春はとっても遠いとおもう(永井祐と倉橋由美子)

【ちょっと前までいくつか記事の下書きを試みていた覚えもあるのだが、どうも更新の見込みが立たないので(為すべき多くのことが出来ていない)、例によって転載でお茶を濁すことにする(一部表記等を修正している)。これは従前転載してきた書評と若干切り口が異なり、「私の好きな一節」というテーマでのリレーエッセイ企画に寄せた文章だった。どうやらあまり多数派ではないが私にとって真実である感覚を、著すことによって世にあらしめたような、割合意義のある文章だったと思っている。ただし永井の主な歌の持ち味を「流れをだらだらさせることにある」と表現するあたりはどうも全く言い得ていない。ここで倉橋由美子について書いたことは、その後「動物や言葉のこと」という記事の注1で簡潔に再利用された。】

 

 本として出会わなかった言葉、というものもある。あるときたまたま手に入れた、なんというか、チラシを読んでいた。チラシといっても随分立派で、何度もたたんであるのを広げれば多分A1サイズほどある。全国の大学短歌会のアンソロジーのようなものだった。

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう

 そこに載っていたこの短歌を読んだとき、途方にくれてしまった。居並ぶ三百首余りのなかで、この歌だけが異様だった。

 いい、わるい、ということではない。この説明で合っているか分からないが、ほかの短歌には基本的に、一首を通る流れのようなものがあった。たとえばこんな歌。

感覚はいつも静かだ柿剥けば初めてそれが怒りとわかる [服部真里子]

 負荷をかけられたわむことで流れがきしんでいるような歌もあるが、その場合にはいわば負荷の力点を中心として一首の凝集性が増しているために、流れるときよりかえって歌の単体性、内部の連結性が強く意識される。

 ところが、この歌の言葉はまるで違うように思えた。一語一語、一文字一文字が、カタカタと音を立てながら進行していくような、歌が解体したような感覚に襲われる。いわば、言葉がアナログでなくデジタルな世界。何がそんなに特別なのだろう。「とっても」の促音、「おもう」のひらがな表記、名詞「五円玉」のあとの断絶? でも、それらは全く見かけないというほどのものだろうか。わからないまま、しばらくしてこの短歌が載っている永井祐の歌集『日本の中でたのしく暮らす』を買った。でも、この本を読むと、どちらかといえば作者の歌の持ち味は流れをだらだらさせることにあるようだった。

終電を降りてきれいな思い出を抜けて気付けばああ積もりそう

 これはこれでいいけれど、謎は解けないまま。あるいはすべて私の思い違いなのだろうか。

 半年ほど経ってから不意に、ひょっとしたら一つ、どこか通じるところのあるものを知っているかもしれないと思った。

 ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。わたしはあなたがそれまでにも何回となくこの話を切りだそうとしていたのを知っていた。それにいつになくあなたは率直だった。そこでわたしも簡潔な態度をしめすべきだとおもい、それはもうできている、と答えた。[中略]あなたは眼鏡を光らせすぎるので、そのむこうにある肉眼の表情がわたしにはよくみえない。あなたの歯ががちがちと鳴るのは、できのわるいガイコツの咬合をみるようであり、あなたは不自然なほど興奮していたにちがいない。わたしはおもわず動物的な笑いをもらした。するとあなたはわたしの手を握った。いつものようにあたたかくて湿っぽい。多少居心地のわるいかんじだとおもう。 [倉橋由美子パルタイ」]

 倉橋由美子の初期作品を読んでいると、文章がひらがなに融けていくような錯覚に陥る。もちろん永井の歌と違う点もあり、こちらは長い散文だからか、デジタル性が、永井のように空白(離散)を際立たせるよりはむしろ平坦な連なりの印象を与える。

 倉橋由美子の文章の秘密もよく分からない。単に内容が観念的だから、というわけではないことは、たとえば同じように観念的な松浦理英子「葬儀の日」などと比べてみてもわかる。ひとつには実際にひらがなの使用量が多いのではないかと思うがどうもそれだけではない。倉橋自身は窪田啓作訳『異邦人』の文体を模倣したと述べているが、かつてあちらを読んだときにはこんな感覚は生じなかった。強いていえば、彼女の文章がもつ世界への悪意のようなものがすべてを融かすのだろうか。

 先ほど「初期作品を」と述べたが、その後の倉橋由美子の文章は、なにか仮面を思わせるものになる。

 どこからか吹き込んでくる雪まじりの風が、パイプオルガンの低い音に似た不思議な響きとともに廊下をかけめぐっていました。わたしは埃のつもった階段をみつけると、錆びた手摺のパイプにさわりながら、どこまでもおりていきました。 [「輪廻」]

 正門に傘をさしかけるようにして枝をひろげている菩提樹のまえで、桂子は日傘を傾けて軽やかに歩いてきた女とすれちがった。思わず振りかえると、そのとき相手も振りむいたのに眼が合ったようだった。桂子は中途半端に会釈のようなそぶりをした。 [『夢の浮橋』]

 これもまたどうにも奇妙だと思う。