無題

 昨日投稿した記事はどうもあまり良くなかったのではないかという気分が体のうちに溜まっている。

 もともとしっくり来てはいなかったのだが、書けそうだったのでまあ書こうと思って書いて投稿したのである。私は元来活力がないので、通常迷うと行動しない、世に出さないことを選ぶ。けれどもそういうあり方に不安をもってどうにかこのブログをはじめた。しかしはじめてからも、記事を書くのに勢いが足りず、妙に時間がかかる。中途で記事を塩漬けにしてしまう傾向もあるし、もし執筆時間が確保できなくなれば記事を完成させることはほとんど絶望的になる。だから違う書き方も試みるべきだと思い、先月末には20分ほどで記事を書いて投稿してみた。書名を二重鉤括弧に入れるかという表記さえ記事中でぶれているあたり不恰好な味のある記事だが、それよりも中盤からの説明が他人に伝わるようになっておらず言葉が浮いている。けれどもとにかく書いて投稿したし、昨日も書いてみたのである。実は並行してふた月以上も時間をかけている三つの記事が存在し、さらにはその途上で生まれた四つ目の記事もあって、それら四つに時間を費やしつづけることがいま私にときに快楽を与えまた害をなしているようなのだが、それで気散じの意図もあったのだろう。

 しかし、結果として昨日のは良くなかったような気がする。せっかくブログがあるのだし、と思って、書きはじめて投稿したのは、今回についてはたぶん良くなかった。なぜだかは分かっていないが良くない文章ではないか。言葉が根づかずいたずらに浮ついていることは先月末の記事に劣らないが、加えて自分をどこにおくか、何を求めどう理路をたどっているのか、変に糊塗した文章だという印象を与えるのかもしれない。つまり、読者も筆者も曖昧模糊としていたずらにふくらんでいる文章ということになる。少なくとも先月末の記事は、ずっと自分のなかにあって、どこかで出そうと思っていたことを内容にした。昨日の記事は、他人を罵りながら、自分の立ち方に臆病な低劣なところがある。自身の視座を整頓して提示できなかったことに苛立ちながら、浮ついた言葉で由来を不透明に糊塗し、相手の論を内在的に批判したような装いをまとっている。

 そういうことだろうか。

 それとは別に言葉の上滑りという点では、そもそもいまの私は「説明」に偏重しすぎていることがよくないのではないかという気がしてきている。小さな頭のなかでふくらみすぎているのだ。だとすれば、問題の二度の投稿以前最後の記事で私が写生スケッチと書きつけているのは、案外一面の真理を突いているのかもしれない。もっとも、こう感じるのは、先月末の記事を投稿したあとでアゴタ・クリストフ悪童日記』を読んで大層楽しんだからかもしれない。おそらく調子が悪かったのだがこれを読んで救われた。だから、それが昨日の投稿でおじゃんになった気配がしたとき良くないと思ったのだ。かかずらっている四つの記事のなかには言葉への不信のようなものも滲みているのだが、そう書いていながら気分が一篇の小説で簡単に晴れあがったのはどうにも可笑しくて、結局単純に、私の場合ある種の小説のような文章を、おとなしくそれなりの頻度で摂取しないとけっこう精神に害がある、というだけの話なのかもしれない。『悪童日記』までの一時期、小説や漫画を楽しんでいなかったのだ。ひと月ほど前にはいろいろな感情や思考が対消滅して、早いところ道満晴明『オッドマン11』の2巻を入手して読もうという気持ちだけが自分のなかに残っているくらいだった。