しがらみと無責任について

 以下の文章を読むと一定数の人は気分が悪くなる恐れのあることをあらかじめ注記しておく。

 

 いつだって自分は死ぬことができる、無責任にすべてを放り出して死ぬことができるという意識が、少なくともある種の人間にとって安心して生きるために必要なのではないかと思う。そういう人間が実際好きに死ねるかとは別に*1、結果的にはむしろ無事に生をやっていくためにこそ、この﹅﹅生と﹅﹅いうやつは﹅﹅﹅﹅﹅オプションに﹅﹅﹅﹅﹅﹅過ぎない﹅﹅﹅﹅という逃げ道がたえず用意されている必要があるのだ。子供がはじめて、補助輪を外した自転車に乗る練習をする。幸い子供のかたわらには親か年長の友人か、とにかく謂う所の保護者がいて、きっと自転車を買い与え、あまつさえ転倒防止の補助輪までつけてやったのも、それでいて子供が真に自転車の利便を活かせるよう成長を見計らって補助輪を外すことを提案したのも、その保護者なのだろう。補助輪を外した自転車は子供を乗せてふらつくけれど、保護者がうしろから支えているので転倒の心配はない。保護者の支えを意識しながら子供は不器用にペダルを踏み出す。進路から目を離せない乗り手は支えを視認できないから、不安になるたび、そこにいる? ちゃんといてね? と呼びかける。はいはい、と応じる保護者の声に、だめになったら﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅全部こいつに﹅﹅﹅﹅﹅﹅投げりゃあ﹅﹅﹅﹅﹅いいんだ﹅﹅﹅﹅と思って子供は自転車を漕ぎつづける。実は最前から保護者は伴走をやめてただ返答により錯覚を促しているに過ぎないのだが、子供は錯覚がもたらした安心のおかげで、ついに現実の支えを要さず、はたから見れば独力で自転車を漕ぎきる。漕ぐのなんて﹅﹅﹅﹅﹅﹅いつでも﹅﹅﹅﹅やめちまえば﹅﹅﹅﹅﹅﹅いいんだ﹅﹅﹅﹅という無責任が、子供が漕ぎつづけるためには必要なのだ。でないと疲れてしまうから。背水の陣や火事場の馬鹿力で乗り切るには、生は長いから*2

 自由という概念をめぐってきっと人類が積み重ねてきたのだろう高邁かつ深遠な思索の数々をとおく隔たって、私にとって自由とその歓びの実感は結局、義務を果たさなくていい、責任をとらなくていいという解放感であるようだ。いつでも逃げられることが自由だ。そんな自由の状態にあることで、精神の安定を保っている。逃げられなさそうだと辛いだろう。

 けれども生きているとしばしば自由は妨げられて、死ぬことができないような気分になる。そういう妨げを、古人は自由な流水をせき止めるしがらみにたとえたようだ*3。人と交わるとしがらみが生じる、ここで念頭においているのは個人間の私的交情ばかりでなくて、どうやらたとえば職場などの方が自明のように〈もちろん君は明日も、明後日も、二週間後も、その先も生きつづけている〉という要求をかかげてくる。要求は信頼と言い換えても同じことだと感じるあたりに私の卑しさがあるのだろうが、ともかく実際には被雇用者は交換可能で死んでも企業にとって支障ない事実とは別に、彼らの明るい要求が常時視界にちらつく様はよほどじわじわと呼吸を困難にする。そうして自由とそれが生む安心を奪われた人は自由の回復へと駆りたてられて、自由を、死は自分の意のままだということを、強い形で確認、というより行為遂行的パフォーマティヴに肯定*4することで平衡を取り戻さないといけなくなる。そんなときに、自由を否定するしがらみの厭わしい強さに釣り合いの取れそうなものが、たとえば実際に自由に死ぬという事実の強さのほかに見当たらないのかもしれない。そういう筋道で人の死ぬことがあるかもしれない。

 

 しかしどうもたとえば、大人として家族をつくり、まして子をもとうとする気持ちが分からない。私は大体のことが分からないのだが。

*1:「死にたければいつでも死ねるからね。

 ではためしにやって見給え。」

芥川龍之介侏儒の言葉(遺稿)」『侏儒の言葉西方の人新潮文庫、1968年発行・1995年改版、109頁。

*2:「生は長いから」、馬鹿げた言葉だ! 数十年なんてすぐに終わってしまうよ、という意味で馬鹿げているというのではない。生の努力を厭うていても生き延びられる、殺されないと思っていそうな、親に甘やかされた子供特有の楽観が烏滸がましい。

*3:ところで私が比喩でなく原義を意識してしがらみという語を見たはじめはどこであったか。百人一首だった気がして探すと出てくるのは〈山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり〉という歌なのだが、この歌ではしがらみが随分好意的に扱われているのが私がいまこの語に抱いている印象と異なって、起源にしては不可解なのだった。ちなみに歌の作者は春道列樹という名前だそうで、季節は違うが歌と取り合わせのいい名前だと思う。

*4:ここで私が念頭においているのはオースティン『言語と行為』により開拓された言語行為論である。『言語と行為』によれば、言葉には通常意識されている、外界の事態を記述するという事実確認的コンスタティヴな側面のほかに、発言そのものが事態を構成する行為遂行的な側面がある。大まかにいうと、たとえば〈(いま)雨が降っている〉という発言は雨が降っているという事態を記述しているだけであり、この事態そのものは発言とは独立した外界の出来事なので、記述と外界の事実を照らし合わせることで発言の真偽を判定することができる。対して〈この犬をシロと名づける〉という発言は、〈この犬をシロと名づける〉という行為をまさにこの発言によって遂行し事実となすものであり、発言を〈真偽〉という観点から評価することは原理的にできない。本文の内容に戻るとここで私がいおうとしているのは、〈Xは問題の人Aの意のままである〉という事実があらかじめあって確認されるのではなく、Aの行為次第でXがAの意のままになるかが決まる、ということである。