眼と首

【一年以上前に書いたまま手元にとどめていたものを蔵出ししてきた。ブログ記事として書いたものではない(具体的にいうならたとえば、縦書き表示を想定して書いていた)ので、やや読みにくいかもしれない。注釈もないので一つだけ附言しておくと、最後から二番目の段落で引いているのは岩波文庫コンラッド『闇の奥』中野好夫訳だ。】

 

 昔「哀しさに眼玉ほろほろこぼれおち以来三味線弾いて暮らしき」という歌を作ってそのまま未完成になっている。おそらく「哀しさ」と「暮らし」が良くないのだがうまく直せない。それはともかくこの歌に詠まれているように私には、眼玉はしてやると無色透明な液体にとろけてほろほろと零れていくという観念があるらしい。きっかけは呆気なくて、たぶん高校時分の生物の授業で豚の眼球をひらいてからだ。人間の眼球には三枚だかの膜があって豚も同じ膜をもつから、豚の眼球を解剖鋏で二つに切って実際に膜を確認しようというような趣旨だった。この生物の授業の先生には豚の頭骨を割って取り出した脳の観察もさせられた覚えがあるのだが同じ時だったかは覚えていない。正直なところ脳は一面の桃色でよく分からなかった。

 眼球の方も膜を綺麗に判別はできなかったような覚えがある。目的に関係のない、眼球の中空部分に満ちていた透明な液体のことが一番印象に残っているあたりで首尾は察せられる。手順の最初に眼球を鋏で切ると零れだした。いわゆる硝子体である。全体どこがガラスなのかさっぱり分からない。無色透明だろうとあの粘度をみせて零れた液体に、割れて刺さるガラスを連想させるところはない。眼球の球面も、液が零れるや内圧を失ったせいか切り口をヘロヘロと情けなく波打たせた。鋏で剖いていく間の頼りない手応えも含め、この眼球面自体のガラスに似ても似つかない軟らかさもまた、零れる液体の印象に溶けこんでいった。

 そういうわけで眼球は軽く圧してやるとたちまちわずかな粘り気をおびた液体に還ってほろほろと眼窩から零れおちる。そのときの擬音はどうもほろほろで、ほろほろと聞くと私は眼玉を連想する。ほろほろ鳥という鳥がいるようでときどき料理店で見かける。生きたほろほろ鳥は口に隠した眼球を両のくちばしで圧し、ほどけた液体が外にほろほろと零れていく。よだれとは粘度が違い、擬音からもそれが分かる。いつまでも零れていくからにはくちばしの間にどこからか眼球が補充されている道理だが、補充経路は明らかにされない。私は調理されたほろほろ鳥しか見たことがない。ウェイターが私のまえをよぎってどこかのテーブルへほろほろ鳥の皿を運んでいく。切り分けた注文主はフォークに刺さった肉片を口に運ぶと咀嚼する。肉汁がみでて舌鼓を打つ。感覚は舌に集中しておりいま注文主の眼がどうなっているのか私には把握がおぼつかない。

 私にも眼があるけれどそのことを眼窩に透明な液体が溜まっているというふうに考えたことはない。ただその意識の不在が自分の眼を見ることはできないという存在の透明に基づいておりその限りで眼玉についての私の観念に寄与しているというのはありそうな話だと思う。見ることができたら始終見ていることになり、そのとき眼球の白はなんだか面積も大きく醜いような気がする。無色透明の液体に帰すると無邪気には信じられなくなるほどに。

 昔私の作った短歌連作を先輩に読んでもらったところ、〈体の部品が散らかっていて理科室のようだ〉と評されて笑ってしまったことがあった。けれどもみんな三十首連作などといって首を並べているのに今更だとも思う。首を並べるとはいかにも崩壊へ傾斜していく行為だけれど、同時にあらかじめ崩れてある世界から身を守るため寄る辺となる呪術であり文化でもあるのだろう。ミスタ・クルツはこの行為の過剰と不足、どちらのために死んだのか。

 私たちは首をささげて道を歩いていく。道は筑波へ連なり、終着の山頂には大きな穴が空いていて、私たちはごめんねごめんねと涙声で叫びながら手を放し首を穴に落としていく。泣いているのはこうして首を並べることで私たちがそれから身を守ろうとしている者が、斬られた首の持ち主だからだ。斬られた彼らは斬った私たちを襲うがすでにして首になってしまった彼らの首が彼らから私たちを守るだろう。手を放しながら私は泣く。私の涙が流れていく。流れていく涙につられて零れ出るには眼球は大きくて、さまざまな肉片や筋も眼玉をとどめる。だから眼窩のなかで流れに洗われながら、ついに眼玉は流れを他人事として静かに涙に浮かびつづける。