他人に伝わるように言葉を使いたい

 言葉を使えている気がしない。もっとまともに言葉を使えるようになりたい。

 前回はとうとうこのブログの記事ではじめて字数が1万字を超えたらしい。注釈も21もついている。これら事象の中心にあるのはやはり引用の多さだろう。

 前回の記事は一面では、なぜ私がそれほどまでに引用するのかを述べた文章である。学を衒い煙に巻きたいわけではなく、言語はつねに引用の香りをまとっているという私の感覚から来る、ある程度の内的必然性をもった表現なのだということを、できるだけ説明したつもりだ。私は決して、分かりにくく書きたいわけではない。むしろ、誰にでも分かるように書いたり話したりしたい。引用出典表記をするのも、しないよりするほうが親切だと考えているからだ。私は〈分かる人にだけ分かる話〉というものに不安をおぼえる。暗黙の前提を共有する集団に、心情上積極的に同化することはどうやら私には難しいし、排他の対象は自分であるかもしれないと感じる*1。前提を可視化する注釈は初見では煩雑でも、一度読めば、思い返すときには本文に溶かし込むことができる。つまり最初は知らなかった読者もその後は注釈の内容を前提とすることができるわけだ。初読以降のことを考えれば、言葉の来歴は明示したほうがよい*2

 もちろん全ての語の全ての脈絡を書き入れることは不可能だ。どこかで暗黙の共有知にたよるほかなくなる。できるだけ誰にも伝わるようにといいながら、表現手段に日本語を使っていることがすでに馬鹿馬鹿しい。なぜ英語かなにかを使うことを検討しないのか。もちろん英語使用が米英を中心とする西欧の排他性への加担として機能することは無視できないが、現在のところ非母語使用者にすぐれてひらかれた流通語リングア・フランカの筆頭であることは間違いないだろう*3。排他性なき言語使用など所詮は、英語を使うことさえ含め、程度問題に過ぎない。しかし程度問題の程度を試行錯誤することこそ人生の重要問題である。

 また一方で出典表記には、私におけるその語の脈絡を明記することで、私の理解の客観的な妥当性を検証する余地を読者に残しておきたいという思いもある。語の連絡が濃縮されているのか破綻しているのか判別しがたい、有意義かもしれないが無意義かもしれない秘教的な文章を前にしたとき……つまりその文を生んだ集団(筆者一人かもしれない)への加入を試みるか否かが問われるとき、筆者が脈絡を見てとっている他者の文章そのものにあたることができれば、原典との比較により、筆者の解釈が検証に耐えるだけのしなやかさレジリエンスを備えたものか、ある程度察することができよう。無論曲解の独創にも固有の価値があるかもしれないが、少なくとも自分が参入できるほどにその集団が他者にひらかれているかを判断する材料にはなる。繰り返しになるが、私は秘教的な文章を書きたいわけではない。むしろできるだけわかるように書きたい。無内容をごまかしたくはない。

 だから引用や注釈が多出することには私なりの理がある。けれどもその主張をそれ自体引用注釈を多用しながら説いては、その書き方をわずらわしく思う人には読んでもらえないのだ。ある主張を、その主張を飲み込まなければ読めない形式で主張するのは、無意味だ。伝わるように書いたり話したりしたいというなら、相手にあわせることを考えなければならない。結果として伝わらないことと、伝えようと試行錯誤しないことは全く別のことだ。

 

 しかし問題はそこにはないのかもしれない。

 読者や会話相手からの反応を受けていないので、現に伝わっていないというよりも、私が〈これでは伝えていないだろう〉と感じている、というのが現状だ。私はいま、自分の書く文章に不満をもっている。

 おそらくは自分の言葉の表現範囲、扱う主題の範囲が狭いように感じて苛立っている。このブログは開始以来、似たようなことしか書いていない(そして実のところ、私は日常会話でも大体こんなことしか話せない)。書き方も拙い。拙いというより深まっていない。いや、それら自体は本質的な問題ではなくてつまり、読んだところで特にどうともならない文章で困る。

 それは読者のことを考えていないことと連動していて、他者が不在だから内容が拡張しない。それは当初から予想されていたことで、ただ、他者の言葉や作品への反応として記事を書いているのだから、読者という終点ではなくとも始点に他者性を含んで拡張が行われるのではないかと私は楽観していた。引用の多出もこの思惑に連動していた。

 けれどもたとえば安吾・ポー評籠釣瓶の台詞随想をいざ書いてみると、なにか致命的に息がかよっていないという感じがする。この評を読んだあとで、作品も評も読みたく(あるいは読み返したく)ならない、といえば妥当だろうか。何かを言い得ているという快感が、一個の文章としてはない。しかもそのくせにこれらの記事の字数は長い*4。少なくとも文章を締まらせるという観点からは字数制約がないことも問題かもしれない。

 しかしやはり、主題の変わらなさに不満がある。いつも同じ理路をたどって、その路以外にあまりにも大きな隙間をつくっている。それ以外を言うことができなくて、竹籠の釣瓶のように、世界を丸ごと取りこぼしてしまう。大事なことをなにも表現できていない気がする。

 私はこれまで多少言葉によるいわゆる創作を嗜んできたけれど(表現も創作も同じことだ)、実のところ私の方法論は、創造どころかもっぱら〈欠落〉にあった、つまり現実に比した言葉の解像度の粗さによって異景を示すところにあったと思う。言葉の機能不全を提示するこの方法はなにか気が利いて見え、実力の地道な底上げを欠いたまま手軽に面白みを醸すことができるけれど、このドーピングに頼る限り、表現力の精妙は養われず痩せ衰えていく。単純にいって、長い文章が書けない。細部が模糊とした世界は、組み上げられず持続に耐えないからだ。

 つまり必要に応じ新たな理路を拓きうる精妙な表現力が求められている。そしてそれを受け手に伝わる言葉の明晰さといいかえるなら、錯雑な引用注釈を排すべしという論点にも通じていくだろう。

 

 さあそれでどうしようか。千曲川写生スケッチでも始めるべきか。むしろ虚構のなかで、語り手と自己の区別を学び、表現世界の奥行きをふくらませるべきか。おそらくはインプットの不足も思考の貧しさを招いている。会話ももう長いことしていない。

 この程度の文章を書くにも時間がかかっている段階で何かが間違っているのだろう。速度は質だ、量が質であるのと同様に。何より、私たちは限られた時間を生きている。

*1:このことは、私が抑圧・排他に加担しないことを意味しない。集団の同調圧力はむしろ、自身が抑圧・排他の責任を負う主体であることを引き受けないままなしくずしに加担する者によってこそ、その機能を完遂するように思う。「アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました」斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』港の人、2016年、74頁。またマイノリティであれば、むしろ共闘者かつ精神的寄港地としてのコミュニティを形成しそこに自己を投企することの必要性を知っているのではないか。たとえば個の尊重を掲げる新自由﹅﹅主義的風潮が人間交際ソサエティの市場への一元化と自己陶冶・自己責任論浸透による搾取に結果していることを思うとき、〈分かる人にだけ分かる〉言葉とは端的に浸食を拒む命綱でありうる。この点から、のちほど本文で登場する〈なぜ英語を使わないのか〉なる発言は非常に不用意である。

*2:自分の文章を再読再考に値すると考えているのが傲慢だ、と思われるだろうか。しかし、あらゆる言葉は口ずさまれ思い返されるものとして存在している、という感覚もまた、前回の記事で述べたつもりのことである。

*3:流通語は、つまり言葉はということだけれど、貨幣と同じようにすばらしくてくだらない。

「文学」とは、遠くにある異なったものを結びつける、あるやり方のことです。なぜなら、「文学」は、言葉だけで出来ていて、しかも、言葉とは、要するに、遠くにある異なったものを結びつけるために出来たからです。

[中略]

 それから、もちろん、貨幣もそうです。いや、貨幣は言葉そのものなのです。[中略]

 そう、だから、『資本論』に「文学」の一切が書いてあるということもほんとうです。言葉というものが、どうやって産みだされ、異なった共同体をどう結びつけ、どう流通し、それが寄り集まって巨大な塊になり、その結果、一つ一つの言葉を抑圧するようになるのか、それらはすべて、あの本の中に書いてあるのです。

 だから、我々は、あの巨大な本を、『三千年の孤独』とか『一万年の孤独』と呼ぶべきなのです。

高橋源一郎『ニッポンの小説──百年の孤独ちくま文庫、2012年、44–45頁。

*4:「いいたいことはあるがことばを使うのに時間をついやすこと自体が耐えがたい。一瞬のうちに、すべてを表現する魔術はないものか──このいらだちは、ことばを表現の手段としか信じられなくなった人間のものです。このようないらだちと、ことばの酷使が安吾の晩年の作品にはみられるようです。」

倉橋由美子坂口安吾論」小池真理子=選『精選女性随筆集 第三巻 倉橋由美子文藝春秋、2012年、118頁。