たしかに二つも入ってゐる:エミリ・ブロンテ『嵐が丘』ほか

声のいゝ製糸場の工女たちが

わたくしをあざけるやうに歌って行けば

そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が

たしかに二つも入ってゐる*1

 

嵐が丘』という小説がある(以下同書の物語展開を明かしているので未読の方は注意してほしい)。

 運命的な二人の恋人の物語だ。イギリスの片田舎の地主に拾われたみなしごヒースクリフと、地主の娘キャサリン。二人の激情家は幼い日より互いを魂の片割れと認め合いながら、キャサリンは隣家の坊ちゃんと結婚しヒースクリフは失踪する。やがて戻ったヒースクリフは、病没するキャサリンの実家と嫁ぎ先の全てを手に入れ壊そうとする──そんな恋愛小説あるいは復讐譚だ。風俗小説の本道をはずれて極度に観念的な、巨大な情念のパワーに引きずり回されるような人間観によって、世界文学史上の悲劇的傑作のひとつに数えられている。

 けれども、実は本作を本当に恐ろしいものにしているのは、二人の生涯を費やして迸るこの激情ではない。文庫本二巻*2にわたってただ二人の情念を刻印するため展開されてきた物語は、その最終盤にいたって奇妙な変貌を遂げるのである。両家の末裔たる二人の次の世代、粗野で純な息子と高慢で愛にあふれた娘が、まるでキャサリンヒースクリフのやりなおしのように、急速に惹かれあい結ばれる。そして二人を虐待していたはずのヒースクリフは、まるで憑き物が落ちたように、否むしろ別のなにかに憑かれたように、二人の恋を奇妙にも黙認し、キャサリンの幻影に溺れて死を遂げるのだ。

 この結末の恐ろしさは──そしてこの作品に圧倒されるほかない崇高さを与えているのは──700頁にわたって積み上げられてきた、これあるがため二人はかくあらねばならず小説がかく書かれねばならなかったはずのもの、恐ろしい迫力によりそのことを読者に完璧に納得させてきたはずの唯一絶対のものが、二つめ﹅﹅﹅の登場により脱臼させられてしまうことである。キャサリンヒースクリフにとって、作品世界にとって、存在証明ともいうべき二人の愛が、突如演者を替えて再演されてしまう。二人を、作品世界を規定していたはずの愛は、やりなおしのハッピーエンドの不気味な明るさのうちに、その絶対性を漂白される*3

 私はさきに〈運命的な恋人〉といった。運命の必然による恋人。絶対的な、替えのきかない恋人。当人たちにとって存在証明そのものであるような、たったひとつの恋

わたしにはたったひとつのそらだからどんなかさでもくるくるまわせ*4

 だがもしその恋が必然的であるならば、恋のほうは、誰がそれを演じるかなどという偶発性に左右されない頑健さを備えていなければならないのではないか。イデアは個物に依存しない。優れた劇は再演されねばならない。戯曲への評価を測る最も客観的な指標は上演回数だろう。演者の存在を規定してくれるような運命的な劇は、優れているがゆえに、演者の首をすげ替えて幾度も再演されねばならない。私をとおして演じられる運命の劇は、だからいくら観客が手を叩こうと、私には関係がない*5。いつかどこかで別の誰かが、際限なく同じことを繰り返すだろう。私でなくても演じられるということが、その運命の運命性を保証する*6。個々の演者ではなく唯一運命という作者だけが浮かびあがる、そのことが。

ひとの身につかのま碇下ろしゐる魂よわが湖底痛めり*7

たましひはいくたびもひとを死なしめてみづうみの面にひらかるる蝶*8

 魂は際限なく転生を繰り返す、その軽やかさ美しさに憧れて、実際人の本体は魂だという意見もあるから、私とはつまりこの自由な魂のことだと同化すればいいのかもしれないが、ただそうして魂が酷薄に乗り捨てていく私という現し身の、乗り物にされたせいで負ったこの数々の傷みようは、なかったことになるのだろうか。

 そんなことはあるべきでない、というのが普通の人間の反応で*9、けれども一方で私たちはときどき、世界がそのあるべきでない在りようをしていること、むしろそれこそがあるべき優れた在りかただとされていることを、垣間見てしまい戦慄する。たとえば優れた文芸作品によって。そもそも再読の可能な言葉とは、固有性を毀損する形式だ。詞は繰り返される人も思いもいくたびも纏っては死なしめて。「声のいゝ製糸場の工女たちが/わたくしをあざけるやうに歌って行けば/そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が/たしかに二つも入ってゐる」……かけがえのない亡くなった妹は、二つに増えてしまう。それはつまり、生身の妹と、妹という名の詩と、といえば安直に過ぎるけれど。言葉と鏡は存在を増やすがゆえに忌まわしい*10。二つ目が現れる。いつもいつも、連なる二つ目の三つ目の四つ目の……影を引いて現れる。むしろここにあるのが、四つ目の五つ目の六つ目の……に過ぎない。そして私たちにはもう、はじめにここにあったものが何だったのか、あるときそれを演じた人がそこに込めたもの、取り零したものは何だったのか、区別できない。わたくしをあざけるやうに歌は鳴る、そのことの「なんといふいゝことだらう……」*11

嵐が丘』は結末まで700頁にわたり、迫力に満ちた、激情の圧倒的な存在感を描き出す。けれども結末にいたってほとんど無造作にその絶対性が投げ捨てられるとき、我々は、余人の追随を許さぬその奔流の描出さえ、創造主にはいくつも用意できる再演のひとつにすぎなかったことを暗示される。そしてその救いようのない崇高さに、慄然たる感動を覚えるのである。

*1:宮沢賢治「薤露青」天沢退二郎=編『新編宮沢賢治詩集』新潮文庫、1991年発行・2011年改版、183–184頁。引用に際しルビを省略した。小文字は原文ママ

 もちろん作者にしたところで、なんの葛藤もなく妹の唯一性を放擲したわけではないだろう。出典目次の日付によれば「薤露青」より一年早い作品「青森挽歌」は、次のように閉じられる。宮沢「青森挽歌」同121–122頁。

      ⸨みんなむかしからのきやうだいなのだから

      けつしてひとりをいのつてはいけない⸩

ああ わたくしはけつしてさうしませんでした

あいつがなくなつてからあとのよるひる

わたくしはただの一どたりと

あいつだけがいいところに行けばいいと

さういのりはしなかつたとおもひます

かかる問答が存在することは、作者にひとりだけを祈ろうとする葛藤があったことの証左である。けれどもそれでも、作者はひとりを祈ることをとらないという。

*2:いま私の手元にあるのは、小野寺健による光文社古典新訳文庫の訳本である。

*3:唐突を承知で書きつけると、私が麻耶雄嵩推理小説を好む理由も、つまりはこの三人称的冷淡さにある。麻耶作品のこの性質については、巽昌章が随所で指摘しているとおりだ。

烏有[小説『夏と冬の奏鳴曲』の主人公]の受ける試練がおそろしいのは、最後の最後で、「試練」ということの意味が崩壊させられるからである。烏有は、守るべきものを抱いて世界と戦うことを選択しようとするのに、その選択そのものが、小説のしかける罠によって、見事に関節を外されてしまうのだ。[中略]和音[『夏と冬の奏鳴曲』の登場人物、故人]をめぐるひとびとの辿った観念の迷路を追跡し、筋の通った解決を模索するうちに、烏有は、自分の存在や、自分にとってかけがえのないものまでが一片の記号と化すような世界を、みずから呼び寄せていたのだ。

決定的な試練や選択に直面したひとは、自分が世界の中心に来たと感じるものだ。しかし、世界の中心はここにない。世界は君など眼中にない。麻耶雄嵩の小説はそう語り続ける。むろん、自分が世界の中心だと常々信じて疑わない人は少ないだろうが、世界の中心が自分のまわりにありはしないと、心底思い知った人間もそうそういはしないはずだ。麻耶作品を通じて、私たちは、その絶望を疑似体験する。

麻耶がこうして作中人物を突き放す手つきは、きわめて冷酷だ。「奇跡」が人間たちの意思を無視して生じるように、事件のメカニズムは、烏有のあずかり知らないところで彼の存在を一個の歯車に変えてしまう。しかし、そこまで冷徹でいながら、麻耶雄嵩の小説はついに、この世界とはなにか、自分は何もので世界に対してどのような意味をもつのか、といった問いを手放さない。

 それは、彼が謎解きというものに対してみせる、妙に律儀な態度と似ている。麻耶雄嵩の作品では、奇抜な趣向のもとに、観念と現実、合理と非合理といったけじめがどんどん壊されてゆきながら、どこかに、踏み留まるべき一線が残されている。それを失ってしまえば、推理小説が文字通り形式の戯れに化けてしまうような一線が。

 このきまじめさは何だろうか。世界は把握できない、個人は無意味だ、推理小説にルールなんてない。『夏と冬の奏鳴曲』はほとんどそう断言しているのに、なお幻の境界線がある。それが麻耶雄嵩の姿をうかびあがらせている。

巽昌章「解説」麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』講談社文庫、1998年、715-717頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

*4:大森静佳による、近松門左衛門曽根崎心中』を踏まえた短歌連作「吃音の花」より。大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房、2018年、53頁。いま引こうとして驚いたが、『カミーユ』において、「吃音の花」の歌と詞書の連なりのなかでこの歌を読んだとき私の得た印象は、いまただ一首を示してもほとんど伝わりようがないのだった。大森は当代の傑出した歌人であり、その特異性を私なりの印象で述べれば、文語でないことがほとんど信じられないような異様な歌を読む。

*5:すばらしいぞブラボープルチネッラ、すばらしいぞブラボーじつにすばらしいブラビッシモ!」アンデルセン、矢崎源九郎=訳『絵のない絵本』新潮文庫、1952年発行・1987年改版、53頁。

*6:【8月18日追記】ここで、繰り返しなのだから他ならぬ私がそれを繰り返すのだ、と考えるとおそらくニーチェ永劫回帰というアイデアになる。私は、繰り返しとは違うものを同じものと、あるいは同じものを違うものとみなすことだと感じ、繰り返しのなかの異なるものに執着する。それは私が言葉に執着しているからだろう。

*7:川野芽生ラピスラズリ」『Lilith』書肆侃侃房、2020年、117頁。

*8:川野「舞曲」同88頁。

*9:

わかるかい、アリョーシャ、そりゃことによると、俺自身がその瞬間まで生き永らえるなり、その瞬間を見るためによみがえるなりしたとき、わが子の迫害者と抱擁し合っている母親を眺めながら、この俺自身までみんなといっしょに『主よ、あなたは正しい!』と叫ぶようなことが本当に起るかもしれない、でも俺はそのときに叫びたくないんだよ。まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して《神さま》に祈った、あの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!

ドストエフスキー原卓也=訳『カラマーゾフの兄弟新潮文庫、1978年発行・2004年改版、616頁。

*10:J・L・ボルヘス鼓直=訳「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」『伝奇集』岩波文庫、1993年、14頁を参照。

*11:宮沢「薤露青」185頁。