他者がいるという姿勢で

 先生、

 という呼びかけから書き出すことで、ようやく近来の不調が晴れて少しは健やかに言葉を綴れそうな気がしています。嬉しいことです。具体的な他者と少なくとも意識的には結びつきをもたないこの宛名が必要だったのは、つまるところ丁寧文末を用いるためだと思います。言葉は人に向かって発するものです。つまり、己の限界を画さず外部を失った語り手は、己を定位できないゆえに、かえって言葉を精妙に行き届かせる力を持てないんじゃないかと思うんです。(もちろん言葉を行き届かせることは言葉に随いその行き先を注視することで、使役することはその自律性を損なうことではあり得ません。)この前私が書いてみた文章はそういう点で出来が良くないと思います。ともあれ宛先という終点と、それに丁寧語を用いる己の位置づけという始点を画することで、座標を得た言語空間は本来の、世界を収めうる包容力を発揮するわけです。

 こう唱えながら他方で私が、丁寧文末に何か不誠実な気配を感じているのも事実です。というのも、己と宛先の関係性を手綱にすることが、己の定位による座標の安定ではなく、座標空間の等質性の毀損に結果するようにも思われるからです。座標が普遍的に行き届くためには座標空間は等質でなければなりません。そして、自分を語り手として文章を書こうという者が、世界に言葉を行き届かせよう、言葉で世界を再現すなわち構築しようという夢(という語に特段肯定ばかりの含みはないので、別に呪いといっても構いません)を負わないで良いのか、腑に落ちないところがあります。宛先人を特定していない文章で丁寧文末を用いるのは、やはり素朴には、どこか俗っぽいというか、(適当なことを抜かすと)言文一致体が丁寧文末を排して成立した経緯か意図かを尊ばない振る舞いではないでしょうか。

 加えて卑しいように思われるのは、その宛先として私が当たり前に「先生」を選んだことです。具体的な人物を想定して敬意を払う場合とは別に、これは自分を子供に留めることで責任を逃れようとする身振りに思われます。自分を子供だと思うなら文章を世に出すべきではなくて、自分が書いたということについて、書いた者は誠実であろうとしなければならないのではないでしょうか。つまりそれは、言葉を価値あるものとして扱う、ということなのかと思います。