千反田えるのこと

 高校を舞台にした青春ミステリー小説『愚者のエンドロール』のなかで、登場人物の女生徒・千反田えるが、学友にミステリーの読書歴を問われて次のように答える。

「わたしは、読みません」

[中略]

「全く、全然?」

「わたしはあまりミステリーを楽しめないのかもしれない、と思うぐらいまでは読みました。ここ何年かは全く触れていないですね」*1

 たとえばこの台詞、あるいは台詞からうかがえる彼女の性向が、私は好きだ*2。といってもミステリーを読まない彼女の趣味そのものに共感するわけではない*3。この台詞の何が好きなのかをあえて腑分けすれば、多分に同内容の角度を変えたくり返しであるものの、だいたい以下の4点になるだろうか。

    1. 楽しめないのかもしれない、と思うまで吟味をつづける慎重さ
    2. 〈面白くない〉ではなく〈わたしには楽しめない〉と位置づける、主観的価値(好悪)と普遍的価値(善悪)の切り分け
    3. そのうえで、〈全く触れない〉ことを選びとれる芯のつよさ
    4. 問われればそれを(ミステリーに親しむ)友人に気負いなく表明できる、友人への信頼

 2点目が美質であるのは、本作の語り手・折木奉太郎が嘯くのに倣えば、「今日もはや常識に属する」だろう。現代において、自身の好悪を他者に押しつけないなる規範に実践上はともかく机上でうなずけないようでは、「中学生もやっていられない」*4

 けれども、価値判断の主観性なるときに開き直り染みるまで陳腐化しあるいは棲み分けゾーニング万能主義に堕する紋切り型がしばしば見えなくするのは、主観的価値判断だってその全貌が瞬時に当人に顕になっているわけではないという点だ。

「[中略]……でも、どうして怒ったかと訊かれると」

 そして千反田は、どこか半端な笑い顔になった。

「自分のことは、難しいですね」*5

 何某かの対象に抱いている好悪など自分自身にはすぐ知れている、と過信してはならない。人が対象から受ける印象、影響はそこまで単純ではないし、また絡まった印象の各筋が対象のとりわけどの部分に起因するのか一歩踏み込んで知ろうとすれば、これもやはりためつすがめつの不器用な腑分けが避けられない。「避けられない」は過言で、鋭敏な知覚力センスがあればすべては初めから単純明晰なのかもしれない。なまくらが乱麻に往生する様は如何にも不器量だ。けれどもなまくらもなまくらなりに生きねばならぬので、己とそこに印象として表出する世界を吟味し、時間を費やしながら機序様態についての仮説を手繰ることは、鋭敏でない者にとってこそ、指針を得るための重要な行いだろう。

 もっと簡単に言い直せば、鋭敏でない私は物事の自分へのあらわれかたを理解するために、反芻を基本姿勢としている*6。旨いのか不味いのか、どんな味か、直ちに明晰には捉えられないから、最終審判は曖昧なまま回想吟味する。このやり方が正しいとはいわない。うかうかと過去で口を埋めているうちに、現在が節穴のまえを通り過ぎている気がしないでもない*7。好悪の判断を留保しながら頻りに嗅ぎ回りはする態度を、批評家気取りの粗探し、と遠ざける向きもあるようだ。不味い気のするものを、その不味さを確固として浮かび上がらせるためにあえて吟味するに至って、この姿勢を倒錯的とそしる気持ちも分からないでもない。それでも私に馴染み深いのはこのやり方で、だから、1点目が私にとっては美質としてあらわれることになる。主観的価値を即断せずあるいはできず*8、幾冊を重ねて次第に好悪やその由来を浮き彫りにしていく姿勢、己の味覚に対する慎重な距離のとりかたに、共感的な好ましさをおぼえる。その姿勢はまた、判断を下してなお「あまり」「かもしれない」と留保をつける慎重さや、あらためて2点目の、視座の多様性に対する謙虚さにも通じてゆくだろう。

 しかし価値判断に際しての慎重さと相対化が、選択と行動の無責任な忌避に結果してはならない。固有の視座にともなう偏向そのものは生きるうえでは肯定されねばならぬ指針だ。2点目の切り分けは実のところ、主観を他者の領分に差し込む無礼を諌めるばかりでなく、夾雑物を濾して自身の味覚を探究し、またときには探究した偏向にあえて殉じるもしくは賭けるためにも有用なのだ。自身の好悪と慎重に距離を取るのはより適切に好悪を体するためだし、普遍的な価値は必ずしも私という視座において体現されるべきものではない*9。1点目の丁重さが2点目を蝶番に、3点目を保てる自負を導く。

 最後に、自己の価値観に従うことをためらわないかかる芯の強さを、他者との間で表明できるというのが4点目の美質になる。ここには友人に同調しない淡白さと、同調しなくとも(ある種の人間とは)関係が崩れはしないだろうという期待がある。生活の多くの側面が価値観の表明にならざるを得ない不器用さを見てもいいかもしれない。そして小説は、おそらく彼女の周りに似た人を配しているから、その期待は現に人を得た信頼でありあるいは信頼になっていって、私を落ち着かせる。

*1:米澤穂信愚者のエンドロール』角川文庫、2002年初版発行・2007年10版発行、108頁。角括弧[]部分は引用者による注記、以下同様。

*2:いきなり脇道に逸れると他に感銘を受けた同作登場人物の台詞として、こちらは発言者の人格とは関係なく純粋に内容に感じ入ったのだが、原稿執筆についての寸鉄人を刺す見解がある。

わたしちゃんと、『何か面白いこと書いてやろう』だけじゃ完成しないよって言ったでしょ? 計画性の話じゃないの。もちろんそれもあるけど、それだけじゃないの。こういうのはね、面白くも何ともないところを歯を食いしばって書かないと完成しないっていう話なのよ。

米澤「鏡には映らない」『いまさら翼といわれても』角川文庫、2019年、78頁。『いまさら翼といわれても』は『愚者のエンドロール』、及び後述する『遠まわりする雛』他とともに、主要登場人物を同じくする一連の作品群を形成しており、この小説作品群は俗に〈古典部〉シリーズと称される。

*3:こちらの記事の注3で触れたが私は麻耶雄嵩推理小説がかなり好きだ。これは千反田とはかけ離れた趣味であろうと推測する。

*4:米澤「手作りチョコレート事件」『遠まわりする雛』角川文庫、2010年初版発行・同年5版発行、261頁。

*5:米澤「大罪を犯す」『遠まわりする雛』89頁。

*6:ひさしぶりにこの言葉を引いてみる。吉田健一「飜訳論」『訳詩集 葡萄酒の色』岩波文庫、2013年、293頁。

我々は或るものに打たれるとか、惹かれるとかした時、その原因を求めてその印象を与えたものの正体を探り、そうして得た結果を整理することで我々が受けたもとの印象を再現することを望む。それを言葉でするのが文学であって、その中でこれを意識的に行う形式が批評であると考えるならば、批評と呼んで差し支えない作品を大概この形式に含めることが出来る。

望まない人、嫌う人も多いようだ、と知るには時間がかかった。けれども注意したいのは、印象の分析を嫌う立場が、分析が印象に対する否定として働くのを否む気持ちに由来して見えることで、つまりこの立場も印象に執する点にかけては対立者に劣らない。

*7:

 私は十二ヵ月前の今ころ、つまりこの著作にとりかかった時にくらべまして、ちょうどまる一ヵ年、年をとっております。そして、今、御覧の通り第四巻のほぼまん中近くまでさしかかっているわけですが──内容から申せば、まだ誕生第一日目を越えておりません──ということはとりも直さず、最初に私がこの仕事にとりかかった時に比べて、今日の時点において、これから書かねばならぬ伝記が三百六十四日分ふえているということです。従って私の場合は、今までせっせと骨を折って書き進めて来たことによって、普通の著作家のようにそれだけ仕事が進行したというのではなく──逆に、四巻書けばちょうどその四巻分だけうしろに押しもどされたことになるのです──[後略]

ロレンス・スターン、朱牟田夏雄=訳『トリストラム・シャンディ(中)』岩波文庫、1969年、68–69頁。もっとも本文で述べるのとは違って、引用文中であまりに膨大な自叙伝を書き起こしているシャンディ氏は、過去に寄せるのと同じ限りなく豊かな愛惜の視線を現在にも注いでいる。例えば語りの現在にいるために頻りに衣擦れの音を鳴らしながらついに読者にその正体の知られない「かわいいジェニー」への優しい呼びかけが、彼がけして現在をないがしろにはしなかったことを教えてくれるだろう(ロレンス・スターン、朱牟田夏雄=訳『トリストラム・シャンディ(上)』岩波文庫、1969年、100頁)。

 いえ、私のほうならご心配なく。私の「意見」を書き綴っているうちに過労でこの私の命が尽きてしまうということさえないなら、私はここに書かれるこの私の生涯をもとに、立派な一つの生涯を送ってみせるつもりです──ということは言いかえれば、立派な二つの﹅﹅﹅生涯を共存させて見せるということなのです。

『トリストラム・シャンディ(中)』69頁。

*8:できない、という表現は千反田を見くびっているように思われる。ただ以前述べたとおり私は意志の力をあまり認知できず、ためにしないこととできないことの差異に鈍感である点がこの表現の背景にある。しない人はできないも同然であり、〈できないのではなくしない人〉とはつまるところ、しない人ではなくやりかねない人ではないのか。

*9:

そして個性はその[認識するという]作用を成立させている条件、その仕事に使う道具の生地や木目であって、エリオットあたりと関聯して説かれる個性の没却ということは、彼が実際に言ったことの誤解でなければ、エリオット自身の考えが錯乱しているのである。個性の手掛りさえもなくて、我々には何があって世界に立ち向えるのか。

吉田健一『英国の近代文学岩波文庫、1998年、27頁。あるいは私の世界観に一層踏み込んで述べるなら、ものはそれぞれに異なり(違わないものは違わないのだから違う二つのものとして存在しえない)、それぞれの視座から世界を表出するのであって、その表出するものたちの集合として世界はある。これはただ機序の説明に過ぎないのだけれど、固有の視座から世界を表出することにあなたの存在意義がある、と目的論的に解しても大した違いはない。

一定の場所から[神が]見たとでもいうべき宇宙のそれぞれの眺望の結果が、この眺望に応じて宇宙を表出している実体であって、その際、神は自分の思想を現実化してこの実体を産みだすことがよいと思っているわけである。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ西谷裕作=訳「形而上学叙説」『ライプニッツ著作集 第Ⅰ期 8 前期哲学』工作舎、1998年初版・2018年新装版、165頁。私は正直にいってライプニッツ読んだことがないが、おそらく彼の議論の最初の勘所は、実体がたくさんある、やや狭小に言い換えれば自己も他者も実在しているという信念にあるのだと思う。