語内容を味わう人は、あまり想像できない*3

 けれどもその間違っていそうな勢いが、映像の快楽に同期する。

 ここはおそらく肝なのに私に見識がないせいでまったく論証も表現もできない。もしかすると私の勘違いで二度目の視聴時には私自身にとってすら再現できない体験なのかもしれないが、少なくとも今回、特に前半(これは前半の出来がいいというより後半は多少慣れたせいではないかと思うが)、本作を観ながら、私はこれまで自分の理解していなかった、何かアニメーションの快楽の原液のようなものを脳に流し込まれた気がした。世界観が多少変わったかもしれない。

 電脳空間内の表現がどうこうとか、そういう技術的な話は私には分からないが、たとえば日常生活の場面でも、アニメーション中のキャラクターの輪郭線が私には過剰に太いように思われて、またその輪郭線の内が妙に白いべた塗りで、学生の腕脚が皆やたらにひょろ長いことと合わせて、〈これ全き3次元空間の生きた何かじゃなくて、絵が動いてるんじゃん!〉ということを突きつけてくるのだけど、それが視聴の邪魔をせず、ただ観ながらずっと、何か感動を与えられているのだった。

 

 観て良かったと思います。もう一度見たい気持ちと、もう一度観たらこの良さを失ってしまうのではないかという疑いが、今のところ半々です。

*1:偉そうなことをいっているが、新海誠の作品も『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『君の名は。』『天気の子』の4作しか観たことがない。あと、彼が担当した企業CMは見たかもしれないが。

*2:例として、「おおかみこどもの雨と雪」を論じた、河野真太郎『戦う姫、働く少女』(堀之内出版POSSE叢書、2017年)の第2章。

*3:個別の要素に魅力を感じることはありえて、たとえば私の場合、主人公の少女・鈴がやたらに呻る点に好感が反応していた。