打ち出の小槌:森林太郎=訳『諸国物語』

『二重人格』の書評記事を載せたあと、ドストエフスキーではこれも書いてたな、と思い出して転載。転載にあたり一部表記等を修正した。なんだか楽しそうな文章で、公表を(すなわち読者を)意識した社会性が感じられる。途中「これあるがため本特集で取りあげている」云々とあるのは、元書評が「復讐」をテーマに掲げた特集企画への寄稿だったことを指している。

 ドストエフスキーの作品について私はこれまで、自分の印象を支えてくれる評言に二度出会うことができた。幸福なことだと思っている。ひとつは当記事で紹介する「鰐」についてボルヘスが「カフカを予兆するよう」と触れていることで*1、おかげでたとえ伊藤計劃に「不条理なもんは全部カフカだ」*2と呆れられようと、私は大いに意を強くしたものだった。もうひとつはドストエフスキーに小説家としてCマイナーの評価を下す*3辛辣なナボコフが、『分身』(『二重人格』)を彼の最良の作品と賞賛していることである*4

 書評対象は国民文庫刊行会から1915年に刊行されたもので、図書館で借りた。容易に読める版については本文中記載のとおりで、「青空文庫」の作家別作品リスト「森林太郎」に収められていると思う。ほかに現在新刊での入手は困難だろうがちくま文庫などに収められており、図書館にしても普通所蔵されているのはちくま文庫版の方な気もする。もちろん鴎外の全集のいくつかにも収められていよう──太宰治も「女の決闘」で、『諸国物語』収録作ではないが、鴎外全集の翻訳篇を読んでいた。ただ『諸国物語』の場合、個別の短篇ではなく、それがかく一冊の書物としてまとめられてあることの、打ち出の小槌のごとき豊穣さ、にこそ価値があるのかもしれない。】

 

 森鴎外による〈現代〉欧州(+米国のエドガー・アラン・ポー)短篇小説34篇の翻訳集。図書館にあったのは1915年刊のもので、現在読むなら容易な手段は電子書籍購入、もしくはインターネット上の「青空文庫」で無料公開されている個々の短篇を漁ることか。

 そんな古いものをわざわざ漁る価値があるか。あると思う。

 たとえば、これあるがため本特集で取りあげているアンリ・ド・レニエエ「復讐」。この作品、復讐者がいかに復讐を成し遂げたかよく分からない。では追われる側の恐怖を活写したのかというとそんなこともない。復讐という題でこんな風に書けるのかと目を開かされる、典雅で夢幻的な作品である。かと思えばドストエウスキイ「わに」は爆笑不条理小説。ドストエフスキーに/鴎外に堅苦しいイメージを持っている人は必読だ。この作品にはより新しい翻訳もいくつかあるが、鴎外訳の場合作中の新聞記事の真面目くさった文語調のためにますます笑える。

 こんな具合に純粋に小説として今なお新鮮で面白いが、これらが書かれた当時とその後の歴史に思いをはせるのもまた一興。先述した「鱷」は後年のカフカに通ずる(そういえば鴎外とカフカは同時代人といえる)し、カルル・フオルミヨルレル「正體」の金属物体は第一次大戦前後の前衛芸術を思わせる。フランツ・モルナル「破落戸ごろつきの昇天」には中国の怪異譚を連想させる組織だった地獄が登場するので、冥界観の相違を考えても興味深いかもしれない。また、佛蘭西・墺太利・露西亞など各国文学を渉猟する構成は地理的な気づきも生む(その気になればオリエンタリズムも指摘できようか)。たとえばイタリア文学は収められていないにもかかわらずイタリアを舞台にした作品が複数あり、南国イタリアはパリと並んで欧州芸術家の憧れなのかと納得させられた。

 まあこんな御託はいい。人それぞれに読んで遊べばよいので、それだけのポテンシャルが本書にはある。ちなみに私が一番好きなのは、「鱷」も捨てがたいけど、やっぱりアルベエル・サマン「クサンチス」かな。

*1:ロシア文学短篇選集に寄せた序文から引用(訳は土岐恒二による)。ホルヘ・ルイス・ボルヘス=編『新編バベルの図書館5 ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア編』国書刊行会、2013年、92頁。ちなみにボルヘスメルヴィルの「代書人バートルビー」に寄せた序文でもカフカの名前を出しており、なるほどドストエフスキーメルヴィル、それからポートルストイは、同じ時代を生きていたのだった。年長のポーは黒船出航の前に死んだが、長生きしたトルストイ日露戦争に立ち会うことになる。「代書人バートルビー」序文のカフカへの言及は、土岐恒二訳、『新編バベルの図書館1 アメリカ編』国書刊行会、2012年、498頁。

*2:伊藤計劃虐殺器官ハヤカワ文庫JA、2010年、115頁および127頁。

*3:沼野充義「解説」ウラジーミル・ナボコフ、野島秀勝=訳『ナボコフの文学講義 下』河出文庫、2013年、428頁。

*4:ウラジーミル・ナボコフ小笠原豊樹=訳『ナボコフロシア文学講義 上』河出文庫、2013年、238頁。引用元の講義録には「私たちは「感傷性」と「感受性」とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。」(同235頁)といった美しい見解がちりばめられている。ナボコフにおける形式遊戯への耽溺が、現実世界と人間への独自の倫理とけっして排斥しあうものではなく、むしろ両者が分かちがたく結びついている(べきと見なされている)ことは一言しておきたい。とりわけ、〈『罪と罰』最大の欠陥〉を指摘する際にナボコフが見せる高潔さは滑稽にも感動的である。同250–253頁。

 この作品の欠陥──私の考えでは、倫理的にも美学的にも建物全体の倒壊の原因となりかねない裂け目は、第四部第四章に発見される。[中略]ソーニャは彼に、イエスのこと、ラザロの復活のことを読んで聞かせる。そこまではよろしい。だがそのあとに、全世界に知られた文学作品では他に例を見ないほど愚劣きわまる一つのセンテンスが現れる。「消えかけた蝋燭の炎はゆらめき、この貧しい部屋で永遠の書を読んでいる殺人者と淫売婦をぼんやり照らし出していた」。「殺人者と淫売婦」それに「永遠の書」──なんという三題噺だ。[中略]

 私は主張したいのだが、真の芸術家あるいは真のモラリストは──良いキリスト教徒あるいは良い哲学者は──詩人あるいは社会学者は、いかに雄弁の弾みであろうと、殺人者と(人もあろうに!)貧しい街娼とを一緒くたに並べてはならないのだ。[中略]キリスト教の神を信じる人たちが理解しているところによれば、キリスト教の神はすでに千九百年前から売春婦を赦している。一方、殺人者は何よりもまず医者の診察を受けなければならない。[中略]淫売婦の罪は言うまでもないこととされている。だが本当の芸術家とは、何事についても「言うまでもないこと」とは決して考えない人のことなのだ、と申し上げておこう。