脱臼したような:川端康成『雪国』

 押すに押されぬ著名作なので安心してふっかけることができるのだが、この作品のよく知られた冒頭は、どうもおかしくはないだろうか。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」

 改案。「長いトンネルを抜けると夜の底が白くなった。雪国であった。」

 二文目「夜の底が白くなった。」は、気取っていると嫌う人もいるかも分からないが、やはりいわゆる名文句であろう。既存の意味の枠組みから出て、感覚に忠実に世界を把握するような表現だ。しかし問題は、これが二文目に来ている、すなわちこの表現より先に「雪国」の語が出てしまっていることである。せっかくの感覚表現のまえに概念による把握が来て、それを無効にしている。もっとも、「雪国」は「雪原」ではないから、単なる二文目の概念化とは異なる、という反論はありうるだろう。「雪国であった」とは視覚より、肌に感じられる空気の変化のようなものをいっているのだ、とか。しかしこれを感覚の表現として受け入れるにしても、「国境の」が明らかに余計だろう。これは味もそっけもない概念把握であって、一文目の残りの部分になんら付けくわえるものがなく、かえってその新鮮な感覚把握を先回りして殺しているだけだ。

 感覚を介して読者に書かれたことをそのまま経験させること、美しい景色を美しい日本語で伝えることに関心があるなら、これは失敗である。が、おそらくむしろ、冒頭のこの実感を脱臼させるような叙述こそ、正しく本書の関心を反映している。視点人物島村は、目の前にあるものに本気になることができない。雪国にいる二人の女性、島村に惚れている芸者駒子と「いつもああ真剣な」葉子をとりまく生活の示唆だけが浮かんでは消え、島村は状況の核心に迫ろうとすることができない。鏡像ばかり凝視するけれど、現実のうえはすべっていく。

 そして結末まで来ると、この小説はいつのまにか、駒子が葉子を抱きかかえる小説になっている。そのとき葉子は気を失っていたし、駒子は島村を忘れている。島村は二人に近づこうとして人波によろめき、空を見上げる。

 

前回の記事を書いてから鏡について考えているときに、昔舌足らずながらこんな書評を書いたことを思い出して、転載してみた。川端康成『雪国』新潮文庫、1947年発行・2006年改版、10頁及び51頁。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

今朝山の雪を写した鏡のなかに駒子を見た時も、無論島村は夕暮の汽車の窓ガラスに写っていた娘を思い出したのだったのに、なぜそれを駒子に話さなかったのだろうか。

特にひとつめの引用部を含む、文庫本で四頁に渡る妙に観念的な鏡像随想はその長さにおいてあきらかに平衡を失していて、そんなところをはじめ、不思議な小説なのだった。大体私は行間を読むのが苦手で、『雪国』の登場人物のあいだで何が起こり何が言われているのか、よく理解できない。けれども省略の多い小説だとは必ずしも言い切れなくて、既述のとおり鏡随想はむしろ変に長いし、事物の描出の解像度はたいてい私などよりよほど精細でその膂力にため息が出る。次に引くのは、その好個の例というほどでもない箇所だが、印象が残っていたので挙げる。静かな虫の描写はいつだって記憶に値する。『雪国』85-86頁。

来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六七匹も吸いついていた。次の間の三畳の井桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。

 窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まっていた。檜皮色の小さい羽毛のような触覚を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほどある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑は反って死のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひらひらと揺れた。

 生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上がった。

 よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。

 川端康成の小説はもうひとつ、『古都』を読んだことがあって、私には『雪国』より近しい小説だが、こちらも冒頭の文章はちょっと異様な飛び方をする。川端『古都』新潮文庫、1968年発行・2010年改版、5頁。

 もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子は見つけた。

「ああ、今年も咲いた。」と、千重子は春のやさしさに出会った。

 そのもみじは、町なかの狭い庭にしては、ほんとうに大木であって、幹は千重子の腰まわりよりも太い。もっとも、古びてあらい膚が、青く苔むしている幹を、千重子の初々しいからだとくらべられるものではないが……。

「春のやさしさに出会った。」じゃないよ。『雪国』の鏡随想とちがって短いのが、作者がうっかり書いてしまったように思わせて、次々文の一人称性とあわせ、一層怖い。

 なお『古都』を読んだのは、台湾の作家・朱天心の小説『古都』の重要なモチーフのひとつがこの小説だからだ。朱天心が川端『古都』から抽出したのは双子とアイデンティティの問題であって、自覚したのは比較的最近のことだが、吉野朔実の傑作『エキセントリクス』を顕著な例として、私にとって大事な作品は大抵この視座から私に語られる。そして朱天心『古都』はなかでも有数に、私にとって大事な作品である。】