「しるし」あとブニュエル

 楽曲を聴きながら清酒を飲んでいる。

 しばしばRYUTist「しるし」(作詞・作曲・編曲=パソコン音楽クラブ)を聴いている。こういう言い方はそれまでの時間を待機にしてしまうようで紹介とするには不適切なのだけど、特に全体4分のうち2分7秒頃から始まるなんというか、「いーま~(タタタン(こむだん) ()タタタン(んこむだ)() はーあ()タタン(こむだん) タタタン(こんとん)    (とんとん)ひ・か・り)~ ああああーあーああああ()ラララタララタララタララタラターラー  (フヨッ)こ・(シャン)れ・か・(シャン)ら・だ  (ピヤアアアア)アアアア こ・(シャン)れ・か・(シャン)ら・ずっ・(ピヤア)と・(ピヤア)ひ・(ヤアア)か・(ヤアア)(シャン)()ル・ルールートゥ~ (タンタンタンタンタンタンタンタンタンタンタン  (トゥー) …あーさー」ともいうべき一連(シークエンス)に昇天するような幸福感を覚える。人体の空洞からきれいな音が出ているのはいいものだが、それが機器の澄んだ音と完全に響き合っているのに感動するのだろうか。関係ないかもしれない。とにかく思い出すのは、ルイス・ブニュエルの監督した映画『昼顔』のラスト、これはネタバレだが、女主人公に突如祝福が与えられるときの音響である。台詞も理路も超え音により、破局を覚悟していた私たちに突然の恩寵がもたらされるのだが、私を打ちのめしたことに、そこには純粋な音として猫の声が入れられているのだった*1。純粋なと言ったのはつまり、場面に猫がいるわけでも、先立って物語に猫が登場していたわけでもない。ただ祝福の音として鈴の音とともに猫の声が降り注ぐ。救いの時にあっては、(なにしろ救いの時なのだから)猫がいなくても猫の声が鳴り、猫の付属の地位から解放されて自由を謳ってみせるのだ*2。いつか私にも、もう耐えられないという極点で突如猫なしの猫の声が降り注ぎ、世界なしの私になった私を乗せた馬車が鈴の音にまみれながら飛び去るだろう。……実にその姿は、『二重人格』と見分けがつかない。

 

【3月18日追記:この記事の題名はちょっと酷いが、代案を思いつかないのでそのままにする。】

【4月2月追記:記事の題名を「音」から変更した。】

*1:ただしトマス・ベレス・トレント/ホセ・デ・ラ・コリーナ=著、岩崎清=訳『INTERVIEW ルイス・ブニュエル 公開禁止令』(フィルムアート社、1990年)掲載の梗概(シノプシス)では「赤ん坊の泣き声」とされている(291頁)。そうなのかもしれない。しかし私の生がブニュエルに祝福されたもうひとつの場面、これも本当は事前に言わない方がいいだろうが『欲望のあいまいな対象』の豚のことを思えば、どちらでも同じだと言いたい気もする。なお訳者あとがきによれば、同書掲載の梗概は和訳にあたり木幡久美と西村安弘が書き下ろしたもの(357頁)。

*2:

 授業でも、普通の高校だと「倫理」という科目があると思うんですけど、それにあたる科目が「仏教」で、親鸞の勉強を三年間しましたね。

 その授業の時、仏教の教典のひとつに『無量寿経(むりょうじゅきょう)』というものがあることを知りました。その一節に、「西方極楽浄土は宝石でできている」と書いてあるんですよ。極楽浄土の地は宝石でできているらしいんです。

[中略]

 そのお経を高校在学中ずっと読まさているうちに、「極楽」と言われる“すべてのもの”が助かるような所でも、宝石は装飾にしかならないんだなとぼんやり思いました。

市川春子『宝石の国』についてのインタビューのアーカイブより。角括弧[]部分は引用者による注記。「読まさて」は原文どおりで〈読まされて〉の脱字と思われる。