夏瘦せに拍車かけつつ(川野芽生)

夏瘦せに拍車かけつつ軀とはたましひの石切場 足らふな

 歌集『Lilith』、連作「灼くべき羅馬」中の一首だ*1。歌全体への評というには余談めくけれど、この歌における「拍車」という語への命のあたえかたが好きなので、記しておく。

 

〈拍車をかける〉とは慣用句である。けれども、馬が多出するこの歌集のなかで読むと、慣用句の意味と並行して、普段は意識されない、〈拍車をかける〉という字義通りの動作が想像される。

名を呼ばれ城門へ向きなほるとき馬なる下半身があらがふ*2

みづからのこゑを追ひつつ駆けゆかな星辰もしるべせぬ境域へ*3

慣用句として擦り切れたことで意識されなくなっていた、比喩本来の二重性が息を吹き返すのだ。

うつつとは病めるまぼろし手をのべて瑪瑙をむまなづきへかへす*4

 さらに、〈拍車をかける〉動作が字義どおり具体的なものとして想像されることは、連動して動作主体の想像を要請する。

 慣用句としての〈拍車をかける〉は、もっぱら無生物を主語にとり、さらに〈〜に拍車がかかる〉という主語を省略した受動態で用いられることも多い。つまり、状況の推移に意志が不在であるという印象を与える言葉だ。しかしこの歌では、動作主体として〈私〉が想定されている*5。ゆえに〈拍車をかける〉動作は具体的なものとして想像され、また原義で想像されることが主体性を強調する効果をもつ。

「夏瘦せ」は本来受動的な現象である。しかしこの歌では、語り手自らが〈拍車をかけて〉いるのだという。通常受動的な、しかも自分にとってあまり好ましくないものとされるだろう現象を、自らの意志によって選ぶこと、あるいは自らの意志によって引き受け直すこと。その裏には、意志なき人間集団が広げる無責任な蛮習への憤怒がある。そしておそらく、ただ抗うにさえ意志を研ぎ澄まさねば、ただちに蛮習に轢かれ裂かれる立場にあるのだという苦境も。

をのこみなかつて狩人〉その噓に駆り立てらるる猟犬たちよ*6

さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し*7

「たましひ」を切り出すための素材として「軀」を削ぎ捨てる苛烈さ。その上なおも手を緩めず「足らふな」、〈満足するな〉と自らに命じ〈拍車をかける〉。無責任に甘んじることを自らに許さないそんな峻厳な態度は、慣用句を前にしてさえ、そこにあらわれる意志の不在を無批判に受けつぐことなく問い直す。そして結果として股の下で躍動する馬の息吹を感じたとき、確かにわれわれ読者もまた、その苛烈が苦痛以上の真実の喜びにつながっていることを知るのである。

*1:川野芽生『Lilith』書肆侃侃房、2020年、154頁。なお、以前の記事で引用した川野の歌も、本書14頁に収録されている。

*2:「転身譜」同83頁。

*3:同85頁。

*4:同85頁。

*5:一応、〈拍車をかける〉主語を「軀」とする文理解も成立しうる。しかし、「たましひ」を切り出される「石切場」、という受動的役割を与えられた「軀」を主語にあてるよりも、〈私〉を補うほうがやはり妥当だろう。また、「軀」を主体と認めるならそれは〈私〉と同じことであるともいえる。

*6:Lilith」同122頁。

*7:同123頁。なお「来し」の可能な読みはおそらく〈こし〉〈きし〉の二通りある(どちらでも意味の違いはない)。前者はやや過剰に古風に思えること、また「聞き﹅﹅」「季節﹅ 」「樹々﹅ 」とまさに歌を「塗り籠め」るようにキ音がまぶされていることを考慮して、私は暫定的に〈きし〉を採用している。