動物や言葉のこと

 今日の記事は短いメモである。

 当ブログのタイトルとも関連する話だが、おそらく私は自分を人間ではないように感じたことがない。以前先達に好きな動物を聞かれて「なんだろう、人間」と答えたことがあった(ちなみにその人の答えはオオサンショウウオあたりだったと記憶している)。この答えが自分でも印象的で、その後しばしば思い返してはいったいどういうことか考えていたのだが、どうやら私は基本的に人間以外の動物、もっとも昆虫などになるとまた別だが、陸上のいわゆる動物というと、歯や粘液を連想してしまうらしい。噛まれるのが怖いのだ。弱すぎる思考だが。

 そして人間の場合はなぜか歯を連想しない。もちろん人間は歯をもっているし唾液を垂れ流すのだが──ここで気づいたが、つまり私は生き物を、基本的に食べる存在として、〈口〉として捉えているらしい。ともあれ人間だけはなぜか歯よりも言葉との結びつきが私のなかで強い。交流が噛まれることでなく、遠距離交流のイメージなのだ。ここでドミノだおしのように理解されるが、言葉もまた〈口〉との関連のなかに置かれるものであり、そして〈口〉とは露呈した体内と外界の接点なのだ。だからそこは交流の行われる場である。故に先ほど「食べる」と書いたのはすこし誤りで、食の本分たる消化吸収に重きは置かれておらず、そもそも自身が食べる側に立つことを想定していない時点で、消化吸収などという食べた側の都合は勘案していなかったことがうかがえる。

 粘液にまみれてぐちゅぐちゅとした体内が露呈されるのが口である。粘液というのは、なにか内実があるから水のようにさらりと流れることなくどろりと濃密で、しかも「内実」にとどまるべきそれが液体として浸み出してくるという恐怖を喚起する。そう、やはり「食べる」は誤りで、取り込むことより浸み出すことを問題視しているのだ。歯も、おそらく唾液にまみれているのがよくない。その意味ではむしろ排泄口に近いイメージなのかもしれない。

 内と外の接点だから、よくないものが浸み出す。どろりとしたもの、生き物の生き物たる所以のような原形質じみたものである。他の動物に接するとはこの粘液をかぶることになる。けれども人間との接触はちがって、この粘液に触れなくてもよいよう言葉が覆いになってくれる。言葉を触っていれば済む。

 繰り返しになるが、実際は人間というのも十分粘液的である。たとえば口でなくぶよぶよした身体というのも、浸み出すかもしれぬ内実、その感触の気味の悪さを示唆しているが、人間はハダカデバネズミとならんで、毛も鱗もないはだかであるためにこのぶよぶよした身体を晒している生き物である。ハダカデバネズミのなまっちろい肌を見るとぞっとする。私自身もざっくりそのような容姿をしている。そんな容姿から離れようという努力もしておらず、動物に噛まれる心配をする身体能力の低さから予想できるかもしれないが、私は野外活動の趣味や引き締まった肉体を有していない。

 また言葉を話題にした時点で議論はすでに形而下の水準にはなく、その限りでは人間もしばしば言葉を使って噛んだり排泄したりしているに過ぎなくて、人語を解さぬ動物と選ぶところはない*1。言葉というのはそんなに決定的に生き物のありかたを変容させるものではない。

 ほんとうはもっと心地のよい接触があって、そのイメージをつよくもつことが必要なのだ。体液をずぶりとかぶるような、自が他に浸され汚されるというイメージではなくて、私たちの皮はもっと厚くもっと軟らかくて、触れあえば心地がよいのだというようなイメージが。たとえば動物の体温のイメージは私は普通に好きで、恒温動物というのはきっととてもいいものだろうと認めるにやぶさかではなく、なんなら体温のイメージは私が生きていくうえでの支えにすらなっている気がする。「言葉を触っていれば済む」という認識がまるきり間違っているのだ。先程いったとおり言葉とはそんなに決定的なものではなくて、あるいは孤立したものではなくて、言葉を通じ合わせ会話をするために一番必要なのは、会話をしようという身振りだ。外国で不慣れな言語を使ってする会話のように、言葉の伝達能力には限りがあってたえず小さな失敗が起こるのだけど、その齟齬のコストを払っていいと思っている、と相手に示せることが、交流を可能にする一番の能力なのだ。言い余っての身振り手振りは〈私はあなたに興味をもっていて自分に差し出せるものを差し出したいんだ、自分の表現能力が拙いからといってその範囲内のものに提供を限定したりはしない、一定より深い部分からあなたを排除したりはしないよ、だってあなたと分かち合いたいしそのコストを払うだけの価値があなたとの交流にはあるもの〉というメッセージであり、言いよどむ相手に興味深そうに首をかしげ身を乗り出して目を見つめることは〈私の解釈能力は拙いけど、解釈がうまくいかないからってすぐに投げ出して話を聞かなくなったり不機嫌になったりはしないよ、だってあなたはきっと面白い話をしてくれているし、こんなコストを払うことすら楽しいから〉というメッセージだ。言語交流は、つねに生じる齟齬が受けとめてもらえ致命的なものにならないという言語以前の信頼を前提として成り立っており、それは非言語的な、ゆえに身体感覚的なものだ。だから私はいまだに英語すらまるで使えない。「すら」というなら日本語すらずいぶんと機能不全だけれど。

 裏返せば、この身体的な信頼感覚さえ形成することができれば、言葉は決定的なものにはならない。高度な知的作業を除けば、会話とは基本毛繕いだろう。たとえば犬その他の動物と心を通わせているという人間は一定数いて、これには言葉はいらない。あるいは赤ん坊を言葉を学ぶところまで連れていくには言葉でない交流ができている必要がある。私も幼少期に犬か猫でも飼っていればこのあたりの機微がわかり、ついでに好きな動物は犬か猫ということになったのではないかと思うが、どうせ世話をせず変わらなかったのではないかという諦念もあり、そういえば私には兄弟がいるのに別段言語以前の接触の喜びのイメージは育まれなかったのだった。中学校に入った頃からよく分からない存在になった。それはともかく性欲というのもつまりこの身体的非言語的な接触と共在への欲求で、生殖とは別に、手をつなぐ、身を寄せる、つまりは触れ合うといったあたりが重要なのではないかと思う*2。性別が関係ないのに性欲というのも不都合で、字面からいうと肉欲が妥当だろうが、この語が実際に喚起するものがもしかすると性欲の語よりも性的なのは困ったことだ。そういえば漫画『宝石の国』を読んでいたとき、無性のキャラクターが着る衣服について「センシュアル」という形容が出てきて感心したことがあった*3。先人は〈官能的〉という見事な訳語を当てているが、いわゆる〈性的〉な体験についてはこの官能という語で捉えたほうが理解が捗るのではないかと感じる。それにしても、こういう話をしているとなぜ自分が精神分析理論について学んでいないのか首をひねらざるをえない。ラカンは多分私が自分を理解するためにかなり大事なことを述べているような気がするのだが、どうも読めないのだ。

 短いメモのつもりで書き始めたら途中で話が進んで冒頭の予定が嘘になってしまった。思索の記述自体は悪いことではないけれど、読者について配慮できていないあたりがそれこそ排泄では、と思いつつ、筆を擱く。

*1:「《貝》のなかでは彼女たちは二枚の皮膚を一枚に貼りあわせて共有の膜をつくり、これをへだててどろどろした《存在》をたぎらせている。わたしはむしろ彼女たちがたがいに距離をとり、自分の皮膚を他人のそれからひきはがして、自分だけの孤独をつつみ、こぢんまりした球形の存在になるべきだとおもう。」倉橋由美子「貝のなか」『パルタイ新潮文庫、1978年発行・2004年改版、93頁。内容の観念性からすると意外かもしれないひらがな表記の多さはそこで述べられている世界溶解の感覚とよく合致していて、それを体感することに倉橋由美子の初期短篇を読むひとつの喜びがある。

*2:抱きしめるという触覚については、高橋宣裕によるSense-Roidなども思い出す。

*3:市川春子宝石の国』10巻、講談社アフタヌーンKC、76頁。