以下の文章は読む人によっては不快かもしれない。いや、それをいうならこのブログの他の記事だって大概不快なのではないか。この記事に警告をおくことの正当な根拠はなく、けれども私は警告をおく。
以前の記事で「私は[中略]まだ人が亡くなったことで激しい苦しみを感じたことがない。」と書いた。別に私は冷静なわけではなく自分が困ればすぐ癇癪を起こすし泣くのだが。
私の母親は、というかおそらく父親もだが(私にはこの二人の親がいて、どちらも生きている)、私がいま事故や自殺で不慮の死を遂げたら激しい精神的ダメージを受けるに違いないと思う。突然涙がとまらなくなったり、しゃくりあげたり、体が震え言葉がもつれたりするのではないかと思う。彼ら自身が強く死に惹かれることもあるかもしれない(私以外にも彼らに子どもはいるのだけど)。
そのことをとてもいやだなあと思う。言い方が難しいのだけど、まあつまるところ、他人が自分とは異なる感情様態をもっていることは人を不安にさせる。それとも単に、二者間で相互にむける感情の釣り合いがとれていないことが不安にさせるのだろうか。だとしたら単に人間関係の経験の不足なのかもしれない。
ともかく、適当に悼んでくれればいいのだけど、と思っている。親をいやだと言っているわけではなくて、想像されるその想像がとてもいやだなあと思う。
私が親にとてつもなく恵まれていて、その立場からその幸運をないがしろにし、あまつさえ(だから〈ないがしろにしている〉というのだけど)人前で不満を漏出していることそのものが、人の(嫉妬ではなく)限りない軽蔑に値するということは、何らかの意味でわかっているつもりだ、わかっているとは言わないのかもしれないけれど。
牧野修「病室にて」『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』ハヤカワ文庫JA、2007年。
感情の起伏ほど面倒なものはない。
誰もが望むのは心の平安だ。
それほど楽しくなくとも良いから、哀しかったり辛かったりすることのない人生が望ましいのである。*1
現実でさえそうなのだ。
なのに誰が現実でもない作り話で感情を動かされたいと思うだろうか。*2
私は小説家だった。
[中略]
私はあっさりと職を失った。*3
初夏だ。
陽射しはすでに夏だった。
葉を透かし届く光が、白い部屋のなにもかもを緑に染める。
私はベッドに横になって、清潔な天井を見ていた。
朝、軽く食事をすませて薬を飲んだ。
そのためか、磨いた鏡のように心は曇りなく、静かだ。
[中略]
枕元から小さなノートパソコンを出して、テーブルに置く。
キーに指を載せる。
何故か突然、子供の頃に、女の癖にとよく言われたことを思い出した。例えば男の子を言い合いで泣かしたとき。少年マンガを読んでいるとき。スカートは嫌いだと公言したとき。父が、同級生が、教師が、私に向かってそう言った。
そしてこれもまた唐突に、死ぬのなら上の空で死にたいと思う。
様々な薬で押さえ込んでいるあれこれが浮かび出しそうになって、私はキーを押す。文字を綴る。物語を描く。*4
【12月9日追記:「軽蔑」と書いたところは、〈憎悪〉のほうがより適切な語選択だったかもしれない。】