線を何度でも引き直す:こうの史代『夕凪の街 桜の国』

 以下の書評には作中の重要な展開に触れる部分がある。可能であれば、なにもこの書評を読むことはない、とにかく本書を紐解いてほしい。

 わずか百ページ。書名にある2作(うち「桜の国」は2篇に分かれているので、全3篇構成)の漫画が収められているから、1篇ごとはさらに短い。だが、漫画のたとえば小説とは違った力、言葉を使わずにあるいは〈背景〉という形で、ものを繊細に扱うことができるという力をも十全に用いながら、真摯に禁欲的でいて丹念なこの漫画は、その短さにおいて、拮抗している。歴史と、人生と、原爆と。

 切実なこと、しかしゆえに前面に押し出し定型表現化すればたちまち届かなくなってしまうこと。それを伝える丹念な繊細さは、すでに引いた境界線を何度でも引き直す、その執念として結実している。

「夕凪の街」は、戦後十年が経った広島を舞台とする。一見復興を進める街での主人公・皆実の日常に、そこではなかったことにされている、彼女の抱える原爆投下時の記憶が、時折現れる。〈日常を断ち切った原爆〉ではなく、〈原爆を断ち切(れなか)った日常〉を描くこと。関連して、デウスエクスマキナではなく「死ねばいい」という誰かの意図の表出としての原爆に切り込むこと。〈死んでしまった者〉でなく〈生き延びてしまった者の苦しみ〉を扱うこと。読む私のなかの既存の線引きが次々更新される。

 さらに恐ろしいのは、そうして作中で引いた新たな線をも、何度でも引き直すことだ。〈見てしまった人〉として「わたしが忘れてしまえばすむ」と苦しみぬいた末に覚悟を決めて向き合う皆実に、〈見なかった人〉であるはずの同僚・打越が差し出す手、その生の希望。直後、〈生き延びてしまった人〉だったはずの皆実を襲う事態。そしてこの境界攪乱は、〈見なかった人〉のそれぞれの当事者性を現代へと開く「桜の国」へと展開していく。

 過去は、とりわけ切実なものであるほど、しばしば現代から手をのばすことがためらわれる。だが、現代と過去は繋がっている。そのことに、本書は執拗な線の引き直しによって肉薄しようとする。

 

【恒例の書評転載。対象作品はこうの史代『夕凪の街 桜の国』双葉社、2004年。数文字修正している。

 有名になりすぎてオチを知って読む人が増えたせいで見誤られている感がないでもないが、あえて誇張していえば「夕凪の街」はその結末に至るまで〈被爆当事者の話〉ではなく〈当事者になれなかった人の話〉なのだ。そのこと、そして一方で当事者性を攪拌していくことが、本作の中心に据えられている(「桜の国」により顕著)。

〈当事者になれなかった人〉という問題意識だからこそ多くの人に届いたのだし、裏返せばその点で明確に、現代の問題意識から描かれた現代人によるフィクションでしかないのではないかという疑いも生じうる。この点について適切に判断するには、おそらく問題意識が変化している同作者の後年の長篇『この世界の片隅に』も読む必要があるのだろうが、もう随分ながいこと読めないままでいる。

 本作については以前身内に下記のような、まったく別様の紹介をしたことがあり、立ちあがりの生硬な上の書評(具体的には、第3段落まで一文に熟語を載せすぎているのではないかと思う)とはスタンスその他補完関係にあると思うので、こちらも載せておく。

 知性の塊。日常の感性を売りにする(打算ではなく本人が執着している)一方で、この作者にはきわめて強く、リアリズムを等閑視したフォルマリスト的実験遊戯の精神がある(物語性の薄い『長い道』でより分かりやすい。また未読ながらおそらくこの志向は『ギガタウン』に結実する)。本作では短篇3本、合わせて100頁に満たないという脅威の簡潔さもあって、その知的構築力とそれを下支えする表現力を濃厚に感受できる。現実に拮抗するフィクションの力をまざまざと見せつけられる作品である。

 作品そのものの評価とは別に、「夕凪の街」は雑誌掲載が難航したせいで作者の自費出版atコミティアが並行したという裏話も衝撃的。

 雑誌掲載とコミティアについては、たとえば、ニュースサイト「ナタリー」の記事コミティアの歴史 | コミティア―マンガの未来のために今できること 第2回 - コミックナタリーを参照。】