『星の王子さま』

 今日記事を投稿しないと今月記事を投稿しなかったことになる。せっかくなので急いで書く。日付のような恣意的な数字に左右されるのはよくないことのような気がするけれど、一方で、そういう表層的なところで左右されてしまうのはある意味私好みなのではないかという気もする。星の王子さまに、星を数えて帳面に書きつける人が出てくる。彼がいうには、それによって星は自分の所有物になるのだという。王子は、奇妙な考えだけれど、でも星々が自分のものになるというのは楽しいかもしれない、と思う。そこで尋ねる。〈それで、自分のものにしてどうするの?〉〈どうもしないよ。ただときどき帳面を取り出して眺めるだけさ、あの星々は俺のもんだ、とね。〉王子はがっかりして、その男の住んでいる星を去る。

 明らかに作者はこの男を批判しているのだけれど、私はこの男を買っている。作者はこの男を通じて、非本質的なものにとらわれる大人を批判している。お金とか数字とかを本質と取り違えて、くだらない、と。(「買っている」だなんて、実に金銭にとらわれた発想だ!)でもそういう大人と違うのは、彼はこの星に一人で住んで、自分の頭でこの奇妙な理屈を考え出した、ということだ。大人がお金や数字にとらわれるのは、他の人につられているからだ。でも彼は違う。すでに流通しているお金が力をもっている光景は陳腐でくだらないかもしれないけれど、その起源においてお金というものが生まれるときの飛躍は陳腐どころではない、異様だ、魔法だ。彼はそれをやってのけた。他者の魔法に踊らされるのはくだらないが、何もないところから魔法を取り出すのは偉い。彼がやってのけたのは、フィクションによる現実の書き換えなのだ。ランプ点灯夫と違ってそのフィクションによって不幸になっているわけでもなく、きっちり幸せになっている。彼は『星の王子さま』のようなフィクションを携えて生きていく私たちそのものではないか。

 ところでこの男の発想は魯迅が精神的勝利法と呼んで批判したものに近いような気もする。しかし阿Q正伝はずいぶん前に読んだきりだし正確なところは分からない。

 

【3月11日追記:集英社文庫池澤夏樹訳で『星の王子さま』該当箇所を確認したところ、かなりの記憶違いがあった。まず、該当の男は「ビジネスマン」だと明記されている。しかしそれより重要なのは、王子が男のフィクションのもつポエジーとでもいうべきものを正しく認めていることである。「それは楽しいな、と王子さまは考えた。なかなか詩的だ。でも、重要なことではないだろう。」*1そして男に対する批判も、私が上であげつらったよりもはるかに洗練されたものだった。重要かどうかの基準は、「自分以外のものの世話をしている」*2かどうかだというのだ。

 とりわけ寓話においては口伝のうちの変容純化とも見なしえて、全面的に否定すべきものとばかりはいえない。とはいえ、まさに当ブログ最初の記事ですでに記憶力がよくないと述べていたとおり、記憶の粗雑な私の場合、一見煩わしいようでも出典を都度確かめることは必要なのだと、あらためて知らされる機会であった。】

*1:アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ池澤夏樹=訳『星の王子さま集英社文庫、2005年、69頁。

*2:同75頁。