世界に相手をしてもらえない:ドストエフスキー『二重人格』

引きつづき過去の書評の転載。一部表記等を修正している。

 対象はドストエフスキー、小沼文彦=訳『二重人格』岩波文庫、1954年第1刷・1981年改版。特集企画のテーマ「セカイ系」をかなり曲解して強引に寄稿した(この曲解については真に受けないでほしい)。なお訳者あとがき325頁によれば原題はドイツ語でいう〈ドッペルゲンガー〉だそうで、同じ箇所にこの訳題とした理由も簡潔に述べられているものの、『二重人格』はちょっとどうかと思う。】

 

 本特集のテーマは「セカイ系」だそうだ。この語が指すものははっきりしないが、とりあえずここでは、主人公の極私的な葛藤や欲求の表現という目的に〈世界全体〉の運命を妄想的に奉仕させる作品、と解しておく。そこで描かれるのは〈私たちの相手をしてくれる世界〉だが、たちあげられた妄想世界は明らかに歪だから、その向こうにはいつも、それを描かざるをえない〈世界に相手をしてもらえない私たち〉が透けて見えることになる。というより、そもそも表現したい極私的葛藤なるものの中核は、透けて見えるものの方だったりする。

 さて、そこでドストエフスキー『二重人格』である。デビュー2作目の本書で作者がひたすら追求するのは、まさに〈世界に相手をしてもらえない〉という一人の男の強迫観念だ。ここには多様な人物も、それゆえに可能となる思想のぶつかり合いもない。主人公は人を殺す勇気もなく、そもそも生活に目に見える不安があるわけでもなく、ただ漠然と〈自分はもう少し立派な扱いを受けてもいいのではないか〉〈自分はもう少し立派に振る舞えるのではないか〉と思っているだけだ。

 彼から見た周囲の人は、個別の性格をもたず、単に自分を評価する、自分でない外界の表れに過ぎない。その評価に不満を募らせるうち、彼の妄想する〈本当の、立派な自分〉が、実体をとって現れる──ただし彼自身とは別個に。そしてこの、世界に相手をしてもらえるドッペルゲンガーに、彼は居場所を奪われていく。

 心中では肥大した自意識を振り回すだけの、そして現実にはそれすらできず支離滅裂な言で共感を期待するだけの彼は、居場所を取り戻そうとしてどんどん立場を悪化させる。そんな彼のもとに一発逆転の希望が届く。少女の愛と導き。読者にはそれが妄想であることが分かる。だってその娘は君のことなんて見てなかったじゃないか。だけれど彼は気づかない、そして破局へ突き進んでいく……。

 雪まじりの雨降る夜のペテルブルク、なにから逃げたいのか分からないまま一人走り続ける彼。世界に相手をしてもらえない私たちをこれ以上なくえぐりだした作品だ。