子どもども

 平日の朝にすごい数の子供が湧いて出て、赤や青やの革製背嚢ランドセルを負いつつ尽きるともない幾筋をなして進んでいく。それがもうしばらくの間、私が居住家屋を出るたびに続いている。現実味のない光景だ。私の住む国にもうそれほどの子供はいない気がしていた。

 馬鹿正直に受け止めている暇はない。こちらも用事があるから歩き続ける。けれどもそう受け流しているうちに、この世にあることが私の掌から静かに零れ落ちていく感覚もある。居住空間を踏み出した途端ずらずら子供が見えて、私はやらねばならぬことがあって出ているのだから異界に呑まれぬように正気を保とうとするけれど、子供はいつまでも並走し続ける。私が見据えないせいでかえって異界は視野の端に存在をやめない。

 子供がいるわけは分かっている。清潔な大規模集合住宅はきっと入居者として、子供の育成環境を思案するそれなりに裕福な夫婦を目論んでおり、目論見通りの売買成立により、学齢を控えた各戸平均2人を超える児童が夫婦に手を引かれて順次入居した。それがある時間幅をもって、小学校への登校時刻に密集する子供たちとして結実し、受け皿としての繁栄を確信した距離にして徒歩10分程度の大規模小学校舎へ歩んでいく。そういうことだ。そういうことなのに違和感がぬぐえないのは、一つには人為であるという意味において実際にこの現象が不自然でもあるためだが、もう一つには子供は自我がないせいで安易に増殖しそうな気配があるためだろう。安易に増えそうなものがたくさんいると、たとえ理性的に考えれば元からの数を維持しているに過ぎない場合であっても、知らないうちに増殖していたのではないかという不安と、ゆえになすすべもなく増殖していくだろうという不安を打ち消せないものだ。それが私に不自然な緊張をもたらす。大人は勝手に増えないから見ていて安心である。もっとも実際に人間の増殖即ち生殖を行うのは大人のほうではある。