レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』愛の自家中毒

【以前の「眼と首」につづいて、昔書いた、悪くないと思っている文章をブログに転用する。もっとも、まったく契機なく書いて事実世に出ていなかった前回の随筆と異なり、こちらは一度曲がりなりにも公表したことのある書評だ。書評には860字という制約があった。制約があると、削れないように思える筋や枝葉も徹底して削らざるをえなくなり、論旨も表現もすらりと整頓される。そう知っていてなお、言葉を用いるに際し削ることを強く厭いつづけているところに、私の頑迷が表れている。ともあれ以下の文章は、当ブログとも共通する私の関心の中核付近を話題にしながら、ほとんど例外的なまでに風通しのよい、読者に届く言葉になっているのではないかと思う。

 書評対象は、レベッカ・ブラウン柴田元幸=訳『私たちがやったこと』新潮文庫、2008年。短篇小説集だ。なお、「変態」というテーマを掲げた特集企画に寄せた原稿だった。書評中に「変態」という語を繰り込んでいるのはそのためである。】

 

 関係のないところに名前は発生しない。だから名前は口にされるとき、それを成立させている関係、空間あるいは社会を呼び寄せる。私が友人に呼びかけるとき、用いるのが友人の本名であれあだ名であれ、呼びかけはその友人がそう呼ばれる空間を召喚してしまう。たとえその場に二人しかいなくても、見えない関係構成者が背後に累々と立ち現われ、透明に笑っている。

 それに慣れない私は、代名詞を、とりわけ〈私〉と〈あなた〉を、ライナスの毛布のように抱きしめ、名前として用いる。その場限りで生成消滅し、見えない第三者を呼び寄せない代名詞。どこか遠くのほうから私たちを束縛する空間を呼び寄せない、私一人分だけを背負えばいい代名詞。でも、私はすぐに気づく。今度は〈今・ここ〉が、原点としての私が私たちを束縛していることに。そして、その原点にあなたが重ならない以上、〈あなた〉として切り取られたあなたはいつか修復不能なほどに切り裂かれていく。

『私たちがやったこと』に収められた七篇は、いずれも〈私〉と〈あなた〉をめぐるものだ。幻想的、変態的な恋愛小説という印象を与えるのは、「安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した。」(表題作より)といった奇抜な展開ばかりが理由ではない。多くの作品で、代名詞が呼び名とされ、そして現在時制で文章がつづられる。〈今・ここ〉に生きたまま展翅された〈私〉が呼び寄せる、現実にはありえないほど切実で濃密な〈私たち〉という空間。それが本書に収められた短編なのだ。

〈私たち〉は、必然的に壊死していく。作品外からの束縛を嫌い書き手が原点として君臨する小説という空間もときに、〈私たち〉に重なって見える。それでも〈私たち〉に、そして小説に筆者レベッカ・ブラウンが執着する理由は、「よき友」を読むと分かるかもしれない。「よかれと思って話せば、本当なんだよ」。現実的な世界を描き、集中もっとも開かれた空間を感じさせるこの作品の、「おはなし」によせるささやかな希望が胸にしみる。