非現実より反現実を:中井英夫『幻想博物館』

【文章を生めず、また強いて生もうとしても取材の発想が言語に閉じ籠るので自分で辟易していたのだが、そういえば私には旧稿の転載という手段があったのを思い出して、久しぶりに転載する。書評対象は中井英夫『新装版 とらんぷ譚Ⅰ 幻想博物館』講談社文庫、2009年。「スタイリスト」という語は、中井がそう評されているのを見て私の語彙に加えてみた記憶があるが、いま本作や『虚無への供物』の文庫解説をめくっても直接には登場しておらず、出所が分からない。それと、とらんぷ譚の続篇については読まないままでいる。

 ところで後年、認識していなかった作者の伝記的事実を知り感じ入ったので記しておく。「一九四五年 昭和二十年 23歳 ……八月、腸チフスを発病、世田谷の陸軍病院へ入院。危篤状態となり敗戦を知らぬまま九月まで昏睡。十月退院。……」本多正一=編「中井英夫年譜」中井英夫『新装版 虚無への供物(下)』講談社文庫、2004年、451頁。三点リーダ部分は、引用者による省略を表す。】

 

 現世は夢、夜の夢こそまこと、とは江戸川乱歩の言葉だそうだが、さて当人がどんな作品を書いたかといえば非現実の幻想小説は個人的には覚えがない。彼は、分身の術より鏡を、夢よりパノラマ島を尊ぶ作家だったように見受けられる。乱歩は異世界のファンタジーより、もっぱら現実の夢性のほうに執着した。その作品は、幻想といってもファンタジーではなく妄想、異常心理と呼びたくなる香を放つ。
 乱歩からはるか洗練された中井英夫にも、あるいは同じことがいえるのかもしれない。「幻想博物館」と銘打たれた本短編集だが、幻想を非現実のファンタジーと同義と思って読むと戸惑うことになる。
 物語最初の舞台は、本書執筆と同じ一九七〇年頃、設備の行き届いた日本の精神病院。薔薇園を備えたこの病院に患者たちがいかにたどりついたかを院長が語る、という外枠を設え十三の幻想譚を収める(ただしこの設定は緩やかなもので、個々の短編は独立性が高い)。
 反現実を掲げる中井英夫だが、風俗への言及など同時代の日本を意識する。おそらくそこには「非現実」と「反現実」の微妙な差異がある。現実から単に逃避して虚に溺れるのではなく、現実さえも取り込みながら世界を丸ごと反転させること。虚実のあわいを辿ったすえに実をもまきこんで虚に転ずること。そこに作者の思惑があるのではないか。複数の収録作に顕著な推理小説志向も、非現実・非論理のまどろみに堕することをよしとしないスタイリストの性質ゆえだろう。そしてかかる中井の形式への執着が、本書に収めた十三編をトランプのスペエドになぞらえさせ、五十四話の連作〈とらんぷ譚〉に発展させていくことにつながる。
 このようなスタイリストぶりゆえに、収録作はまず、トリッキイで洒落たエンターテインメントとしての要請を満たしている。そのうえで「影の舞踏会」「地下街」などは非現実としても稀な完成度を誇る傑作だ。しかし、作者が本書に仕掛けた最大の幻想はおそらく最終話である。そこまで読んだとき、作者の反現実が現実の凝視と不可分に結びついていたことを深く納得した。