白昼夢通信

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする……内に巣食う厭悪が人を取り殺すものならば、早く私自身だけを取り殺してくれればいい。生きながらえれば秘め損ねたこの厭悪は、他人を取り殺してしまいそうだから。……

 

 ☆

 

 くるみさん

 お元気ですか?*1 今日は、書けるかもしれないと思ったので、いつか書くつもりのあった、以前読んだ小説にまつわる話をします。小説そのものとはおおむね無関係に、例えば一語に触発されたような、小説のあたりにまさに纏わっているに過ぎない、私の想念の話ですけれど。いつも、人の言葉を借りては塗り籠めて、私のことをしか話せないおろかしさにぼんやりしてしまいます。

 ともあれ、しばしば思い出すのは次の場面です。

 その授業ではもう少し彼女と話す機会があり、先日、どうして眼鏡をかけないの? と聞くと、彼女は顔を上げて、たぶんはじめて、こちらの目を見ました。持ってるんだけど、と言いかけていったん言葉を切りました。

 ——わたしね、人間が鬼に見えるの。だからあんまりはっきり見たくなくて。

 こんな話、聞いても困るでしょう、と彼女は話を切り上げてしまったけれど、ほんとうはもっと聞きたかったのです。でもそれ以上追及することもできない気がして、今こうしてくるみさんへの手紙を書いています。*2

 私が他人の傷痕をなぞるようにしばしばこの場面を思い返すのは、「彼女」がこの告白をしたくなかっただろうと思ったからです。それは、鬼に見えているのだと告白することによって、くるみさんへの手紙を書いているこの語り手(澪という名だそうです)を傷つけるだろうと思ったからではありません。それよりも、この告白をすることは、相手が鬼ではなく人だと認めることで、つまり相手が鬼に見える自分が間違っていてその誤りの原因は自分にあるのだと認める(ここで「認める」という語に私は、認めた内容が真実だとか、信じられるだとかの含みをもたせていません)ことで、鬼の存在は自分がつくりだした虚妄だと認めることで、「彼女」が鬼に覚える恐怖などはまったく無根拠でむしろ相手が鬼に見えることを「彼女」のほうが相手に謝らないといけないくらいなのだと認めることではないかと、思ったからです。明らかに目の前にある事実を、自分の目のつくりだした虚妄だといつも否定して生きねばならないのは、苦しいことです。

 この印象は、先んじて「彼女」の別の機会の告白に触れたことによって、強まっているのかもしれません。のばらという名の「彼女」と思しき書き手が、鬼に見えない相手へする、うれしそうな告白。自分に見えるものを否定しなくてよい場所。

 あなたがあなたの秘密を話してくれたから、わたしもわたしの秘密を教えるね。わたし、人間が鬼に見えるの。そういう病気なの。だから人がたくさんいる講義とか怖くて出られなくて、何度も留年しちゃった。でも瑠璃さんは鬼に見えなかった。以上、です。わたしの秘密は。*3

 あの日、そんなふうにして迷い込んだ知らない街で偶然(はち)合わせしたとき、覚えてるかな、わたしを見るなり瑠璃さんが、逃げてるの? と聞いてくれたこと、それが一番驚きだったの。そんなことを聞いてくれた人はそれまでいなかったから。[中略]

 いまでも鬼は怖いけれど、瑠璃さんが船で海へと連れ出してくれたあの日以来、わたしはどこへでも行けて、逃げることもできるんだ、と思えるようになりました。折に触れて、そのときのことを思い出す。あなたが逃げるための翼を持っていることが、わたしにはうれしいの。*4

 実際、「白昼夢通信」というこの小説はほとんど、のばらと瑠璃の交わす手紙によって構成されていて、一通挟まれた澪の手紙がのばらに向けている関心は、のばらと瑠璃の物語になんら交わるところがありません。のばらが語る大学は、どんどん人が減って瑠璃とただ二人見下ろしたキャンパスで、そこに澪が認められることはありません。

 その交わらなさが、けれども安心のようなものを私にもたらすのは、還元されずに重なる世界像のどこかに、読者の居場所があるからかもしれません。読者は登場人物の敵かもしれなくて、私はのばらの敵かもしれなくて、手紙の正しく届くときには、野ばらと瑠璃の手紙は(もちろん澪の手紙だって)、私に見られるべきではありませんでした。けれどものばらと瑠璃の手紙も行き違わせるこの小説において、交わらなさは不具合ではなく本来です。そもそもこの手紙は、破られるところから始まるのですから。

すこし重たい銀のフォークを突き立てると、象牙(ぞうげ)色のミルフィーユの皮がぱりぱり(こわ)れて、古い手紙の束を破っているような背徳的な気持ちになりました。お手紙を書こうと思ったのは、そういうわけなの。*5

 澪に対する距離を、読者に対する距離を、冷淡にとるこの小説が、そうして設けてくれた澪という位置が、いつか運河になることも、あるのかもしれません。

*1:書簡体小説「白昼夢通信」において、澪からくるみさんに宛てられた文面は「元気にしていますか? こちらは元気です。」で、〈お〉が付きません。作中「お元気」という言葉を使っているのはのばらだけです。

[前略]私のはじめて活字になった小説「白昼夢通信」は、女性同士の手紙のやり取りから成っていて、「女性らしい」と言われるであろうような文体であえて書きました。

「往復書簡 山尾悠子×川野芽生」『短歌ムック ねむらない樹 vol. 7』2021年、140頁。

*2:川野芽生「白昼夢通信」『無垢なる花たちのためのユートピア東京創元社、2022年、121頁。

*3:同103頁。

*4:同118–119頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

*5:同99頁。