エドガー・ポー「Hop-Frog」坂口安吾も添えて

 最近創元推理文庫のポオ小説全集を、通読とはいかないが、歯抜けや順序の前後がありながらもおおむね読み進める機会があった。そこで「Hop-Frog」、この題名は主人公のあだ名でもあって永川玲二による当翻訳では「跳び蛙」と訳されているけれど、そういう題の短篇を読んでひどく感傷的な気分になってしまった。

 ところで全集ではなく単体で読めばおそらくこんな気分にならなかったので、実は読みだしてから気づいたことには私はこの短篇を幼時に読んだことがあった。もしかしたら忠実な翻訳ではなく児童向けのリライトだったかもしれないけれど、とにかく当時は今のような感想は抱かなかったのである。で、それはどんな感想か、を記そうとしてみると、どうやら先に坂口安吾の話をしたほうがよさそうなのでそこから始める。

 なお以下、ポーの「Hop-Frog」ならびに「モルグ街の殺人」「赤死病の仮面」「タール博士とフェザー教授の療法」の物語展開を明かしている。未読の方にとっては初読の興を削ぐことになる旨あらかじめ注しておく。

 

安吾文学のふるさと

 坂口安吾に「文学のふるさと」という文章があって、私は安吾といえば小説「青鬼の褌を洗う女」とともにこの作品を好んでいる。主旨は、人生とはひとり曠野をゆくことであり、その厳然たるさびしさを認めないことにはどんな文学も始まらないのだという、要は単純な「堕落論」に過ぎないのだけれど、私の記憶に残っていたのは、終わり近くで不意に現れさっと引いてしまう次の留保だった。

 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……*1

「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……」この言明にはやはり素朴に胸をうつものがある。文中唯一の三点リーダが用いられているあたり、作者自身が読者へここに万感を読み取るよう暗示している。

 安吾の文章をはじめて読んだとき、〈堕落論〉などという言葉の響きから事前に抱いていたイメージと違って、ひどく健全なので戸惑ったものだった。自殺は虚飾、戦時下の美しさも幻影、見ようによってはこんなに煩わしい正論もない。人間は「堕ちぬくためには弱すぎる」*2という諦観まで含め、馬鹿で幼稚な無責任とは正反対の場所にいる。

 そんな健全な安吾はだからいつも堕落というふるさとを出て「大人の仕事」を果たそうとする。しかし本当に大人なら「大人の仕事」を果たさねばならぬなどと殊更自分に言い聞かせる必要はないので、結局安吾は「大人の仕事」をうまく果たせなかったように思う。まず堕落せよ、ふるさとを自覚せよというところまでは論立てが出来あがっていて、その先に行くことが大事だとも分かっているのだけれど、その先については内実を思い描けていないから、いつも留保のように終盤一段落だけ書きつけて暗示するしかない。三点リーダには言葉の及ばぬ苛立ちが籠められているかのようだ。この構成はたとえば、堕落を道化に置き換えた彼のファルス論にもそのまま当てはまる。

ただゲタゲタと笑うがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑わなければいいのである。そのときは、笑ったことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑いつづけていられるものじゃないことは分りきっているのである。*3

 安吾小林秀雄に「然し孤独を観ずるなどということが、いったい人生にとって何物であるのか。」と啖呵を切ってみせたけれども、その実「見えすぎる目」に苦しめられていたのは安吾自身ではないか*4。「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではない」とうなりながら、安吾は結局いつも、さびしいという人間のふるさとの話に戻ってきてしまう。何がさびしいと言って、「見えすぎる」安吾はさびしくて敵わずそのことばかり書きながら、これではいけないことも「見えすぎ」ていて、だから「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではない」とそれらすべてが塵の山に過ぎないことを自ら書きつけてしまう。そのことがいよいよもってさびしい。「然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。」*5

 倉橋由美子はそんなさびしい安吾を鮮やかに剔抉し、

人間関係の不成立にすぎないので、これは孤独などということばを使うことは(安吾はさかんに孤独とか孤独児といったことばを使っています)、ことばの誤用ではないかと思われるほどです*6

と切り捨てる。その快刀には見惚れるほかなく、実のところ私の安吾観は全面的な倉橋の影響下にあるのだけれども、そのうえで恥ずかしながら私もさびしい子供だから、さびしさを離れられなかった安吾をやはり好む。当ブログも第二回記事ですでに自ら「やぎさん郵便」と揶揄した問題に固執し、その周囲を旋回しつづけている*7。そんな私自身の似姿を、私はここに見いだす。倉橋が小説ではなく他者不在の唄に過ぎないと評した「青鬼の褌を洗う女」は、まさにそれゆえに私を慰撫するのだ。

私は退屈というものが、いわば一つのなつかしい景色に見える。箱根の山、蘆の湖、乙女峠、いったい景色は美しいものだろうか。もし景色が美しければ、私には、それは退屈が美しいのだ、と思われる。*8

 安吾はあまりに健全で合理的だったので、健全で合理的であることのさびしさまで見通してしまって、しかもそこから脱することができなかった。「私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……」

 

狂ったように論理的:ポーと安吾笑劇ファルス推理小説ミステリ

 ポーという人は、まるで裏返しのように安吾とよく似ていたのかもしれない*9安吾は合理の非論理性を認めるほど合理的であり、ポーは論理の非合理性に耽溺するほど論理的だった。語釈の不足したこんな説明では伝わらないだろうか*10。二人が及びもつかないほど快活に「非常識を語り続けた「偉大なる常識人」」*11にして〈ブラウン神父〉シリーズの、いやむしろ『詩人と狂人たち』の生みの親チェスタトンがその機微を自家薬籠中の物としている。すなわち「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」*12論理とは形式であって、それ自体としては何の価値ももたず、実質を取りあつかうための手段にすぎない。ここを違えて自己目的的に駆動した論理は、自身空転する虚飾と化す。「安吾が探偵小説に求めた「合理性」「必然性」とは、そのようなロジックの悪矛盾を断ち切るために打ちこんだ、抜き差しならないクサビを意味しています。」*13仮に合理ということを世の理、実質に合致することと解するならば、論理はそれ自体が突出したとき非合理に転ずる矛盾を抱えている。この極点に達したとき、安吾はその合理精神で、論理そのものの空論性を見通すまでに虚飾を解体してしまい、曠野でさびしさに吹かれていた*14。対してポーは、曠野に発してその空虚から逃れるように、言葉を弄し論理の空中楼閣に熱中した。実際安吾が「心理の足跡」*15を合理的探偵小説の勘所と掲げる一方で、「モルグ街の殺人」の創意の一端は、この短篇が動機なき探偵と動機なき犯人を創出した点にこそあるだろう。心理の介入を排し人間ドラマとしての展開を許さなかったこの短篇をもってはじめて、推理小説というジャンルが読者意識のなかに生まれることになる。探偵は「退屈」を紛らわすべく机上の城を築く。

 非論理的なまでに合理的な安吾は、ふるさとを出ることができずそのさびしさに苛まれた。ポーはさびしさを語るくらいなら、狂ったように論理的であることを選んだ。空虚に言葉を敷きつめて、論理の架空の橋のうえを、ふるさとから遠くへ遠くへと歩んでいった。小説全集全四巻はその営為である。

 だからこそ、そのほとんど掉尾にいたって「Hop-Frog」を読んだとき、私は痛みを感じずにはいられなかった。同作が、架空に疲弊したポーの橋からの転落をしるしているように思えてならなかったからだ。

 

ポー「Hop-Frog」

 1849年、すなわちポー没年に発表された「Hop-Frog」は完成度の高い、そして単体で読むならむしろ人によってはポーらしいという感想を抱くのかもしれないグロテスクな童話である。しかし全集のなかで読んだ私は違う感想を抱いた。

 征服された辺境から宮廷に連れてこられ、道化として仕える小人で跛行の〈跳び蛙〉。仮装舞踏会の相談をもちかけつつ酒の苦手な彼をさんざ弄ぶ王と廷臣を、〈跳び蛙〉はどうにか笑ってやり過ごしていたが、彼の唯一の親友、同郷でやはり小人の踊り子トリペッタが〈跳び蛙〉をかばおうとして王に撲たれ酒をぶっかけられると、突然王をまじまじと見つめ提案する。曰く、鎖でつながったオランウータンの仮装はどうでしょう、鎖をじゃらじゃら鳴らしながら舞踏会場に飛び込むのです、みな逃亡してきた本物の獣だと思うでしょう、殊にご婦人方が恐れ泣くことは間違いありません。そいつはいい、とびきりの冗談だ! かくして全身タイツにタールと麻糸を塗りたくった王と廷臣は、鎖で互いにつながれて舞踏会場に飛びこんだ。予想通りの混乱に有頂天の獣たちが会場の中央に至ったとき、天井からのびていたシャンデリアを吊る鎖が〈跳び蛙〉によって獣たちの鎖につながれ、引っぱられた獣たちは間抜けに団子となる。さては冗談かと合点しどっと沸く会場と上機嫌の獣たち、応えて〈跳び蛙〉は芝居気たっぷりにのたまう、〈さてさて、こいつらの正体は? 俺が見破ってやろう〉。獣たちの上、シャンデリアの鎖をよじ登った〈跳び蛙〉が不意に口笛で合図すると、鎖はさっと引き上げられ獣たちは宙吊りになる。驚いて沈黙する会場を知らぬげに、〈跳び蛙〉はいざ首実検と獣らに松明を近づけ──〈はん、見えたぞ、この仮装連中の〉──タールが燃えあがる!──〈ご立派な王さまに大臣さまがたの正体が!〉そして天井へ消えた〈跳び蛙〉とトリペッタは……「彼らは手をたずさえて自分たちの故国への脱出を果したのだろうと思われている。なぜなら、以来このふたりは二度と姿を見せなかった。」*16

 まず気づくのは、物語の大筋は「赤死病の仮面」の、クライマックスのモチーフについては「タール博士とフェザー教授の療法」の、それぞれ反復だということである。「赤死病の仮面」では、領民が疫病〈赤き死〉に苦しむなか外界を遮断し宮殿に引きこもった大公が、独自の美学に統べられた絢爛な仮装舞踏会を催すが、12時の鐘が鳴ったとき赤き仮装の影が現れ宮中すべての人が息絶える。「タール博士とフェザー教授の療法」では、語り手はフランス南部の精神病院を訪れる。同院が採用している解放治療*17の見学が目的だったのだが、出迎えた院長によれば、解放治療は失敗し先日から患者を監禁することにしたので会わせられないという。院長の誘いに従い夕食に同席した語り手は職員たちの奇妙な会話に困惑を深め、それが極点に達したとき「チンパンジーやオランウータン、また喜望峰に住む黒狒々としか思われぬ一群」が食堂に飛び込んでくる*18。すわ患者の脱走かと思いきや、実は彼らこそ、反乱を起こした患者によってタールと羽を塗りたくられ監禁されていた本物の看守たちだった。語り手が会話していたのは、職員を装う患者たちだったのだ。

「Hop-Frog」は両作の要素を借り受けて、しかも痛ましい単純化を見せている。独自の美学を備えた大公は、「洗煉ということ」*19を解さない王に退行する。運命の象徴のように超然と死を賜った赤き仮装に対し、ここでは卑小なものの怒り、あまりに人間的に正当な復讐が描かれる。オランウータンの仮装も理性と狂気、善と悪の弁別を脅かすことをやめ、自己懐疑へ反転する余地はない。そもそも被害者ではなく加害者にこそ自己分析的に同一化し、そこに私欲という合理的動機を超えて駆動している、本人にも御し難い論理を解剖してみせるところにポーの手腕があったはずなのに。

 探偵あるいは犯人のようなよそ者の立場から、共感ではなく分析に執する。一個の生命、人間としての感覚を不合理に麻痺させ、観念による架空の橋をゆく。そうしてさびしさを切り刻んでいたはずの作家の手腕はここにはもはや見えない。過去作と同じ素材を用いながら、ねじれた論理から武装が紡がれることはない。悲しいほど率直に、ついによそ者であるしかなかった己の孤独が、自らをよそ者と扱った世間への悔しさが、そして自分を肯定してくれる魂の双子とともに〈ここではないどこか本当のぼくらの世界〉で幸せに暮らそうという疲れた大人の幼児退行的な願望が表出している。復讐の残虐ささえ、まさに童話のように。

「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……」〈跳び蛙〉とトリペッタの二人が 「小人」であることが、私には〈子供〉であることと重なってみえる。やはり1849年、ポー最後の詩となった「アナベル・リー」がこぼれてくる。She was a child and I was a child, In this kingdom by the sea ...*20そしてしみじみと思うのだ、私は「Hop-Frog」という短篇を、それを生んだポーという作家を、好んでいる。

*1:文学のふるさと」、引用は青空文庫作成XHTMLファイルから。なお青空文庫の初出情報によれば「文学のふるさと」は1941年発表で、1942年の「日本文化私観」や1946年の「堕落論」よりも早い。

 以下安吾の著作については、長篇『不連続殺人事件』を除き、すべて同様に青空文庫作成XHTMLファイルから引用する。個別のリンクは省略するが、作家別作品リストから各作品へ到ることができる。

*2:坂口安吾堕落論」。

*3:坂口安吾「茶番に寄せて」新字新仮名。なお青空文庫初出情報によれば1939年発表。

*4:坂口安吾「教祖の文学──小林秀雄論──」新字新仮名。

*5:坂口安吾「不良少年とキリスト」。

*6:坂口安吾論」小池真理子=選『精選女性随筆集 第三巻 倉橋由美子文藝春秋、2012年、121頁。

*7:【12月1日追記】「私の思う才能ある人というのはどうも、常に新たな問いを見つけ出せる人ではないかと思う。」

「逆に「才能」(仮)ないなあと思う人(傲慢失礼・飽くまでも私から見て)というのは、その言動はさまざまであっても、あまり疑いとか問題とかを見つけようとしない・現状の何かを繰り返すだけでそこに疑問を持たない人だった。大抵はいつも同じようなことを言い、似たような結論を自分で出している。」

「「才能」という言い方が不正確で恣意的なのだが、ただ、はっきりわかるのは、「話していてその意識の怠惰さに嫌になる人」というのはいるし、そういう人はどれだけ懸命に何かしていても、私の予想では、いつまでたってもその人が最初に決め込んだ空間内から出られはしないだろうということだ。」

Twitter上で高原英理(@ellitic)が2016年6月1日午前の11時31分11時34分11時44分に行ったツイートより。

*8:「青鬼の褌を洗う女」。ところで、私は〈さびしさ〉と引用文中の「退屈」を同一視してこの作品(の語り手の女性)への共感を述べたけれども、たとえば「戦争と一人の女」の「この思想にはついて行けないと野村は思つた。高められた何かが欲しい。」という文を思うとき、女がなつかしい「ふるさと」にまどろみ「大人」に勘定されない、男と異なる存在として描かれている可能性はある。というか、今具体的に例示できないのだけれど、戦後の(男性)評者たちはどうももっぱらそのように、この作品を〈パンパン〉という〈他者〉を書いたものだと思って読んでいたらしい印象がある。そのことに気づかず私はながいこと、この作品への評に釈然としなかった。皮肉ではなく、語り手に異物感を覚える彼らの精神の高潔さに驚くし、またそれを踏まえてはじめて「堕落論」がわざわざ物され騒がれた理由もわかったような気がする。男女の対は「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」にも引き続く。

*9:安吾は1947年に、1931年発表の「風博士」について、愛読していたポーの「ボンボン」「Xだらけの社説」に倣ったものであり、「ポオを訳しながら、この種のファルスを除外して、アッシャア家の没落などを大事にしているボードレエルの鑑賞眼をひそかに皮肉る快で満足していた」と回想している(「二十七歳」新字新仮名)。1932年の「FARCEに就て」でもこれらの名を挙げ、その文章法を「ロヂカルにこねくり﹅﹅﹅﹅廻された言葉のあや﹅﹅に由つて、異体えたいの知れない混沌を捏ね出さうとするかのやうに見受けられる」と評している。

*10:「私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか。[中略]こういう風に明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落だじゃれにすぎない表現法は抹殺するように心掛けることが大切だ。」「教祖の文学」。

*11:「86位 G・K・チェスタトン『詩人と狂人たち』」文藝春秋=編『東西ミステリーベスト100』週刊文春2013年1月4日臨時増刊号、357頁。

*12:福田恆存安西徹雄=訳『G・K・チェスタトン著作集1 正統とは何か』春秋社、1973年、23頁。なおチェスタトンは同19頁でまさにポーを引き合いに出している。「詩人は気ちがいになりはしない。気ちがいになるのはチェスの名人だ。[中略]実際に少々おかしい詩人も今までなかったわけではないが、そういう場合をよく観察してみると、大抵は異常に合理性を好む人であったことが思い当たるのだ。たとえばE・A・ポウは実際に少々おかしかったが、別に詩的であったからではない。異常に理知的、論理的であったからである。」

 ここに安吾の『不連続殺人事件』中、語り手が探偵役を評した言葉も並べてみようか。「だから奴は文学は書けない。文学には人間観察の一定の限界線はないから、奴は探偵の天才だが、全然文学のオンチなのである。」『不連続殺人事件』角川文庫、1974年初版発行・2006年改版初版発行、29頁。

*13:法月綸太郎本格ミステリのアキレス腱」坂口安吾『不連続殺人事件』315–316頁。

*14:「道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは合理の国で悪戦苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。」「茶番に寄せて」。

 なおこの引用からも分かるように、当記事における「合理」という語の用法は安吾(および注11で引用したチェスタトン)におけるそれと整合しているわけではない。この点への批判については、法月の次の言をもって胸壁となしたい。「安吾の探偵小説論とファルス論は、ジャンル論としてそっくりな構造を備えており、執筆時期が隔たっているにもかかわらず、双方に共通の表現が頻出します。極論すれば「合理」と「不合理」という言葉を入れ替えるだけで、ほとんど同じ内容になってしまうようなものです。このことは彼の中で、探偵小説の「合理性」とファルスの「非合理性」が対立するのではなく、むしろ裏表のないメビウスの帯のようにつながっていたことを示しています。」法月前掲書、314頁。

*15:『不連続殺人事件』194頁ならびに273–274頁および二十七章を参照。

*16:永川玲二=訳「跳び蛙」『ポオ小説全集 4』創元推理文庫、1974年初版・2015年36版、336頁。

*17:作中の表現では「鎮静療法」だが、ここでは理解しやすさを優先して、夢野久作ドグラ・マグラ』で同種の療法に与えられている呼称を採用した。ちなみに「タール博士とフェザー教授の療法」が主要な発想源の一つになっているとおぼしい映画として、ヤン・シュヴァンクマイエル監督『ルナシー』がある。

*18:佐伯彰一=訳「タール博士とフェザー教授の療法」『ポオ小説全集 4』221頁。

*19:「跳び蛙」323頁。

*20:トロント大学図書館によるRepresentative Poetry Online収録"Annabel Lee"。ただし注釈から異文を採用した。