意志や倫理についての雑な話

 今日の記事は粗雑で意味の通らないものになるだろう。問題にしたいことにまったく私の言葉が追いついていないからだ。といって問題にしたいことがなにか高度な問題というわけではない。ただ私の言葉が追いつかない。

 

 私はひとつの物語を寓話として好んでいたのだが、おそらく一年と少し前から言及を控えるようになった(元来人との交流が薄いので、それ以前も特段流露はしていなかったと思うが)。その寓話が、社会的な文脈により意図しない増幅を加えられ、ある属性の人たちを傷つけそうだと認識したからだ*1

 私は場にふさわしくない発言というものに対する感度が低く、それは私の無垢よりはむしろ対立物である、私の感受能力の不澄明と狭さを示している*2。それで私はあまり考えずに発言してしまうのだが、にもかかわらず慎んでいるように思い做されることがあるらしいのは、あまり考えたり感じたりしない結果として発言の種自体が少なく、始終垂れ流していても始終垂れ流していないように見えるからだろう*3。だから珍しく考えることは忘れないようこうして書き留めている。

 そんな私が話題を封じようとするのはなにか変わった事態だ。認識の原因となるような個人的実体験があったわけではないし、そもそも大きな心変わりという気もしない。こうして間接に話題にしているあたり垂れ流すという私の傾向は明らかにそのままで、強い自制を課している感覚はない。だから私は従来の態度で接した結果として封じようと思ったわけになる。封じるというからには不自然な堰があって、不自然という認識がある以上負荷を感じていることに異存はないが、それ以上の日々の負荷を全く感じていないと思う。

 よく分からない(私がなにを分からないのか分からないという人の方が多いような気がする。言葉が有意義でない)。

 

 思ったのだが、私は昔の記事で意志ということがあまり分からないと書いた。その線の用語で言い直すと割にいいかもしれない。つまり、私は基本的に私が動くに任せており*4、自分の意志で言動を決定しているという感じはあまりない。身体(という比喩には語弊があるが)の必ずしも強烈でない好悪反応、それから気まぐれというかいわば中立進化的なもので動いている。それを別の言い方で言うとたとえばあまり考えないで発言してしまうというあらわれになり、あるいは自制している感覚がないことになる(そして、いわゆる運動神経が悪いのを自制が利いていると思われることがあるようだ)*5。ところで、ある話題を口にするのをやめることにした私の選択にはどうも意志みたいなものが介在している気がする*6。私が意志的な生き方に目覚めたにしては私のありかたが何も変わっていないのだが、私のありかたも私にとっての状況も変わっていないのに、私による転換がここには起きていて、そこには意志があると見なさざるを得ず、ちょっとなんというか、(これはあくまで暫定的な言葉だが)気持ち悪い*7

 意志があると居心地が悪いのは、罪……なんの定義もなしにこんな語を出すのは馬鹿げているが(だからこの記事は最初から意味の通らないものなのだが)、意志的に犯された罪というのをどう扱っていいのか私にはよく分からないということなのだと思う。

 罪については、まず、弱肉強食とか呼ばれる程度の低い話がある。それから、もしかしたらこれは分からない人も多いのかもしれないが(ひょっとすると私の空想の産物かもしれない)、規則的に犯される罪というのも私には分かる*8。これが何かというと、ポーが「天邪鬼」として定式化したやつである。

 ……いま読み返したら「天邪鬼」はそこまでそういう話ではなかった。しかし適当に引用してみる。

たとえばある時期に、なんとかわざと迂遠(うえん)な言い方をして、聴き手を焦立(いらだ)たせてやろうというような、そんな大真面目な願望に苦しんだ経験があるにちがいない。相手を怒らせることはわかっている。むしろなんとかして喜ばせたいくらいなのだ。現にふだんは簡潔、的確、明晰(めいせき)な言い方をしているのだ。とりわけ簡明な、わかり易い言い方が、今にも口の先から出かかっていて、むしろそれを抑えるほうが苦しいのだ。それに相手方の腹立ちは、怖くもあれば、避けたいものとも思っている。それでいてその時ふと、もしある種の錯綜(さくそう)した言廻しや、插入句などを用いればこいつは相手の怒りを挑発できるかもしれぬ、という考えが頭をかすめるのだ。もうそれだけでたくさんだ。衝動は希望となり、希望は願望となり、願望はやがて抑え切れない切望となり、そしてその切望に(それは現に話し手自身にも深い悔恨と苦悩の種となり、結果の悪いこともみすみすわかっているのだが)、(おぼ)れてしまうのである。*9

 ポーの表現だと切望だとか人間本能だとか、何か深淵に潜むものという感じがするが、私の言いたかったのはむしろ、なんら望みではない、何の本質もない空転する論理ということである。つまり、横断歩道の白い部分だけを踏むとか、反対に白と黒を交互に踏んでしまうとか、そういう類の無意味な準則に従うのと同じ仕方で、罪に導かれることはあると思う(アーレントの「凡庸な悪」とは少なくとも関心が違うのではないかと思うが、読んでいないので分からない)。

 ここまでは分かり、だからまあ適当に罰されればいいと思うが(これは私がその種の罪を犯さないという意図ではない)、意志が存在すると三つ目が出てくる。つまり、純粋に意志によって志向された罪だ。快楽を求めての犯行というのは違い、(突き詰めると境界は曖昧かもしれないがいま大雑把に考えると)快楽を求めるというのは動物でもできることなのでこれは自己を他者より優先するという一つ目の例に過ぎない。意志が存在するとたとえば罪のこの三つ目の類型が出現するのではないかと思う*10。そして私にはそれをどう扱えばよいのか分からない。というのが、居心地の悪さのひとつの理由といえるかもしれない。あるいは反対で、私が三つ目の罪をどう扱えばいいのか分からないのは、私が意志を分からないからかもしれない。

 

【4月8日追記:「中立進化的なもの」という表現はかなり機能不全な比喩に思われる。私の理解では中立進化とは生存上有利でも不利でもない進化、とりわけ、表現型に影響をもたらさない遺伝的変異を指す語である。だから私はこの表現で、何ら好悪のような特徴として結実しない偏り、というようなことを意図していたと推測される。】

*1:これはつまり、私の語りには雑音が多く(これは私の語りの外から私の語りを邪魔する雑音が入ってくる、という意図ではない)、少なくともより精妙に言葉をつかえるようになるまでは弄ぶべきでない、という判断を意味する(雑音どころかそこで伝わっているものこそがまさにおまえの本性なのだ、といった話については措く)。ところでいま私は粗雑な仕方でこの文章を書こうとしており一貫していない。あまり考えずに発言してしまうとはそういうことである。

*2:突飛な発言、というものはまた別にあり(突き詰めれば場にふさわしくない発言も突飛な発言に一致していくかもしれないが)、これをするには発想力が要ると思う。

*3:ここでは私が無神経な言動により他人を傷つける事態が想定されている。それについて考えるうえでは本来、他人の無神経な(と私には思える)言動によって私が傷つく事態についても検討しなければならない。他人を傷つけるという事態に対する想像は、自分が傷ついた経験から育まれるものと思われるし(それのみにより育まれるかは怪しいにせよ)、そうして得る想像が、他人を傷つけうる事態にどうふるまうかを幾分規定するはずだからである。一言でいえば私には、物事をあまり組織的に捉えられないだとかのせいで、あまり他人の無神経な言動に傷ついた経験がないのではないかという感じがあって、それが私のふるまいにも影響していると思う。しかしここを多少なりとも彫り出していける手掛かりがいま全くなくて、書くことができなかった。こうして書き出してみるとどうやら私は自己理解のためにデイヴィッド・ヒュームアダム・スミスを読む必要がありそうだが、読んだことがない。

*4:これは自分を客観視できるということではなく先述のとおり私の視野は狭い。と書いてから読み返したら先述していなかった。「感受能力の不澄明と狭さ」と書いた部分を、書く前には視野という比喩で思い浮かべていたのだ。

*5:ところでこの段落で述べた自己像は、私が以前千反田えるのこと - 人間の話ばかりするで述べた見解と矛盾していないのだろうか。私は、当該記事を読み返していないものの、切り取りかたの問題であって多分矛盾しないだろうと思っているが(少なくとも前段落で「よく分からない」と述べたようなかすかな当惑を感じてはいない)、賛同してくれる人は多くないのかもしれない。

*6:意志による選択ではなくて、状況の変化に応じて出力される判断が変わっただけのことだろう、という筋道を示されそうだが、それではないという感じが明白にする。なぜそう感じるかというと、明白な知識の追加(体験もこれに含む)があったわけではないせいで、「状況の変化」だと思えないからなのだと思う。確かにある認識に至ったことを契機にしてはいるのだが、これは新規の情報の追加によって得られた認識ではなく、ということは新たな認識ではなく(実際その認識によって目から鱗が落ちたという感じはしていない)、したがって状況は主観的にも変化していない。これは多分プラトンが『メノン』でやっていた話だと思うが、これも半分くらいしか読んでいない。

*7:中立進化的なものではないの、という筋道もあって、これについては、それにしてはこれは倫理的な選択の匂いがする、というとても論理のない返しをすることになる。倫理的にすぐれた選択である、という自己顕彰ではなく、倫理にかかわる要素を含んだ選択問題であった、というくらいの意味だが、しかしここまでの議論を普通に追って、これが倫理にかかわる選択であったということになるか分からない。ただ、次段落以降の連想が起きたことから逆算して、私にとってここには倫理の要素があったと考えられる。次段落以降の話がここまで扱った話から連想されたという私にとっての事実はあるが、普通にみて、次段落以降の話にここまでの話はあまり活きていない。

*8:実際に会ったらどう感じるかというのはまた別だ。ともかく話としては分かる。

*9:中野好夫=訳「天邪鬼」『ポオ小説全集4』創元推理文庫、1974年初版・2015年36版、191–192頁。いまインターネット検索エンジンを使うまで完全に忘れていたが、ポーのより有名な短篇「黒猫」により簡潔な説明がある。

*10:このあたりは永井均中島義道がまともに議論していそうな気がするのだが、これも読んだことがない。もしかしたら中島隆博だったかもしれない。無知だ。

供養会8つ

 かつて書きあがらなかった記事たちの残骸をいくつか公開する。供養というか、執筆継続が生む追善によってのみこれらの記事は成仏できようところ、それを手放して楽になるために公開するのだから、ただの遺棄だとは思う。掲載順と執筆順は特に対応していない。

 

谷山浩子『ひとりでお帰り』集英社コバルト文庫

 谷山浩子『ひとりでお帰り』を読みました。

 ざっくり言って、谷山浩子の小説には、サンリオから出ていたファンタジック童話系統と、コバルト文庫から出ていた少女小説系統があります*1。前者についてはいくつか読んできたのですけれど、後者については実ははじめて読みます(ついでに言えば、コバルト文庫自体はじめて)。

 かなり惹かれた部分もあったのですが(序盤になりますが飲酒シーンは蒙を啓かれました)、紙数の関係か結末が消化不良かな。具体的には、最後に友人のほうとの関係がほったらかしになる点が。

 ただ、友人との関係を整頓すると、タイトルと連動している現状の結末が崩れてしまうような気もして難しい。あとがきの「この二年くらい、個人的にいろんなことがありました。これだけ派手に浮き沈みして、泣いたり笑ったり、悩んだり喜んだりできれば、人として生まれた甲斐もあるというものだと、つくづく思うような激動の二年間でした。」「なにしろ精神的な浮き沈みが続いていたので、どういう展開にするかずいぶん迷いました。」という言をみると、安易ですが、当時の谷山さんの実人生ともリンクしてのこの終幕なのだろうなと憶測されるところですし*2

 他に特筆すべき点として、絵がすごくいいです。スクリーントーンではなく硬質な線を細かく描きこむことで色づきを表す手法(カケアミというのか?)の清潔感が、一般に私の好みであるという面もあるのかもしれない。描き方だけでなく描いているものの選択も、たとえば作中に対応するシーンのない表紙イラストなんか、かなり正解ですね。結晶石なんか完全にオリジナルなモチーフなんだけど実に的確だと思う。

 イラストレーターは眞部ルミさん。……いま調べていたら、「マナベウミ」としてこちらのウェブページに紹介がありますね。「トーンを使わずカケ網や点描を丹念に使って陰影を形成しながら主線の存在感を究極消してしまうその画風」という説明に、なるほど。着眼点は悪くなかったけれど、主線が消えてしまうところこそが私の好みの本筋か。惹かれる理由を探ろうとして楠本まきを連想したりもしたのだけれど、楠本まきのことも確かに、カニッツァの三角形じみた雪景色の美しさとして記憶している。そして私は実はオーブリー・ビアズリーがよく分からないのですが、主線に差があったわけですね。

 それからコバルト文庫の谷山作品から、『きみが見ているサーカスの夢』のレビューが『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』に掲載されているらしいのも発見しました。見てみたいです*3

 余談1。既読の谷山作品のなかでベストは『ユキのバースデイシアター』です。ただいま思い返してみて、初読時に未収束の不満を感じた『少年・卵』は、それを前提に再読すると評価があがるような気がしますね。『日本幻想文学作家事典』ではたしか谷山の代表作として『猫森集会』と『少年・卵』が挙げられていたような気がして、幻想文学事典の嗜好としては何となくうなずかせるものがあるのでした*4

 余談2。今家内捜索をしたら、持っているはずの『悲しみの時計少女』が見つからない*5。なぜだ。

 余談3。説明をすっぽかしていましたが、谷山浩子シンガー・ソングライターで、本作と同題の歌「ひとりでお帰り」があります。名作です。「悲しみの時計少女」も。

 

日記(読むことと疲労について)

 仕上がっていない記事の二つ目は、見かけたあるツイートとその受容に疑いをはさむものだ*6

 批判しようと思えば熟読する、繰り返し読むことになり、そのうち不意にそれまでの読みの準拠枠から外れて、自分がまったくあたらしい相貌をした言葉を眺めていることに気づく。これはときどき起こることで、思い出す限りだと私の場合だいたい三年に一度のペースで今回が三度目ではないか。別にそれだけの頻度で他者の言葉に対し好戦的にふるまうわけではなく(恥ずかしながら過去二回の熟読は必ずしも自発的なものではなかった)、〈批判的にクリティカリー読む〉とは〈吟味する〉くらいの意味にとってほしい。出会った文章をそうして舌で転がしていると、ある日、憑き物が落ちたように、自分の読みの姿勢が間違っていたのではないかと気づく。文意は自分の考えていたこととまったく異なるのではないかと。その気づきは、それまでの自分が阿呆らしく思えることを差し引いても(あるいはむしろそれゆえに)、快感である。けれども時間がかかる。どうもその文章のことを二週間や一ヶ月は考えて過ごさないと目が醒めない。憑き物が落ちるには一旦こごらないといけないのだ。

 快感であり読んでいてよかったという気になる。けれども時間が湯水のように捨てられていく。それでいて、単に読み違い、つまり自分が焦点の置き方を誤っていたことに気づくだけなので、深度を得られるわけではなく、不思議に聞こえるかもしれないがどうやらさして応用が利かない。読みが深まるなら二週間や一ヶ月、もっと長いこともあるが、そのくらい捨てたとはいわない。さらに問題なのは、普通ひとは言葉をそう飴玉のようにしゃぶらないので、むしろ世間的には言葉はもっぱら読み違えられたものとしてこそ流通するように思われることだ。ツイートの文面は当初の意味とはまるで関係なく受け手の予断プレジュディスをたっぷり吸い込んでふくらみ、むしろふくらんだものとして世の中に影響を及ぼす。であれば当初の意味を〈正しく〉喝破したところで、言葉が発揮している機能はそのようではないのだから、受容について語るほうが誠実になりうる。その幽霊は実在するのかもしれないが、自分に見えているからと実在の意義を過信すべきではない。相手にしなければならないのは幽霊が見えない人たちなのだから。あるいは芸能人について語るとき我々は当然にイメージの流通の話をしているのであって、それを差しおいて実体につき熱弁するのは場違いだ*7

 きっと私はいわゆるオルタナティヴ・ファクトのほうへ足を踏みだしている*8。もちろん上記の主張は、言葉の受容が変化しないことも、自身が受容決定の局外者であることも意味しない。私たちは力の遂行者エージェントとして言葉の意味が定まる場を形成するプレイヤーであり、他のプレイヤーの説得その他場を形成する作用によって〈正しい〉意味に覇権を獲らせるべく、行動することができる。けれどもある役割を意図的に遂行しようと思えばなおさら、自分の行動がいかなる作用を及ぼすか知るために、まず状況とりわけ他のプレイヤーを所与のものとして認めること──いわゆる、当為ゾルレンと区別して事実ザインを把握すること──は不可欠になる。でなければ、他者を説得することはできない。つまるところ私は、事実についてであれ当為についてであれ、自身の把握の精度の低さと遅さに、そして何よりも、他者を説得する能力の無さに疲れている。

 疲れているから何だというのだろう。疲れたからと放置することで形成される場から日常的にこうむる苦痛がある者は争いをやめることはできない。争いというとつねに社会全体の変革を掲げるもっぱら利他的なもののように聞かれることも多いけれど、その理解は一面的だ。心地よい空間に引き籠もることも、社会のなかから近しい人を選別して集め、身の周りに特別に歪んだ場をつくりだす行いである以上、外圧と争って場を形成する意図的行動のひとつの形にほかならない。また、さもなくば均されてしまっていただろう局所の歪みが存続し、微弱にではあれ周囲へ全体へと波及しうることまで考えれば、全体の変革においてさえ不可欠な一要素といって差し支えない*9。だから、人は争いつづけている。

 

谷山浩子「冷たい水の中を君と歩いていく」

 それにしてもわたしが感じ入るのは、1番の終わりの歌詞だ。

あんまりそれがきれいなので 誰にも言葉はつうじない

〈言葉にできない〉でも〈言葉はとどかない〉でもなく、「言葉はつうじない」。些細な、作者も無意識なのかもしれないこの選択に、けれどもこのひとの深刻さがあらわれているように思う。
 言葉とは、他者と共有される世界の解釈コードだ。言葉はふだん、世界をすきまなく表現できるかのようにふるまい、そしてわたしたちに、言葉を交わしあう他者にも世界が同じものとしてあらわれているかのように思いこませる。けれどもしばしば、ふと自分にとって解釈コードが失効し、世界が遠くなってしまうことはある。
 その状態をどうとらえるか。〈とどかない〉のであれば、単に距離の問題だ。言葉自体は共有されており、両岸は同じ世界をたどっている。少なくとも、失効を意識してはいない。〈言葉にできない〉のであれば語り手は、人々に共有される解釈コードの裂け目に気づいてしまっている。口をあけた深淵のまえで立ち尽くしている。きっと多くのひとが、一時的にそこまではいける。一時的になるのは、その裂け目が日常のまどろみのうちにふたたび埋没するからというだけではなく、ひとはふつう深淵に耐えられないからだ。耐えられなくなって、人々のほう、言葉のほうへ戻ろうとして、それとも深淵に呑まれてしまう。
 けれども、このひとはとどまる。その時間をゆく。「誰にも言葉はつうじない」。それが意味するのは、語り手が別の言葉をしゃべっているということだ。一時ではすまない長さを深淵のふちに立ちつづけ、いつかそのひとは独自の言語を編んでしまっている。

 

うたかたの夢に狂ってほろびることになんの悔いがあるだろう。
問題は、人はそう簡単にほろびるものではないということなのだ。
映画では、もうおばあさんになった安部定がインタビューを受けていた。
定さんは、あれほどの恋の後、老いるまで生きたのだ。
酔うことも狂うこともない、素面の日常を毎日毎日何十年も積み重ねたのだ。
おそろしいのは恋のはかなさなどではない。
人生なんてたちの悪い冗談だと言えるほど私は達観できず覚悟もできない。少なくとも今はまだ。
日常はこれほど強固で、一分一秒ずつしか刻まれていかないものなのだから。
酔い続けているには人生は長すぎる。
そして、それでも酔い続けているにはこの強固な現実に対峙できる強さが必要なのだ。*10

 

天乃忍ラストゲーム白泉社

 作品享受がどの立場からなされるかを論じたものとしては、少女漫画を例にとった泉信行私たちの気付かない漫画のこと 第3回 主人公の視点「だけ」で感想が決まってしまうこと」がきわめて平易かつ示唆的である。

「少女漫画家には、イケメンだけじゃなく、美少女を描きたくてテーマを決めるタイプの人もいるんですよ」と説明すると、「それ本当に?」という反応をして、にわかには納得しない人っているんです。それも女性の漫画読者で、ですよ。
彼女らの思う少女漫画とは、「男子にときめくもの」であって、自然と「主人公の視点から男子を見る」、つまり(主人公への共感は求めても)「主人公を可愛がる視点にはならない」ものとして認識されているようでした。

 少女漫画読者の感情移入先がヒロインであることを無自覚に前提した評を批判して、泉は読者の感情移入先がむしろヒロインを愛でるヒーローや女友達でありうること、さらには感情移入先が同時に複数でありうることを述べる(感情に限った話ではないため、泉が用いている「同化」という表現のほうが適切かもしれない。)。
 泉はヒーローと女友達の区別には深入りしないが、この点をめぐり天乃忍ラストゲーム』全11巻(白泉社、2012〜2016年刊)に言及したい。学生日常ラブコメディ少女漫画としてはおそらく画期的なことに、本作は書籍裏表紙記載のあらすじ紹介において、ヒロインの呼称が一貫して「九条」と名字呼び捨てなのである。ヒロイン自身やヒロインの女友達としての立場から享受する際、ヒロインは(あらすじ紹介にはやや用いにくいあだ名を除けば)もっぱら下の名前、もしくはさんづけで呼ばれることになろう。しかし『ラストゲーム』で多く視点人物を担うのはヒロインのため奮闘するヒーローであり、しかもいわゆる優男風ではない彼はヒロインを名字で呼び捨てる。さらにいえばヒロインの主要な女友達は一人しか登場せず、この友人は彼女を下の名前ではなくあだ名で呼ぶ。ヒロインの名字呼び捨ては、以上のような条件があわさってはじめて生じた現象だと考えられる。

 

小川麻衣子『魚の見る夢』

 感情同士の衝突あるいはふれあいに視線を注いでいる作者だという印象を受けた。登場人物はそれぞれがひとつの感情を湛えたかたまりとして配置され、それらがスパークする場面場面を作者は明晰な筆致で彫り込む。一方シーンをつなぐ物語的な理路や説明はかなり潔く省略されている。たとえば最終盤で九条と黒川(ナツ)が対峙するシーンについて、両者の集結が故意か偶然か、黒川がいかにして九条の所業を知っているのか、説明する必要を作者は認めない。作中人物としての知識その他の制約を捨象され、ほとんど、読者と同じ地平の思想闘争における二つの観念の代理人そのもののように斬りつけ合う二人の姿は、どこかアレゴリカルな道徳劇の気配さえ漂わせている。

 私自身は物語作品を享受する際、まずは登場人物の行動アクションが作中世界の事物に対する反応リアクションとして描かれることを想定する*11。もちろんある事象に対し如何なる反応を示すかは人によりさまざまだし、同一人においてすらその出力函数には一般に気まぐれと呼ばれる確率変数が仕込まれているものだから、反応の経路を一意に定めるつもりはない。けれども如何なる径路にせよ、反応の連鎖、いわゆる筋、をたどることが物語をたどることだという感覚はあり、勢い作中事象の整合性や根拠探しに気をとられがちになる。

 

身も蓋もないいえばつじつまを合わせる

 つじつま合わせは馬鹿にしたものではなくて、作中事象に自律的な生起の外貌を与え、迫真性を高める効果があるだろう。しかしでは『魚の見る夢』は迫真性を手放している

犠牲にしているのかといえば、

内的真実を。毀損したくない。最上のもの。説得。

私とは別様の詩学

他方にあるたとえば峰浪りょうによる長篇漫画『ヒメゴト~十九歳の制服~』はその論理性への。思い当たる。一例といえるだろう。(形而下的な意味での整合性)。そして、仲谷鳰やがて君になる

 

自分の生むものに価値はあるのか、という問い(椎名うみインタビュー)

 先日やっと椎名うみの連載長篇漫画『青野くんに触りたいから死にたい』の既刊全7巻を読むことができた*12。連載開始直後から話題になっていた作品だと思うが、私自身はその題名から、あまり趣味の合わない様式に依存した作品ではないかという偏見を抱いており、しばらく読まないままでいた*13。のちに新古書店で第1巻を立ち読みしてそのなんというか、武骨なまでの危うい力づよさ、に認識を修正してからも、購入、そして今回の読破にいたるそれぞれの段階で、ときどきの事情から若干の足踏みを余儀なくさせられた。ようやくここに至れたことを我ながら喜ばしく思う。

 第2巻以降、作品は第1巻を読み終えた時点でも予感しなかった膨らみと勢いを見せており、感嘆すること頻りだった。椎名とその担当編集たしろへのインタビュー記事において、「軸がオカルト」ではなく「恋愛の話」であると言明されていたこともあって*14、私は第2巻を読むまで、たとえば学園内にとどまるような狭い人間関係の範囲で話が展開するものだと思っていた。実際には殊に「新章」と謳われた第3巻*15以降適宜新領域を示しつづけることで、キャラクターの固有性への関心を差し引いてすら成立しうる、連載ストーリー漫画としての高度なエンターテインメント性を発揮している*16。インタビュー記事で語られるとおり、椎名が作品を他者に届けるために想像を絶する努力をしていることがうかがわれ、ほとんど信じがたい。

 さて、けれども、今考えようとしているのは直接には作品ではなく、そのインタビュー記事のほうについてだ。【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その3> - コミックDAYS-編集部ブログ-で、椎名とたしろは次のように述べている。いわく、椎名は創作にあたって〈描こうとしているものをきちんと描けるか〉とは別に、〈そもそも自分が描こうとしているものに価値はあるのか、この世に必要なものなのか〉という不安を抱えていた。たしろは椎名が後者の不安を抱えていることにしばらく気づかず前者の心配ばかりしていた、と。私は後者の不安について考えたい。必ずしも不安という語、〈価値があってほしい〉という前提を感じさせる語でなくてもいいのかもしれないが、後者の疑問について言葉を接ぎたい。というのも、なぜこんなものを産まねばならないのか──逸って拡張的に言い換えるならきっと、なぜ生きて、私という視座から世界を切り取らされるのか──という問いは私を引き寄せるにもかかわらず、それこそたしろが問題にしていなかったように、なんだか語られることが少なく思われるから。だから椎名がその問いについて語っているのを読んだとき、私は嬉しかったのだ。

「なんだか語られることが少なく思われる」という私の意見に、首をかしげる人もいるかもしれない。この問いは、〈自分の好きなもの、面白いと思うものを他者が好きではないらしいとき、自分の好きなものを創作するのをやめるかどうか〉という形では頻繁に話題にされているのを見かけるからだ。しかし問いをこの形に還元したとき、産み出そうとしているものを少なくとも自分は好きである、少なくとも自分に﹅﹅﹅とっては﹅﹅﹅﹅価値が﹅﹅﹅ある﹅﹅ことは疑われない。

 

たとえば酒がないと依存症患者は苦しむだろうが、その人にとって酒は価値があるということはためらわれるだろう。

〈他者は他者、自分は自分〉自分にとっての価値を疑わない人間。

作品を世に出すことには責任が伴う。有害と知って散布すべきではない。価値判断の正誤とは別に、当人は価値があると信じていなければならない*17

まずもちろん、描こうとするものに他者から認められる価値が必要だという椎名の主張は、「漫画家で生活するんだったら」、広くとっても「読んでもら」いたいならば*18、という限定を附したものであって、椎名は「自分のためだけに描」く*19態度を完全に否定しているわけではない。

椎名:そうなんですよね~。でも、そんな私が、この作品に価値があるんじゃないかって肌感覚で信じられるようになったのは、たしろさんが「椎名さんの漫画を信じてるよ」っていうのを何度も何度も伝えてくれたのと、読者の方が熱を持って感想をくださったからですね。そういう言葉が、心の器にたまっていって、ある日あふれたって感じでした。「この物語を書いていいんだ!」って。だからほんとに、周りの人のおかげで「私の作ろうとしている“人間”には価値がある、このまま描き切ろう」って思えるようになったんです。*20

 

次にその結末部を引用する短文、表現者のために、抽象的なことを|山口尚|noteは、だろう。

じつに、自分の活動をわがことのように「喜んで」くれる鑑賞者が現れてくれば、表現活動はいよいよ「自分だけのもの」ではなくなる。それは、個人的なことに尽きず、自己を超えた何かしらの価値への貢献のベクトルも得るのである。――こうした水準において表現活動に携わるようになると、個別の批判に挫けていられなくなる。

 

*21

 

くらもちふさこ『おばけたんご』死者と個人主義

 かわいらしい題名……だと読むまえに思っていたものは、実はかなりシリアスな作中設定の逐語訳だ。

端午は私の婚約者だ

憧子あこは大きくなったら端午君のお嫁さんになるのよ」

おばばの言葉に

「およめさんになれば おっきくなっても ずうっとたんごとムシとりやたんけんごっこができるゾ しめしめ」7歳だった私はなんの抵抗もなかったのも当然だ

だから婚約者といっても 7歳のおつむには「コンニャクしゃ」程度に響くだけだった

端午が 毎年家族と訪れる日は いつも せみの声で パンクしそうだった*22

 リアリティを追求するくらもち作品らしからぬ、語りの〈現在〉を提示しないまま為される俯瞰したナレーションに、微かな違和感を覚える*23。その感知は正しくて、回想が端午の事故死によって突然の幕を降ろすと、後景化していた現在、高校生の憧子が現れる。けれども、過去語りへの埋没に現在地が遅れをとるそのありようが示すとおり、憧子の意識は過去にとらわれている。事故死した端午の存在──〈おばけたんご〉に。

 人を過去にとらえるのは後悔と罪悪感だ。「なんの抵抗もなかった」7歳の憧子はその夏、端午と忍び込んだ親の医院で、同い年の陸朗に出会って一目惚れし、察知して焦った端午と仲違いした。そのまま端午が東京へ帰ろうという日、陸朗の乗った車を目にした端午は、そっぽを向いて親にいう。「パパー まえのクルマおいぬいて」*24。そして追突事故が起こり、陸郎の両親と端午は命を落とす。

 けれども過去がただ責めて苦しめるだけの存在ならば何ほどのこともない。罪悪感に苦しめられるのは負い目があるからで、負い目があるとはつまり、それが自分に尽くしてくれることを意味する。冷たいだけの存在ならば離れることができる。憧子に過去に埋まりかねない危うさを感じるのは、彼女が端午を恐れているからではなく、端午の優しさを信じ、依存しているからだ。実のところ〈おばけたんご〉の語が作中一度も登場しないことは、化け物としてのネガティブな側面を思い描くには、憧子が端午を今なおあまりに身近な存在として、生きていたときの自分に優しい男の子のままの姿で、隣に据えていることを意味する。

たんごさま てえきわすれちゃったよ たんごさま

たんごさま なんとかしてくれないかな*25

端午さまお願い」が なんとなくクセになってる

願いが叶うと いつも端午がそばにいるような気がして ホッとするから*26

 過去に絡め取られた憧子の傍らにはあまりに自然におばけたんごが存在し、彼女の支えとなっている。支えとしての死者の善性は、死者への負い目をいやましに大きくし、一層彼女に現在を見失わせていく。

 

 歪んでいるかもしれない私の視野に現れる『おばけたんご』は、〈死者の残念にどう向き合うか〉を主題モチーフとした作品だ*27くらもちふさこは21世紀に入ってから少なくとも2作品、『α』第3話と『花に染む』でこの主題を扱っている。

 死者にとらわれた人を描く作品は大抵の場合、死者への誤解の解消や、生者との新たな関係の構築による現在の更新を終点に据えるだろう。けれどもくらもちがこの主題を扱った作品には、それとは異質な手触りがある。原因はおそらく、死者に限らず他者とのコミュニケーションについてくらもちがとる姿勢にある。

*28

人はごく当たり前に視野狭窄であるから、完璧にその居場所を得ることはできない。世界は、他人は、主人公が自覚していない場合も含め(自覚していない場合こそ主人公のみっともなさは激しくなる)、主人公にとって理解できない異物であり続ける。だからくらもちの作品では過去や現在との完璧な和解は起こらない。死者にせよ生者にせよ、他者は異物でありコミュニケーションはたいへんである。

しかし生者と死者には一つ異なる点がある。みな視野狭窄で他人には理解できない行動をとる、だからこそ、相手が生者であれば究極的には相手のことは相手自身に任せておけばよい。けれども死者は自分のことを自分でする機会を奪われていて、放っておくと自分の身勝手さが死者を踏みにじってしまうかもしれない。だから自己中心的な主人公は、死者の依り代とされることには強い義務感をもっており、自分ばかりか自分以外の生者も視野狭窄的に犠牲にしながら、残った念に操られ遺志をなぞろうとする*29

 

過去とアイデンティティ米澤穂信クドリャフカの順番』)

「で、なんのコスプ……」

 言いかけの台詞を遮って、クロスレンジに踏み込んでのボディーアッパーが、僕の胃を見舞った。[中略]摩耶花は眼に剣呑な光を宿して、ぼそりと言った。

「カタギさんの前で、その手の用語は使わないで」

 コスチュームプレイぐらい、いまどき禁句にすることもないと思うんだけどなあ。

 小説『クドリャフカの順番』の作中人物たる高校一年生・摩耶花は、所属する漫画研究会の方針により、文化祭でやむをえず、漫画作品等のキャラクターに扮するいわゆる「コスプレ」をおこなうことになる。事情を知る友人に公道で「コスプレ」の語を出された際の摩耶花の反応が、上の引用部分となる*30

 ここで摩耶花は非オタク一般人のことを「カタギさん」と呼んでいる。これは無論、違法行為を生業とする〈ヤクザ〉と対比して一般人を指す語〈堅気〉のことだろう。「カタギ」という語を選択する摩耶花/作者の言語感覚が可笑しくて印象に残っていたのだが、先日熊代亨「「あの時代」のオタク差別の風景と「脱オタ」について」を読んで、どうやらこの用法が独自のものではなく、ある時期のオタクたちのあいだでは共有されていたらしいことを知った。

 世間に向かって「アニメやゲームが趣味です」と表明しにくい時代、マトモな趣味とはみなされない時代は確かにあった。オタクの間で“一般人”“カタギ”といった表現が盛んに使われ、趣味がバレることを“カミングアウト”と呼んで憚った、90年代〜00年代のオタク界隈の空気を、覚えている人は覚えているはずだ。

クドリャフカの順番』を含む〈古典部〉シリーズの第一作『氷菓』は2001年に刊行された。作中では1967年が33年前と述べられているから舞台設定は2000年、『クドリャフカ』でも舞台は同年だ。また『クドリャフカ』単行本刊行は2005年のことであり、作中設定と別途現実社会が反映されるにしてもこれが下限となる*31。「カタギさん」という言葉にあるいは刻印されていたかもしれないその時代背景を、知らない私は見過ごしていた*32

 言葉にまつわる時代の文脈を知っても知らなくても、二人のやりとりの意味は、表面的には変わるわけではない。摩耶花は自らの漫画趣味を公道で曝すべきではないと考えており、おそらく趣味を同じくしない話し相手の友人は、それをやや時代がかって過剰な羞恥だと感じている。小説本文に書かれてあるとおりだ。けれども「表面的には」と逆らいたくなるのは、事をそこにいる個人の自由選択、二人の感性の差に還元するのがためらわれるからだ。それでは、踏み込みが足りない。

「不完全って、昨日の折木さんの説がですか? 間違っていたんですか」

「わからん。方向が間違っていたのか、踏み込みが足りなかったのか」*33

 摩耶花はただ個人的感性にしたがって、自然にこのふるまいを生み出したわけではない。オタクと眼差されオタクと自認したある文化集団に属する者として、そのときそこに流通していた語法を吸収したのだ。吸収した時点で、発生時の含意がどれほどに変質していたかは疑ってしかるべきだろう。摩耶花がその残響と変質にどれほど自覚的だったかも。差異の痛烈な原体験など欠いたまま、差異化の身振りだけを模倣しているに過ぎないのかもしれない。それでも、殊に本作が、自身に切実たりえないものに肉薄するための文章読解に執する〈古典部〉シリーズであってみれば、残響をないとするにはためらいがある。すでに過去に過ぎないことを、きちんと埋葬するためにも、過去を知る必要はある*34

 2012年、〈古典部〉シリーズは「氷菓」としてテレビアニメ化された。アニメでは1967年が45年前とされており、舞台設定は2012年に変更されたことになる。摩耶花はやはり、「カタギさん」のことを口にした。

*1:もっとも、私の知識はほぼまこりん氏によるウェブページ谷山浩子 全小説レビューのみに依拠しており、そのうえ本文で述べたことは知識ではなく知識からの臆断に属するので、どこまで正しいか分かりませんが。

*2:今気づいてびっくりしたことには、コバルト文庫、奥付がないらしい。あとがきに「一九九三年 十二月」とあるので擱筆時期は分かるのだけど。

*3:【編注】その後実見した。嵯峨景子「ピエロが誘うダークな谷山ワールド」嵯峨景子、三村美衣、七木香枝=編著『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』時事通信社、2020年、141頁。なお当該レビューは「従来の谷山小説はファンタジー路線の作品群と、恋愛モチーフの作品群とに分かれるが、『きみが見ているサーカスの夢』は両者の色を融合させたような趣がある」としている。

*4:【編注】この記憶は歪んでおり、実際に書名が挙げられているのは『谷山浩子童話館』『猫森集会』『サヨナラおもちゃ箱』『お昼寝宮お散歩宮』『きみが見ているサーカスの夢』『少年・卵』である。東雅夫石堂藍=編『日本幻想作家事典』国書刊行会、2009年、439頁。

*5:【編注】未だに見つかっていない。もしかするともともと所有していなかったのだろうか。

*6:【編注】この文章は、当時手がけていた別の記事たちがいつまでも仕上がらないので、箸休めの日記としてそれら将来の記事の内容を紹介しようとしたものだが、結局日記そのものも仕上がらずに終わった。ちゃんと覚えていないが、二年前のこちらの記事に「かかずらっている四つの記事」とあるのはそれらへの言及だと思う。

*7:この点はそれこそ予断をもって読まれそうだが、私は必ずしも、インターネット普及後我々の文章読解力が落ちたという類の話をしているわけではない。いま思うに、私が言葉は〈正しく〉読まれないという感覚を覚えた重要な契機は、印刷された紙の雑誌上で1962年に行われた論争の一部をたどったことだった。

 論争中の人物として二名、岡井隆寺山修司を紹介する。角川書店『短歌』の短歌年鑑1962年版(発行は1961年)で寺山修司岡井隆の短歌集『土地よ、痛みを負え』を評し、これに4月号で岡井隆が応答した。ところで、岡井は寺山の批判が書中の連作「ナショナリストの生誕」「思想兵の手記」に向けられたものという体で応答している(「現代短歌演習13 〈私〉をめぐる覚書(その一)」『短歌』9巻4号138頁)。たしかに寺山は両連作の名に触れているが、批判に際して挙げているのは別の連作「私をめぐる輪舞」「暦表組曲」なのだ(「前衛の結実」『短歌』8巻13号19頁)。過失か故意かいずれにせよ、対象すら踏まえずに批判を〈正しく〉読解できるはずがない。ところがこの読み違えは正されない。寺山自身が翌年3月号の再説では、おそらく修正の自覚なく、岡井の読み違えに追従するに至る(「「私」とは誰か? 短歌における告白と私性」『短歌』10巻3号68頁)。

 両者を軽蔑するわけではない。むしろ論争における優先順位からすればこれがあるべき姿とも考えられるのだ。他者の文章に口を挟むのはまず、自身その論点に一家言ある者、つまり純粋な批判よりも異論の提示を目的とする者だろう。でなければ動機が分からず不気味である。従って論者は持論を開陳することを目的として、典型的には以下のような段階を踏んで文章を構成することになる。

 0. 他者の論を理解し、またその理解の客観的な妥当性を可能な限り示す

 1. 上記理解に基づき、他者の論の欠陥を指摘する

 2. 代案として自説を開陳する

0. と1. が批判読解、2. が異論の提示とまとめられる。しかし紙面や読者の注意量の制約から、すべてを十分に展開できるわけではない。このとき最も優先されるべきは、目的でありかつ独創的とされる2. の部分だろう。論者自身の欲求からしてもそうなるし、読者も1. はともかく0. については退屈がるようだ。批判部分は省略対象、検証に値しない対象と見なされる。してみれば論争に求められるのは他者の読解と応答ではなく、魅力的な異論のカラオケ大会なのだ。批判読解は枝葉、なればこそ岡井は寺山を読み違えたし、また寺山も自分が岡井をどう批判したかよく覚えていなかったのだろう。

 もっとも、残されたこれらの記事における批判読解の練度を論争の典型と捉えるべきではない可能性もある。たとえば二人の議論は衆目を集めるためのプロレスだったのかもしれない。また、雑誌記事の合間に私信や対面において対話を深めたことで生じた修正が、雑誌記事においては前提とされているのかもしれない──もしそうなら置いてけぼりの雑誌読者は気の毒だが。しかしその読者こそ、批判より自説開陳を喜ぶのだ。岡井は連載評論中のさらに二回を割いて議論を展開し、しまいに次のような「短歌の生理」を主張するに至る。「現代短歌演習15 〈私〉をめぐる覚書(その三)」『短歌』9巻7号99頁。

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の──そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物[中略]を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。

この言明は多大な賛嘆反響を呼び、40年後の事典類においてすら「とくに数多くの評論で引用されている」(吉川宏志「現代短歌入門」『岩波現代短歌辞典 デスク版』岩波書店、1999年、242頁)、「私性の変遷を貫いて、[中略]二〇世紀末の現在もなお生き続けている」(穂村弘「私性」同733頁)と評価されている。しかしいかにも奇妙なのは、実のところこの言明が、それまで三回にわたり展開された議論により導かれた定理ではなく、終盤に突如断言されるぽっと出の公理だということである。本当にそんな「生理」があるのか、あるとして言葉一般ではなく「短歌の」生理なのか、なんら説明はなされない(だから信ずるに値しないと言いたいわけではない)。

 岡井の連載評論はのちに『現代短歌入門』として書籍化された。論争に当てられた三回は第11章にあたるのだが、一冊を通読すればわかることは、11章の議論の基盤にはつねに第3章および第4章で持ちだされた「場」の概念があるということだ。私性とは「場」を形成する一要素に過ぎない。極端にいって、下手に11章を読むくらいなら3章4章を読んだほうがよい(岡井隆『現代短歌入門』講談社学術文庫、1997年、58–84頁)。

 なお「私性」なる語については、当ブログではこれまであいみょん「マリーゴールド」の記事の注釈6および籠釣瓶と『クズの本懐』の記事の注釈11で触れている。この岡井の言明に関連づけて説明すると、前者は、自立に不可欠なのは「人」すなわちキャラクターではなくキャラの水準ではないかという主張であり、後者では、キャラ/キャラクター/実在の発話者がゆらぎつつ重なる機序を念頭に、Twitterを短歌と類比している。

 たとえば詩の言葉について述べたこんな一文を引いて、岡井と並べてみたくはならないだろうか。「遍在するのは、ただ一つの顔──どの言葉にも自己の言葉としての責任を負う、作者の言語的相貌のみである。」ミハイル・バフチン、伊東一郎=訳『小説のことば』平凡社ライブラリー、1996年、74頁。もっとも岡井には顔をしかめられるかもしれない。「よそで有用だった概念や分析を無反省にもちこんできて、その実、短歌的土壌の一尺も掘れていないという手合いが多すぎるんだ。他国他郷生まれの概念や分析用語は、税関で厳重審査の上、入国させてほしいよ。」岡井「現代短歌演習15 〈私〉をめぐる覚書(その三)」96頁。

*8:Alternative facts - Wikipedia。(【編注】いったいどの時点の当該ページの内容を読んだのか不明である。確かめる気も起きない。)

*9:特別に歪んだ場については、別の表現をとりつつ以前の記事のとくに注1でも触れたことがある。

*10:二階堂奥歯『八本脚の蝶』ポプラ社、2006年、48–49頁。

*11:野暮を承知で敢えて補足すれば、「享受する際」「描かれることを」想定する、といいつつ、ここには〈私が作者ならこう描く/描いてしまうだろう〉という意味合いがある。作品の賞味には、作品あるいはその創作の機序を探究することが、さほど意識的な必要もない一部として含まれているものだ。

*12:椎名うみ青野くんに触りたいから死にたい』既刊7巻、講談社アフタヌーンKC、2017–2020年。……とか言っていたら、私が記事を仕上げるのが遅いせいで、書いているうちに第8巻が出てしまった(2021年)。幸い即購入して日を空けず読むことができた。変わらずよかった。特に2点感想を書きつければ、

  • 連載始動のチュートリアルとして結果的にその後の物語展開からは外れたものと思っていた第2話が、第3巻の歌ばかりかここに来て衣装係として戻ってきたことに小さな感動を覚えた。ただそれなら147頁の質問と、返答へ納得した風の次頁反応とが不思議ではある。
  • 生々しさに力点を置くこの作品で、フィクションが私たちに与える救いが描かれるとは予想していなかったので、178頁からの一連には作者はこんな手まで使えるのかと動揺してしまった。確かに本巻表紙カバーイラストを見たとき、その舞台設定が不思議ではあったのだけれど。思えば作者の第一短篇集表題作は、聞くところによると高校演劇の話なのだった。仲谷鳰やがて君になる』とか、あとなんだ、峰浪りょう初恋ゾンビ』もそうだが、漫画の中学高校生はやたらと演劇をする印象がある。きっと作家が大抵フィクション好きだからだろう。

 ところでこれは全く主観的なつながりをしかもたない余談だが、『青野くん』第8巻を購入したのと同じ日、私は入手できずにいた明智抄『サンプル・キティ』朝日ソノラマ文庫版第3巻を手に入れることにもなって、やっと『サンプル・キティ』『砂漠に吹く風』を読み通せた。明智抄については以前その訃報に言及した。乱暴に──このブログの記事はいつも乱暴だから──いって、明智もまた『青野くん』と同じように歪な生の究極の肯定を作品化できる人で、ただ明智はおそらく稀有なことに他者に優しくあるという能力を救いの前提としなかったから、その救いは私にとって特別な位置を占めている(二人のあいだに木地雅映子を置いてみようか)。もちろんこれは、明智の作品と椎名の作品に優劣をつける趣旨ではない。

*13:やはりいざ読んでみたらこの種の偏見が裏切られた漫画作品として、ほかに佐倉準湯神くんには友達がいない』全16巻、それから第1巻しか入手できないままでいるが衿沢世衣子『うちのクラスの女子がヤバい』、の二作が思い浮かぶ。

*14:【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その2> - コミックDAYS-編集部ブログ-。ただし実はインタビューを厳密に読むならば、「軸がオカルト」でないところまでは確実だが、「恋愛の話」なのかは断定できない。たしろは椎名に作品の軸を問うたときこの二者択一を想定していたけれど、たしろを納得させたという椎名の返答が同じ土俵に立っていたものかについて、このインタビューでは明言されていないからだ。

*15:第3巻表紙カバーの裏表紙あらすじより。筆者が所有しているのは2020年9月発行の第8刷。さらに5巻187頁の次巻予告では「四ツ首様編、決着。」なる惹句が掲げられるに至っており、あまりにも〝普通にエンタメ〟した連載漫画風の煽り文句なので愉快な気分になってしまった。

*16:しかしかかる物語の豊かさとは裏腹に、表紙カバーイラストには既刊を通じて、主人公たる刈谷優里と青野くんの二人以外を頑なに配置しない歪さも印象的だ。第3巻表紙カバーの人物が銀髪であるなど容貌が変化していくため、実際に作品を読むまで認識できずにいたが。市川春子宝石の国』のフォスフォフィライトかよ。実際、『青野くんに触りたいから死にたい』が第1話からぶちかます主要人物二人の〈信頼できない語り手〉感によるサスペンスは、主人公にもかかわらずキャラクターとしてのアイデンティティに支障をきたす水準で身体変容を重ねるフォスフォフィライトが与える先行き不明のドライブ感に通ずるものがある。

*17:「その声売ってんだろ。客の前で自分の売った商品はダメですとかアウトだろ」

有川浩シアター!メディアワークス文庫、2009年、143頁。

*18:【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その1> - コミックDAYS-編集部ブログ-

*19:注14前掲記事。

*20:元記事を読めば分かることだが一応注意しておくと、ここで「“人間”」なる語が登場しているのは、ひとまずは、物語の完成形を人体に喩えるという文脈を踏まえたものに過ぎない。

*21:例えば5巻159–160頁、互いへの信頼を吐露しあったあと藤本からかけられる言葉に愕然とする優里や、7巻176–178頁、名言を大ゴマで放った直後、自分の言葉が自身に不信を抱かせた大人の発言と似ていることにうろたえる優里、といった描写には、一見した正解や安心にまどろむことなく精査を加えようとする作者の姿勢が表れている。

 ちなみに私見では、この種のすれ違いを所与のものとする人間観、登場人物は正解にたどり着くとは限らない──いわば、漫画は一人称ではない──という生きたひとりの人間の限界をおそらく本人は意識すらしないまま表現しつづけて極北に立っているのがくらもちふさこである。くらもちふさこ登場時の読者の反応について、恩田陸第7回 内田善美を探して〈2〉 | 晶文社で「「なんでこんな嫌な話描くんだろう」と憎んでいる子も多かったと記憶している」と回顧するのも、さもありなんと頷かれる。

*22:くらもちふさこ『おばけたんご』集英社マーガレットコミックス、1993年、5–7頁。引用に際してルビを適宜省略、以下同様。なおこの引用中鉤括弧「」表記は、フキダシ中の台詞を意味するものではなく原文ママ

*23:例えば『おばけたんご』と同じく幼年期を経て思春期に移行する、くらもちの初期作『いつもポケットにショパン』や近作『花に染む』においては、幼年期はリアルタイムに語られる。

*24:『おばけたんご』35頁。

*25:同43–44頁。「てえき」はバスの定期券のこと。

*26:同58頁。

*27:本当はこの主題を掲げて記事を書くなら、あだち充『タッチ』くらいは読まないといけないのかもしれないが、序盤しか読んだことがない。高橋留美子めぞん一刻』は一応読んでいる。徹底して死者を意思なき記号として扱う『めぞん一刻』は、死者の意思が生者を操るくらもちの世界と好対照をなしている。

*28:この点で、くらもちが自身に作劇の指針を与えた作品としてヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を挙げているのは、本人にどこまで自覚があるかとは別に、あまりにもそれらしい。『ねじの回転』自体はいわゆる〈信頼できない語り手〉を主題に据えた一人称小説として有名だが、ヘンリー・ジェイムズという作家についておそらくより重要なのは、彼が語り手と視点人物を分離することで、作中人物に固定焦点化した三人称小説叙述を理論化した点である。

 一人称小説の語り手「私」が、作者になりかわって小説の文責をにない、比較的冷静にすべてを回想して語る人物であるのに対して、視点人物は、あくまで登場人物の一人にすぎないが、作者はその人物に特別な関心をいだき、その人物にとって出来事がどのように見え、どのような反応や認識をその人物に引き起こすかを、つねに記述しようと心がける。作者にとって視点人物は、出来事を語るための方法であるとも言えるが、その出来事がどのような効果をその人物に対しておよぼすか、という、作者の主題的な関心をも引き受けている、と言ったほうが正確だろう。

[中略]「人は現実のすべてを冷静に、客観的に観察することはできない」という意見にジェイムズは傾いていた。現実とは、人にすべてとらえられるものではなく、謎や誤解がつきものである。そのような限界の中でしか、人は現実を見ることができない。[中略]

 こうした現実認識論に立つことによって、ジェイムズはプロット上の中心を、現実のわからなさ、誤解のしやすさ、平明な認識の困難、などに見いだすことになった。というのも、視点の方法をもちいることによって、物語や主題になにも違いが出てこなければ、わざわざそんな面倒くさい方法を試みる意味はないから、視点人物によって見えない真相、誤解される表層が、現実観察の必然的な一部として、おのずから強調されることになったのだ。

平石貴樹アメリカ文学史』松柏社、2010年、263–264頁。漫画は一人称的表現をとろうとすると、すなわち焦点化の対象人物の視野をそのまま提示しようとすると、当該人物の存在が図像上消去されてしまうため、基本的に一人称的ではなく三人称的な媒体とならざるをえない。(例えば猫に焦点化したことで知られるくらもち『天然コケッコー』scene69にしても原則猫の視野を提示しているわけではなく、ほとんどのコマの中に猫自身の姿が収められている。他方漫画に可能なかぎりの一人称的視野を提示しようとした怪作として、高野文子『棒がいっぽん』所収の「病気になったトモコさん」を挙げておきたい。)くらもちの作品はこの媒体特性を真摯に探究することで、ジェイムズ的に制限・多重化された現実認識を有している。例えば川崎ひろこは文庫本解説において、くらもち作品の〈読者に対する不親切〉を指摘する。

事実がどうであったかは、和佳子にも読者にもわからない。これが不親切でなくてなんだろう。

 おそらく、作者にとって大切なのは、一つのエピソードが主人公の心に投げかける波紋であって、その波を起こした石ころを描くことは本意ではないのだろう。だが、読み手としては、どんな石か知りたい。それをわかっていて、あえて切り捨てているのか、それとも読者の理解力想像力を信じているのか。

 ……謎である。

川崎ひろこ「Fの謎」くらもちふさこ『海の天辺』第1巻、集英社文庫、1998年、381–382頁。

*29:別の角度から同じ話をする。世界との完璧な和解が実現しないというのは、自分が主人公だと思っていると足をすくわれるということだ。それをストレートに主題にしたのが『月のパルス』だが、ここでは自分を脇役にしてしまう世界の意志が〈前世からの因縁〉と呼ばれている。死者の残念はこれとイコールで結んでよいだろう。

*30:米澤穂信クドリャフカの順番』角川文庫、2008年、33頁。ちなみに同書には「どうして摩耶花さんが個人で二百部もの文集を刷ろうとしていたのか、それはわたしにはわかりません。」(57頁)なる文もあり、この箇所の語り手である摩耶花の同級生・千反田が、同人誌やその即売会の概念を有していないことがうかがえる(知ったうえで部数の多さを問題にしている、というわけではないと思う)。もっとも千反田個人の認知を、摩耶花の世代における平均的な認知程度と見なすべきかはまた別の問題だ。というのも、たとえば下記引用箇所から、千反田はおそらく同世代平均よりもサブカルチャーには疎い人物ではないかと類推できる。

「[中略]知らないか?金ヶ崎の退き口」

 こういう教科書に出てこないこととなると、成績優秀の千反田は弱い。首をかしげる

遠まわりする雛』角川文庫、2010年初版・同年五版、254頁。

*31:参考に附すると、『電車男』映画化が2005年、テレビアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」放映が2006年だそうである。

*32:もちろん、その証言が事実の場合であってさえ、ひとつの証言の適用可能範囲を過剰に敷衍すべきではない。熊代は「アニメやゲーム」を挙げているのに対し、摩耶花は主に漫画を愛好の対象としている(もっとも『クドリャフカ』125頁によれば、ゲームキャラクターのコスプレを解説を受けずに判別するだけの見識は有している)。またたとえば地域性も考慮すべき差異だろう。

*33:米澤穂信氷菓』角川文庫、2001年初版・2005年五版、186頁。

*34:「……よかった、これでちゃんと伯父を送れます……」『氷菓』206頁。

人のふんどしで相撲をとる:30 Day Short Song Challenge

 1日でやる(小説) - タイドプールにとり残されてに倣って、短歌でやってみます。

 

 

Day 1: A song you like with a color in the title

「タイトルに色を含む好きな歌」。胸のうちいちどからにしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし(前川佐美雄)*1。清涼の希求が不純物の滅却を前提するあたり、そしてかかる空への志向がむしろ初句助詞抜き、第2句第5句8音字余りで語を「つめこ」む過剰な身振りとして表出するあたりに、青春の性急さが見事に言語化されています。

Day 2: A song you like with a number in the title

「タイトルに数を含む好きな歌」。タクシーが止まるのをみる(123 4)動き出すタクシーをみる(永井祐)*2。「(123 4)」の、句切れと一致した字空けの溜めを解放する瞬間の快さ。……よく見たらお題の原文は「a number」と単数形なので、複数の数を含むこの歌は題意に沿っていないかもしれませんが、まあいいでしょう。

Day 3: A song that reminds you of summertime

「夏を想起させる歌」。季節のうちで夏だけがお題への出演を勝ち取っているのは、バカンスの時期だからでしょうか。

 捻りがないものの、〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ〉(小野茂樹)*3……と当初は考えていたのですが、これは私にとって〈夏といわれて想起する歌〉であり、必ずしも〈夏を想起させる歌〉ではないような気がしてきました。かの人も現実うつつに在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚(花山多佳子)*4

Day 4: A song that reminds you of someone you'd rather forget

「忘れたい人を想起させる歌」。お題の癖の強さが序盤のそれではない。密着ののち壊疽を起こした人間関係、それとも売野機子の短篇漫画*5みたいなシチュエーションが想定されているのでしょうか。

 私の実人生による或いは合理的な、如何なる裏付けもないですが、次の歌が浮かんで消えないので回答とします。からだに穴はあけちゃだめってお父さんが言ってたわたしの耳嚙みながら(平岡直子)*6

Day 5: A song that needs to be played loud

「大音量で流すべき歌」。ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち(長岡裕一郎)*7。濁音にまみれ全てが劇化されていきます。音量で塗りつぶそうとするような思い上がった臆病さもまた、Day 1と並ぶ若さの結晶です。

Day 6: A song that makes you want to dance

「踊りたくなる歌」。はじめは〈にほんばし探しに行かう日本橋探し当てたら渡りませうか〉(石川美南)*8などの心地よい歌を思ったのですが、ダンスというにはもう少し激しいリズムが欲しい。アルティメットチャラ男つて感じのきみだからヘイきみのなかきみだらけヘイ(藪内亮輔)*9

Day 7: A song to drive to

 お題のラストに付く「to」がいかなる機能を果たしているのか私の英語力では理解できないのですが、「ドライブに合う歌」だそうです。マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんとももで鳴らして加藤治郎*10かなあ。そもそも自動車を運転したことがないですが。

Day 8: A song about drugs or alcohol

「薬物か酒についての歌」。さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日は高きかも(佐々木幸綱)*11。お題が纏う直接的な破滅のかおりに替えて、この歌の場合半ばは端正に醒めざるを得ない屈折があるようです。

Day 9: A song that makes you happy

「幸せになる歌」。清水きよみづ祇園ぎをんをよぎる桜月夜さくらづきよこよひ逢ふ人みなうつくしき与謝野晶子*12。選んだあとで、美しさを感じることと幸せを感じることを混同するのはあまり幸せを知らない人の発想ではないかという気もしましたけれど。

Day 10: A song that makes you sad

「悲しくなる歌」。遠花火嗚咽のやうにつ街を視てをり漣の襞のうへ(川野芽生)*13。この歌を収める連作「火想くわさう」から、言葉をやめてしまうほどの苦しい虚無が歌集全体にそっと浸みていて、それでもそこから言葉は紡がれるようです。

Day 11: A song you never get tired of

「いつまでも飽きない歌」。うーむ。赤茄子あかなすくされてゐたるところより幾程いくほどもなきあゆみなりけり斎藤茂吉*14。腐った赤茄子を接写して満足してしまいそうなところ、「て」「ゐ」「たり」、さらにそこから幾程かずれ、しかもなお歩みつつの「なり」で「けり」、というこの語の延々とした連なり、粘るのに滑空しつづける焦点が、五七五の対称性から七七の流出によって逸脱する短歌定型の様態そのものと共鳴しながら、腐敗に潜む死と同じだけの異様な引力を存在という持続にもたらしています*15。現生歌人で花山周子はこれに拮抗する滑空を有しているんじゃないかという気がします。〈朝、パンを齧り目覚めゆくわがなずき テレビの中に朝青龍過ぐ〉*16

Day 12: A song from your preteen years

「小学校高学年時代の歌」。このたびはぬさも取りあへず手向山たむけやま紅葉もみぢにしきかみのまにまに(菅家)*17。プレティーンのころ知っていた短歌となると、俵万智が写真家と組んだ文庫本二冊*18が教室に置かれていたものの、基本的には小倉百人一首限定になってしまいますね。枡野浩一は中学校に入ってからだったでしょうか。そして百人一首にしても、内容よりはもっぱら歴史上の挿話への関心から、安倍仲麿と菅家すなわち菅原道真のみ覚えが早かったと。もう少しのちには音のよい、たとえば〈久方ひさかたひかりのどけき春の日にしづごころなく花のるらむ〉(紀友則)あたりを好むようになりました。

Day 13: A song you like from the 70s

「好きな70年代の歌」。年代指定の含意が分からない。インターネット検索エンジンGoogleで浅く調べた感じ、1960年代のザ・ビートルズの業績を礎に多様なロックが開花した時代なのでしょうか。短歌に応用する上では年代を移した方が題意に沿うのかもしれませんけれど、見識がないのでそのままで。そもそも短歌の発表年をどう考えればよいかも私には判断の難しいところがあり、あまり厳密に限定しないことにします。こういうのは厳密にした方が面白いのですが。

 70年代というとおそらく学生運動挫折後で、聞くところによれば〈微視的観念の小世界〉の時代かと思います*19。引用歌自体は性格が異なりますが、その辺りの作者から、鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ(小中英之)*20

Day 14: A song you'd love to be played at your wedding

「自分の結婚式で流したい歌」。〈われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき〉(大森静佳)*21……はちょっと、冷たい式ですね。もう少し寄り添っていきたい。

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に穂村弘*22。「降りかかる」すなわち散っている「花」は短歌の中ということも考えあわせればまず桜で、桜の白い花びらが降りかかった「髪」には白髪のイメージが重なります*23。肩ではなく「背中に」降ることも「ふたり」の背中が曲がっていることを示しており、してみれば、「キバ」をむき出すふたりはいつのまにか、櫻下の老鬼と化しているのかもしれません*24。こうしてよそごとが花吹雪に紛れ、夢のように歳をとっているといいのですけれど、結婚は多分、そういう責任感でやるものではないですね。うーん、結婚式のイメージが湧かない。

Day 15: A song you like that's a cover by another artist

「好きなカバーソング」。本歌取りの名作でもあげればいいのかもしれませんが、あいにくと知識がありません。

 おぼろ月夜にるものぞなき(朧月夜/紫式部源氏物語』)*25。原歌は〈照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき〉(大江千里)で、これ自体白居易の詩句の翻案とされますがさておき。『源氏物語』において、一人の女性がこの歌を口ずさみながら主人公と読者のまえに現れるのですが、そこでは原歌の〈く〉が「似る」に変わっています。漢文調のしかつめらしい語彙である〈如く〉が発話者のかわいらしい印象を損なうことを嫌ったためだと考えられて、作者とはそこまで統御しきる生き物かとちょっと慄然とさせられるカバーです。現実の作者が日記において〈日本紀の御局〉なるあだ名に示した拒否反応なども思い合わせ。

Day 16: A song that's a classic favorite

 元のお題はいわゆるクラシック音楽(classical music)とは関係がなく、「定番のお気に入り」といったところのようです。しかしそもそも他の選が孫引き頼りの定番だらけ、今更の感がぬぐえないので我田に水を引きまして、古典をもてあそぶ気に入りの歌を。以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ安永蕗子*26。上句に引かれているのは慈円愚管抄』ということです。

Day 17: A song you'd sing a duet with someone on karaoke

「カラオケでデュエットしたい歌」。短歌の場合だと、他人と自分の解釈を交錯させたい歌、という感じでしょうか。むー。アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました斉藤斎藤*27、という選択は何か、デュエットというものを根本的に勘違いしている気配がないでもないです。そういえばカラオケでデュエットした経験がない。今もここには喋る人間が一人しかいないから、人ではなくて歌の方にデュエットしてもらうしかなくて、たとえば〈クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ〉(佐クマサトシ)*28はこの歌とデュエットするべきではないでしょうか。そういえば1首目は斉藤と斎藤がデュエットしているような作者名が付されていますし2首目も「クリスマス・ソングが好きだ」と「クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ」のデュエットみたいではないですか。今のは全部嘘です。

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ〉は一字空けで切れた二つの文が並んでいる歌で、前提を置かないとするとそれぞれの文の発話者は違うと考えることも可能だけれど、短歌という短い定型の凝集力は全体に一人の発話者を設けさせがちだし、少なくともこの歌はその構造に依って面白くなっている歌だと思います。二つの文が一人に帰属したときの飲み口は平岡直子が「これはどちらも真実なのだろう」そして「ここにある「好き」も「嘘」もかなり儚いテンションなのだと思う」と述べているとおりです*29

 それで、〈アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました〉という文は真実でしょうか、真実ではないでしょうか。丁寧文末は発話者が対手を意識している証拠ですから当然表出には応じた歪みが発生していますし、「こころのじゅんび」という殊更なひらがな表記や句読点は、言葉という媒体を前景化することで読者に真意と表出の乖離を印象づけています。しかし乖離があるからといって真意を表出の対蹠点に位置づけるのは短絡で、表出に常に真意からの乖離があることは、己を代議するという擬制の前提ではないでしょうか。してみればひらがな表記を、乖離にとまどいつつもその擬制を「今、」引き受けると決意したまごころの表れとする解釈も、揶揄と取る解釈と同じだけの権利を主張できるでしょう*30

 こうして両立しがたい解釈をデュエットしているうちに、しがたかったはずのものがいつのまにか一人の口に帰属しているような、一つの穴から出てきているような、言葉の出てくるその穴からあわてて目を引くとその周りにあるはずの顔もなんだかただの穴のような、顔はどこにいったのか、しかしそもそもカラオケとは、なぜだか自分のものでない歌が歌われつづけている場だったような気もします。

Day 18: A song from the year you were born

「生まれた年の歌」。年の判断はDay 13に同じ。

 形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり(大口玲子)*31。感情表現の語でありながら文法事項の例示として、内実をもたないまま鍵括弧にくくられた──「言は」されたものであること、そして固有性を奪われる「二度」の繰り返しが状況からの言葉の遊離を印象づけます──「さびしかった」を中心に、事態の伝達に徹する文体が大きな効果を上げています。英語系の名で呼ばれる「ルーシー」はおそらく母語ではない日本語を飲み込む途上であり、もちろん語り手もLucyを長音符号2つのどこか間抜けなアクセント「ルーシー」に落とし込むしかない。二人のあいだでうわつく言葉を、だからこそ事態の伝達のための即物的な使役に抑え込まねばならない。でもそうですね、この歌にある教え教わるという出来事を、やっぱり冗長性で希望なのだと思ったっていいのじゃないでしょうか。

Day 19: A song that makes you think about life

「人生について考えさせる歌」。むー。

 ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーもできる!(初谷むい)*32。連作「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」掉尾の一篇。

 人生のよくない点として、楽には死ねず長く苦しむことになるというのがあります*33ジュンク堂から追い出されたらもう終わりでいいじゃんとか思うのですが割とまだ頑張らないといけない。

 この歌の「まあ地球」は、直後で一旦文を切り〈ジュンク堂を追い出されても、まあ私のいるところは地球ではある。〉の意味と解することも可能でしょうが、個人的には後続の言葉と一文と捉え〈ジュンク堂を追い出されても、まあいま私のいる地球というところには重力があるのだし、〉の意味だと解しています。ここには地球がよいところだと前提するのとは異なるフラットな態度と、にもかかわらず圧倒的に薄弱な根拠で地球を褒めてしまう箍の外れかたがあって、「にもかかわらず」と云いましたが実のところ後者に見られる初期化されたような期待の欠落と前者に見られる無帰属性は同じものの二つの表れです。それに楽観主義オプティミスム悲観主義ペシミスムどちらの名札を貼りつけるにせよ、札など意味を成さない、生きつづけねばならないことの「路ちゅー」的な露骨さに呆然としてしまうのでした。

Day 20: A song that has many meanings to you

「自分にとって多くの意味をもつ歌」。このお題で想定されているのは、歌が享受者にとって何かの契機になった(たとえば新ジャンルへの導きとなった)とか、あるいは人生の折々に歌を反芻した結果実人生のさまざまな出来事と観念上連合したとかいった、歌の外部における意味付与だと思うのですが、そういう享受をあまりしないので、純粋に複数の解釈をしてしまう歌を挙げます。

 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた(齋藤史)*34。「子守うた」は字義どおり子を守る歌と理解するのが正しい、と今では思います。でも学校の教科書で初めて読んだときの私にとって、「子守うた」とは多分何の疑問もなく、眠らせるための、子供の目を閉ざすための歌でした。己が「うた」が「子」の目を「暴力」に閉じさせることを歌う「うた」、だと思ったのです。そういう理解の失礼な偏向が私の目にはずっと巣食っている気がします。

 まったく違った意味で、〈みじかかる夢さめぎはにきこえくる他界の我のうすわらふこゑ〉*35なども、なんだか二つの読み方をしてしまう歌です。「さめぎは」は覚める間際、直前ですから、語り手はまだ夢の中にいることになります。してみれば「他界の我」とは案外、夢の外で笑っている現し身の我ではないでしょうか。

Day 21: A song you like with a person's name in the title

「タイトルに人名を含む好きな歌」。しまった、虚子の忌の喋る稲畑汀子かな(関悦史)が最初に浮かんでしまった*36。短歌だと〈ウエディングドレス屋のショーウインドウにヘレン・ケラーの無数の指紋〉(穂村弘*37などが浮かびますが、天啓を優先します。

Day 22: A song that moves you forward

「自分を前に進める歌」。生きてきて意識して前進した記憶がないのでなかなか難しいです。

 おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ(フラワーしげる*38。まず正体不明の存在として登場する語り手、自分を知らず正体を問うてくる人に名乗るところらしいのに不躾な人称を崩さない「おれ」の傍若無人さは、自分を「存在しない」存在だとする理不尽な宣言によって頂点に達し、けれどもそこから転調していきます。「おまえ」を上位から弄ぶかに見えた「おれ」は、自分を「おまえ」の先行する生に依存する、より幼い「弟」として位置づけるのです。さらに「おれ」は「ルルとパブロン」、即ち人をなんとか支えるために消尽される市販の風邪薬として己の組成を語り直します。3音・7音・7音・5音・8音・7音と次第に57577の定型に収まっていく構成も、「おれ」が次第にその奉仕的な本質を開示していく様と呼応しているようです。

 しかしなぜ「存在しない」のか。そもそも「存在」する弟ならこれほど都合はよくないはずで、「おまえ」と呼ばれる私に依存する彼は、やはり私に造られたものなのでしょう。市販の無機物では満たされなくて乱暴口調の「獣」の命を幼稚な継ぎはぎで仮構したくせに、結局要素として私を労わる「ルルとパブロン」しか認めず人と扱わない。なんならそんな私の仮構こそが「存在」していた弟を「存在しない」ものに変質させているのではないかという疑念さえ頭をよぎりますが、それでも私は身勝手に、いつか、思い出せないほど疎遠になれた私の仮構フィクションが一人の風邪の夜にやってきてくれるところを想像して、支えられてしまうのです。

Day 23: A song you think everybody should listen to

「みんな聴いた方がいいと思う歌」。あと絶えて幾重も霞め深く我が世をうぢ山の奥の麓に式子内親王*39。同作者の〈霞とも花ともいはじ春の色むなしき空にまづしるきかな〉なども季節に対するしらじらとした厭悪が感じられてすさまじい*40

Day 24: A song by a band you wish were still together

「今も続いていてほしかったバンドの歌」。共同制作は贈答歌や連歌の昔から短歌にしばしば見られるようですが、基本的に、固定メンバーを活動単位とするバンドよりも一過性を重視したセッションに近い印象です*41。よってバンド、まして解散してしまったバンドにあたるものは一向に思い当たりませんが、だからといって〈みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム〉(笹井宏之)*42をあげるのも違う気がするので、無理筋ながら。

 短歌にまつわって共同制作的な面白さが最も発揮されやすいのは、短歌を持ち寄りその一首ずつについて話し合う歌会の場における会話ではないかと思います。その話を経て変質した歌の、半ばは横領的でもあり得る共同制作性。というわけで思いっきりセッション的なものですが、最近触れた歌会記録から、窓A 窓B 窓C どこからも尾が見えてるイルカ(温)*43。この歌会記録は鈴木ちはねが異常に面白いです。最初の「よろしくお願いします。」以外の全ての発言が面白い。

Day 25: A song you like by an artist no longer living

「死んでしまったアーティストの好きな歌」。お題はなんとなく、生前を知っているアーティストを指すような気がしますが、私の場合歌を知ってから逝去したのは岡井隆くらいです……べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊(永井陽子)*44

Day 26: A song that makes you want to fall in love

「恋したくなる歌」。大学の北と南に住んでいて会っても会っても影絵のようだ(大森静佳)*45。会いたさに実際の逢瀬が間に合っていない歌なのだと思います。多分恋着を罪より罰と感じるほうが私に馴染むのです。

Day 27: A song that breaks your heart

「胸が張り裂ける歌」。

 先に選んでしまったDay 10「悲しくなる歌」との違いは、きちんと設定できていないですが。とどめおきてたれをあはれとおもふらんはまさるらんはまさりけり和泉式部*46。〈逝ってしまった娘、あの子はいま誰を遺してすまないと思っているのだろう。母親の私などよりも、娘自身の子たちのことをおもっているのだろうね。私も、他の誰よりもあの子との死別が、もうずっとつらかったのだ。〉

 哀傷歌であって、けれども愛する人が煙と消えたのが問題ではないところに、作者の奇抜な論理があります。過去推量ではなく現在推量の助動詞「らん」は、娘が消えたどころか、幽明境を異にしながら今も愛執に囚われて在ることを示す。けれどもその原因は自分ではない、というのです。今この瞬間も、所謂死に別れた人の視線は、私ではない者に注がれている。語り手が他の愛をすべて切り捨て「まさ」る思いを証せば証すほど、構図上の﹅﹅﹅﹅必然﹅﹅として﹅﹅﹅、その人の愛もまた自分を切り捨て逸れていく。もはや死に分かたれたと称することすら、あらかじめ与えられなかった権利として。和泉式部による片恋の歌の最高傑作。

Day 28: A song by an artist whose voice you love

「声の好きな歌手の歌」。歌唱に対する無知ゆえかも知れませんが、声が好きであることは、歌い方が好きであることとは区別されるように思います。そして個人的には、短歌はその短さから例えば散文に比べても、内容と切り離せない言い方の問題に回収されがちで、「声」を取り出すことが困難なのではないかとも感じます*47。それでも声というものを短歌に感じるとすれば。

 ひきよせて寄り添ふごとくししかば声も立てなくくづをれて伏す宮柊二*48。人を刺し殺すという事態の非情さを、句跨りもない定型の完璧な遵守、Day 18にも通じる事態伝達の文体に載せた、言い方短歌の極致。一見メッセージの伝達に全霊を費やすこの歌に、けれども声を感じるのは、四句目の「立てなく」のためです。つまり〈立てずに〉ではないということ。強いて言い方の問題に還元すれば、死地の表現にあたり句間を生ぬるく繋げてしまう〈立てずに〉を退けたと云えるかもしれませんが、多分単に漢文脈の素養から来る癖じゃないかと思います。〈立てずに〉でもこの歌の伝達は成立していて、それでも「立てなく」でしかありえないなら、それこそが声ではないでしょうか。同作者〈目にまもりただにるなり仕事場にたまる胡粉の白き塵のかさ*49のとても「ただに坐る」とは思えないかっちりした上句、また〈かなしみのきわまるときしさまざまに物象ちてかんの虹ある〉*50の坪野哲久などにも類似の声を感じます。トキシ! ブッショータチテカンノニジアル! かっこい~。

Day 29: A song you remember from your childhood

「子供時代の歌からひとつ」。私の場合短歌でやると、Day 12と同じく百人一首以外の選択肢がなくなってしまいますね……おほけなくうきたみにおほふかなわがたつそま墨染すみぞめそで(前大僧正慈円*51

 耽美主義や芸術至上主義の自称をとっさに疑ってしまうのはしばしば自分で自分の価値をずらしとしてしか信じていないように聞こえるからです。かえって直ぐなる正しさの追求のほうに他の箍を失くした異様さがちらつくことがあって、この歌にもその気配があります*52。言挙げの歌でありながら、長音「おほ」の悠揚たる繰り返しと墨がもたらすモノクロームの視界が、奮起や陶酔を置き去りにして、ただ冷え冷えと、人より大きい何かにならねばならぬからなろうと思い、他人や世界から異論があるなどと思ってもいない真顔を写し取るのです。

Day 30: A song that reminds you of yourself

 最後、「自分を想起させる歌」。歌にとってはいい迷惑ですね。

 まがごとをもたらさむひとどもりつつ國語あやふくあやつるふゆよ吉田隼人*53。禍事をもたらすのが禍言だとして、禍言を高度に練り上げられた呪詛だと思い描くのは詩人たちの過信なのかもしれません。練られた言葉のほうが多くを変えるという過信、あるいは誠意を込めなければ世界は壊れないという過信。凡庸に穴だらけで寸法の狂った私の言葉は、だからこそ粗雑な力を帯びて禍事に寄与していく。なのに話をいつまでもやめないのは何故でしょう。

*1:穂村弘=選「短歌」池澤夏樹=個人編集『日本文学全集29 近現代詩歌』河出書房新社、2016年、258頁。

*2:永井祐「日本の中でたのしく暮らす」『歌集 日本の中でたのしく暮らす』BookPark、2012年、38頁。

*3:小高賢=編著『現代短歌の鑑賞101』新書館、1999年、101頁。穂村選前掲書302頁にも旧字体表記で掲載。

*4:穂村弘「〈読み〉の違いのことなど」『短歌の友人』河出文庫、2011年、181頁。

*5:売野機子「夫のイヤホン」『売野機子のハート・ビート』祥伝社、2017年。

*6:平岡直子「記憶を頬のようにさわって」『歌集 みじかい髪も長い髪も炎』本阿弥書店、2021年、16頁。

*7:穂村弘『短歌という爆弾 今すぐ歌人になりたいあなたのために』小学館文庫、2013年、180頁。

*8:石川美南「大熊猫夜間歩行」『歌集 裏島ura-shima』本阿弥書店、2011年、93頁。

*9:山田航=編著『桜前線開架宣言 Born After 1970 現代短歌日本代表』左右社、2015年、245頁。個人歌集で連作中の一首として読むとまた異なる印象かと思います。藪内亮輔「ラブ」『歌集 海蛇と珊瑚』KADOKAWA、2018年、192頁。

*10:穂村弘、山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社、2012年、206頁。

*11:永田和宏『現代秀歌』岩波新書、2014年、47頁。

*12:穂村弘=選「短歌」225頁。

*13:川野芽生「火想」『歌集 Lilith』書肆侃侃房、2020年、137頁。

*14:山口茂吉、柴生田稔、佐藤佐太郎=編『斎藤茂吉歌集』岩波文庫、1958年・1978年改版、36頁。

*15:短歌定型が現代人にもたらす印象を、俳句の対称性との比較において巧みに言い表しているのは高橋睦郎です。俳句が五七五のシンメトリな詩型であるのに対し、「短歌は五七五七七で、内側に収斂しないで外に開いている」「五七五で「別れてやる!」というのが俳句なら、下の句七七で「……でも別れられない」というのが短歌、だから俳句は決断の詩型、これに対して短歌は未練の詩型」。高橋睦郎「沈黙に学ぶ」『俳句』2014年10月号、KADOKAWA、97頁及び98頁。

*16:花山周子「鉛筆の味」『歌集 風とマルス青磁社、2014年、28頁。もっとも、凝視というにはあえて解像度を下げたような身体的時空把握表現の技法は、破調の取り込みも含め、むしろたとえば森岡貞香と並べるほうが自然かもしれません。〈けれども、と言ひさしてわがいくばくか空間のごときを得たりき〉(森岡貞香)。小高前掲書37頁。

*17:小池昌代=訳「百人一首池澤夏樹=個人編集『日本文学全集02 口訳万葉集 百人一首 新々百人一首河出書房新社、2015年、125頁。

*18:『とれたての短歌です。』『もうひとつの恋』。

*19:「昭和四〇年代後半の歌の内向化傾向を指して、篠弘が名づけたことば」(沢口芙美「微視的観念の小世界」『岩波現代短歌辞典 デスク版』岩波書店、1999年、548頁)。小説の世界にも〈内向の世代〉という語があったそうですが、対応しているのでしょうか。なお、70年代から80年代には「女性短歌の再考を試みた歌人たち」が登場したとの指摘もあります。瀬戸夏子「前衛短歌」『はつなつみずうみ分光器 after 2000 現代短歌クロニクル』左右社、2021年、177頁。

*20:小高前掲書103頁。

*21:大森静佳「M・M」『新版 歌集 てのひらを燃やす』KADOKAWA、2018年、52頁。

*22:穂村弘「シンジケート」『シンジケート』沖積社、2012年重版、19頁。

*23:言葉のうえでは「八重歯」から〈八重桜〉への連想も働きます。もっとも八重桜の場合花びらひとひらごとに散るのではなくまとまって落ちるような気がしますし、色も個人的には白より濃いイメージがありますので、実景として整合的なわけではないでしょう。

*24:

「その人たち、ぼくをどうするの?」

[中略]

「小さな男の子も、小さな女の子もきらいなの。だけどね、小さな女の子は食べて﹅﹅﹅しまうのよ」

「エセル、やめて。子供たちがこわがってるわ。ほんとじゃないのよ、ちびちゃんたち。からかってるだけなの」

「その人たちはね、夜しか外へ出てこないの」悪い女は、よこしまな目で子供たちを見た。「暗くなると、小さな子供たちをさらいにいくのよ」

シャーリイ・ジャクスン=著、市田泉=訳『ずっとお城で暮らしてる』創元推理文庫、2007年初版・2010年5版、237頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

*25:花宴はなのえん」柳井滋、室伏信助、大朝雄二、鈴木日出男、藤井貞和今西祐一郎=校注『源氏物語(二) 紅葉賀—明石』岩波文庫、2017年、96頁。

*26:小高前掲書46頁。

*27:斉藤斎藤「「ありがとう」」『渡辺のわたし 新装版』港の人、2016年、74頁。

*28:佐クマサトシ「vignette」ウェブサイト「TOM」、2017年。

*29:砂子屋書房のウェブサイトの連載「日々のクオリア2018年2月9日の回

*30:

権力への「抵抗」が即「死」につながりうる状況下において、それは彼らが示しうる最大の「抵抗」であったことは間違いない。しかしそれゆえに、権力側からは容易に利用されることとなった。彼らが身をもって示したのは、そのような逆説であり「偉大な敗北」という悲劇であり「イロニー」であった。

石川公彌子「第五章 保田與重郎の思想」川久保剛、星山京子、石川公彌子『叢書 新文明学3 方法としての国学──江戸後期・近代・戦後』北樹出版、2016年、121頁。

*31:小高賢=編著『現代の歌人140』新書館、2009年、276頁。

*32:初谷むい「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」『花は泡、そこにいたって会いたいよ』書肆侃侃房、2018年、34頁。

*33:〈メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい〉平岡直子「東京に素直」『歌集 みじかい髪も長い髪も炎』9頁。

*34:穂村弘=選「短歌」266頁。なお作者名について字体を変更しました。次注の書名についても同様です。

*35:『改訂版齋藤史歌集 齋藤史自選』不識文庫、2001年、114頁。

*36:関悦史「襞」筑紫磐井対馬康子、高山れおな=編『セレクション俳人 プラス 新撰21』邑書林、2009年、238頁。のち個人句集『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林、2011年、48頁。

*37:『世界中が夕焼け』55頁。

*38:東直子佐藤弓生、千葉聡=編著『短歌タイムカプセル』書肆侃侃房、2018年、186頁。

*39:馬場あき子『式子内親王ちくま学芸文庫、1992年、127頁。

*40:同137頁。

*41:未読ですが『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』の岡野大嗣と木下龍也などはバンドに近いのかもしれません。なお短歌そのものを複数名で制作するに限らず、注18で挙げた俵万智浅井慎平のような異ジャンル間の共作もバンドに類比し得ると思います。

*42:『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』PARCO出版、2011年、119頁。

*43:うたポル歌会記―加賀田優子、鈴木ちはね、温(2022年6月1日) – うたとポルスカ

*44:小高賢=編著『現代短歌の鑑賞101』166頁。

*45:大森静佳「一行の影絵」『新版 歌集 てのひらを燃やす』42頁。

*46:久保田淳、平田喜信=校注『後拾遺和歌集岩波文庫、2019年、286頁。ただし原文は反復記号を用いています。

*47:この点について、ソーシャル・ネットワーキング・サービスTwitterにおいて鈴木ちはねが2021年12月2日1時22分以降行った一連の発言は非常に示唆的な異見です。当記事の視野は、いくつかの歌についてはむしろ意味を損ないかねないほど、意味とそのレトリックに偏しているようです。

定型詩のいいところは意味(何を)やレトリック(どのように)に依存せずに、定型それ自体によって成立しうるところだと思うのだけど、みんなそのことにあんまり気づいてないのかもしれないと最近は感じている。

もう少し踏み込むと、(定型)が第三項ではなくレトリックの一種として処理されてる場合が多いのでは? という印象がある。たとえば句跨りの効果がどうとか字余りの効果がどうみたいな話になるときに、(何を)と(定型)の間の相互作用が(何を)と(どのように)の関係として捉えられがちなのではという説。

*48:穂村弘=選「短歌」270頁。

*49:小高前掲書24頁。

*50:小高前掲書17頁。

*51:小池訳前掲書245頁。

*52:Day 16の歌に引かれた『愚管抄』の文言も、元は当代までの歴史を説く理由を〈「保元以後ノコトハミナ亂世ニテ侍レバ」よくない事例とのみ思って人々が歴史を書き置かないのは浅慮であって、よくよく考えれば誠に話が通っていると分かるものを、気づかないで道理に背くことばかり志すから世が鎮まらないのだ〉と述べている箇所ですから、慈円自身は乱世を乱世と呼んで済ませる怠惰を否定し、正しさを追求しているわけです。岡見正雄、赤松俊秀=校注『日本古典文学大系86 愚管抄岩波書店、1967年、129頁。

*53:吉田隼人「流砂海岸」『忘却のための試論』書肆侃侃房、2015年、120頁。

私をつくった10冊あるいは10節

 どれほど違いがあるかは別にして、題に従うなら〈最愛の〉でも〈お勧めの〉でも(どうやら〈私をつくる〉でも)ないらしい点は一応触れておきます。冊子形態にこだわらない点を除き、できるだけ題に即したつもりです。有用性は仮想二題の方が高いでしょうが、つまるところ私の関心は、私の、私に映る世界の、私の読み方の機序なのだと思います。

 

1.宮沢賢治ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記

〔冒頭原稿数枚焼失〕のでした。*1

 言葉が自律した物体オブジェだと教えられるのは、言葉と読者わたしがいつかそれぞれの仕方で筆者を裏切ると教えられることでもありました。もちろんあるいは、読者を、言葉を、他の者たちが。友人とは他人で、つまりは裏切る存在ということになります。裏切らない存在をどうして友と呼べるでしょう?

2.笈川かおる『学習漫画 世界の歴史11 市民革命とナポレオン』

だれもあなたに感謝かんしゃしないだろう あなたはみんなをまちがった方向ほうこうへつれてきた

このくにはいま絶望的ぜつぼうてきだ こんなものがあなたの理想りそうだったのか*2

 世界史学習漫画シリーズの一冊。当然ナポレオンが、けれどもこの漫画のロベスピエールとなによりクロムウェルが、こう口にすることが許されるなら、好きでした。神の手として理想の実現に努めた生涯を感謝しながら息を引き取るクロムウェル、その枕辺でなされる如上の独白が、呪いとしてずっと私の耳を魅了しているのだと思います。おまえは必ず間違っている、と。

3.速水侑=監修『図説 あらすじで読む日本の仏様』

如来〉とは「真理の世界から来たもの」という意味のサンスクリット語、タターガタの訳で、「真理に目覚めたもの」を意味するブッダ仏陀、仏)と同義。飛鳥時代には釈迦如来薬師やくし如来阿弥陀あみだ如来が知られていた。

〈菩薩〉はサンスクリット語のボーディサットヴァの音写〈菩提薩埵ぼだいさった〉の略で、「如来のさとりをもとめるもの、如来となる資格をそなえたもの」を意味する。*3

 各見開き二頁に来歴逸話を圧縮展開し入退場していく仏たちがもたらす、ボルヘス的な要約あらすじマジックリアリズム。真理を言葉で指示しようという試みが言葉の指すものとして言葉を据えるに至る転倒執着フェティシズム。言葉とともにあって全てがエキゾチックに見えるようになったのは、実はこの易しい百頁余りのムック本のせいだったのでしょうか。

4.舞城王太郎ディスコ探偵水曜日

世界は人の信じるように在り、その世界観は絶えず他人によって影響され、揺らいでいる。*4

 卓越した個人の信念が世界を捻じまげる、というのはクロムウェルの主題でしたし、相互に侵食する個人の意志たちのうちにやがて奇怪な実体が幻出し場を支配する、というのはロベスピエールの主題です。そして両者を包含して、観念の(文芸の、といっても構いません)現実に対する優越を問うのが推理小説、ということになります。かかる主題を露わに説いてくれたのがこの危うく偏執的な、しかし紛れもなく希望を叫びつづける小説だったのは、きっと私にとって幸運なことでした。

5.倉橋由美子パルタイ

あなたは眼鏡を光らせすぎるので、そのむこうにある肉眼の表情がわたしにはよくみえない。あなたの歯ががちがちと鳴るのは、できのわるいガイコツの咬合こうごうをみるようであり、あなたは不自然なほど興奮していたにちがいない。わたしはおもわず動物的な笑いをもらした。*5

 知人の私に対する評で記憶しているものが二つあるのですが、その一つは私の言語作品に対する〈体の部品が散らばっていて理科室のようだ〉という言葉でした。思えば倉橋から私が学んだもののひとつの顕著なあらわれなのでしょう。このエキゾチックな世界を随分生きやすくしてくれました。

6.朱天心『古都』

 時速一〇〇キロのスピードで関渡口クワントゥーコンの参道口を突き抜けると、大きな河が眼前に広がる。そのたびにあなたたちは妙に感動して、深々と川風を吸いこんだりしながら、初めてここに来た友だちにこう言うのだった。「どう、長江に似てるでしょ?」*6

 台北に暮らすあなたも友だちも、多分長江を見たことはないはずです。台北から長江や地中海を透かし見て、京都から台北を透かし見て、触れられない彼方を透かし見ていた過去をいま魔法のように透かし見て。世界を豊かにする引用の手法は、けれどもあなたを現在地から削ぎ落としてしまう租界の迷路のようでもあって、見たことのないあなたの日々の追憶をこんなに感じてしまうのは、何かがおかしいのではないでしょうか。

7.『日本幻想文学集成16 吉田健一

その向うの町角に石の建物が突き出てゐてそれとこつち側の石の建物に挟まれてそこから曲る別な道の入り口が見えるのはその午後の光でも曇つた空の下に雨に打たれてゐる静寂に包まれた眺めだつた。*7

 冗談を真顔で告げることがコメディアンの要件だとすれば、書き手でいることはコメディアンたるための顕著な近道です。そしてコメディアンでいることが、真顔ではできないくらい真面目な話を真顔で告げるための、唯一の手立てになることもあります。

8.フリードリヒ・ハイエク『隷属への道』

個人主義哲学は、通常言われているように、「人間は利己的でありまたそうあらねばならぬ」ということを前提としているのではなく、一つの議論の余地のない事実から出発するのである。それは、人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分にすぎないということである。*8

 欠陥を手掛かりにそれを包容する規範を導くことはきっと当たり前の営みなのですが、それにしたって、分からないという諦念のはずのものがいつのまにか確定的ポジティブな主張にさえ見えている様は手品のようで、衝撃を受けました。

9.野尻英一「美と弁証法

一方で、おそらく子供の頃は、桜の花などにさして興味もなかったし、抒情なども感じていなかった。もちろん生きている日々の暮らしの中で、たとえば小学生としての生活の中で、家庭でも学級でも、うれしいことや悲しいことがあり、感情の浮き沈みというものはある。それは桜の花とは別のところにある。けれども、桜の花は街や学校のあちこちに植えられて、そうした暮らしの中での感情の浮き沈みの経験と同時に、桜の花が毎年、悲しいことがあってもうれしいことがあっても、きっちりと咲くものは咲く、ということを見て、経験する。そこに周囲の大人の言う「やはり桜はきれいだな」という言葉が耳に入り、自分の中に概念的な固定がされる。そうすると、たとえ無意識的ではあっても、毎年の桜の花を見たときに経験していた感情的な浮き沈みが固定されて、蓄積される契機が生じる。すると、春になって桜が咲いたときには、われわれはもう目の前の桜を見ているだけなのではない。去年桜を見たときには自分は受験に失敗して暗い気持ちで桜を見ていたけれども、いまは晴れて大学生になってまた同じ桜を見ているだとか、ついこのあいだまでうちの子供も小さかったのに、いまはもうすっかり大きくなって一緒に桜を見ているだとか、桜を見るということに、記憶の重層性が伴ってくる。いま咲いている桜は去年見た桜と同じではない。同じではないがそれが概念の同一性によって重ねられる。*9

 知人の私に対する評でもう一つ記憶しているのが、〈お前のその、近いものを見比べて考えるという狂気に気づくと俺はビビるよ〉です。明確な形を与えてくれたのはこの文章なのだと思います。

10.牧野修『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』

 小さな話をいくつもいくつも私は書く。書き続ける。それは不能者の自慰なのか。いずれにしろ子をなさない快楽なのに間違いはない。発表の予定もなく、発表されたにしても喜ばれることのない小説だが、それでも私は書いた。書き続けた。小さな物語を語ることの、そして読むことの刹那刹那の、閃光のような快楽があれば、もしかしたら万に一つ、誰かが、それを美しいと言ってくれるかもしれないから。*10

 その後につづく真実悪趣味な短篇群に証されて一層の輝きを放ち続ける「病室にて」、それと「夜明け、彼は妄想よりきたる」。もしかしたら荒涼としているのかもしれませんが、これらこそ読み語る理由の最も端的な解明だと信じています。

 

【2023年2月19日:8.の「ポジティブ」を「確定的ポジティブ」に修正。】

*1:宮沢賢治ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」『ポラーノの広場新潮文庫、1995年、129頁。

*2:近藤和彦=監修、笈川かおる=漫画『全面新版/学習漫画 世界の歴史11  市民革命とナポレオン【イギリスとフランスの激動】』集英社、2002年、43頁。

*3:速水侑=監修『図説 あらすじで読む日本の仏様』青春出版社、2006年、6頁。

*4:舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』下巻、新潮文庫、2011年、127頁。太字部分は原文ゴシック体。

*5:倉橋由美子パルタイ」『パルタイ新潮文庫、1978年発行・2004年改版、8頁。

*6:朱天心=著、清水賢一郎=訳「古都」『古都』国書刊行会、2000年、13頁。

*7:吉田健一「酒の精」富士川義之=編『日本幻想文学集成16 吉田健一 饗宴』国書刊行会、1992年、142–143頁。

*8:F・A・ハイエク西山千明=訳『新版ハイエク全集第Ⅰ期別巻 隷属への道』春秋社、1992年初版・2008年新装版、74頁。

*9:野尻英一「美と弁証法」『美学文芸誌エスティーク』Vol. 1、日本美学研究所、2014年、105–106頁。

*10:牧野修「病室にて」『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』ハヤカワ文庫JA、2007年、14頁。

非現実より反現実を:中井英夫『幻想博物館』

【文章を生めず、また強いて生もうとしても取材の発想が言語に閉じ籠るので自分で辟易していたのだが、そういえば私には旧稿の転載という手段があったのを思い出して、久しぶりに転載する。書評対象は中井英夫『新装版 とらんぷ譚Ⅰ 幻想博物館』講談社文庫、2009年。「スタイリスト」という語は、中井がそう評されているのを見て私の語彙に加えてみた記憶があるが、いま本作や『虚無への供物』の文庫解説をめくっても直接には登場しておらず、出所が分からない。それと、とらんぷ譚の続篇については読まないままでいる。

 ところで後年、認識していなかった作者の伝記的事実を知り感じ入ったので記しておく。「一九四五年 昭和二十年 23歳 ……八月、腸チフスを発病、世田谷の陸軍病院へ入院。危篤状態となり敗戦を知らぬまま九月まで昏睡。十月退院。……」本多正一=編「中井英夫年譜」中井英夫『新装版 虚無への供物(下)』講談社文庫、2004年、451頁。三点リーダ部分は、引用者による省略を表す。】

 

 現世は夢、夜の夢こそまこと、とは江戸川乱歩の言葉だそうだが、さて当人がどんな作品を書いたかといえば非現実の幻想小説は個人的には覚えがない。彼は、分身の術より鏡を、夢よりパノラマ島を尊ぶ作家だったように見受けられる。乱歩は異世界のファンタジーより、もっぱら現実の夢性のほうに執着した。その作品は、幻想といってもファンタジーではなく妄想、異常心理と呼びたくなる香を放つ。
 乱歩からはるか洗練された中井英夫にも、あるいは同じことがいえるのかもしれない。「幻想博物館」と銘打たれた本短編集だが、幻想を非現実のファンタジーと同義と思って読むと戸惑うことになる。
 物語最初の舞台は、本書執筆と同じ一九七〇年頃、設備の行き届いた日本の精神病院。薔薇園を備えたこの病院に患者たちがいかにたどりついたかを院長が語る、という外枠を設え十三の幻想譚を収める(ただしこの設定は緩やかなもので、個々の短編は独立性が高い)。
 反現実を掲げる中井英夫だが、風俗への言及など同時代の日本を意識する。おそらくそこには「非現実」と「反現実」の微妙な差異がある。現実から単に逃避して虚に溺れるのではなく、現実さえも取り込みながら世界を丸ごと反転させること。虚実のあわいを辿ったすえに実をもまきこんで虚に転ずること。そこに作者の思惑があるのではないか。複数の収録作に顕著な推理小説志向も、非現実・非論理のまどろみに堕することをよしとしないスタイリストの性質ゆえだろう。そしてかかる中井の形式への執着が、本書に収めた十三編をトランプのスペエドになぞらえさせ、五十四話の連作〈とらんぷ譚〉に発展させていくことにつながる。
 このようなスタイリストぶりゆえに、収録作はまず、トリッキイで洒落たエンターテインメントとしての要請を満たしている。そのうえで「影の舞踏会」「地下街」などは非現実としても稀な完成度を誇る傑作だ。しかし、作者が本書に仕掛けた最大の幻想はおそらく最終話である。そこまで読んだとき、作者の反現実が現実の凝視と不可分に結びついていたことを深く納得した。

詞華集2(ナボコフ『ロリータ』)

「だめ。全く問題外。[中略]つまり──」

 彼女は言葉を探した。私は頭の中でその言葉を見つけてやった(「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人﹅﹅﹅なの。あなた﹅﹅﹅はあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」)。*1

  "No," she said, "it is quite out of the question. [...] I mean─"

  She groped for words. I supplied them mentally ("He broke my heart. You merely broke my life").*2

 ウラジーミル・ナボコフによる長篇小説『ロリータ』終盤の一節。物語展開を明かして『ロリータ』未読者の興を削ぐのは本意ではないが、大雑把に説明すれば、語り手ハンバート・ハンバートが虐待を加えていた愛する娘ドロレス・ヘイズに明るく拒まれ、別れることになる場面だ。

 山尾悠子風にいえば、一節の比重はもちろん括弧の外にある*3。「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたはあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」という言葉がいかに華麗でかつ的を射ていようと、重要なのはその台詞がドロレスは口にせずドロレスが知ることもない、ハンバートの言葉である点だ。一冊を通じてロリータというドロレス・ヘイズの歪んだ像を織りあげるのと相似して*4、ここでハンバートは湧き出づるまま、ドロレスの代わりに「言葉を見つけて」しまう。そしてその綺羅のすべらかな美しさがあるいは読者の目を奪い、実のところドロレス自身とは関係のない、ハンバートに言わされた﹅﹅﹅﹅﹅言葉の発話者としてのみロリータを記憶させることになるかもしれない。引用箇所ではまずそのように、言葉で他者を象る振る舞いの、他者の「人生をめちゃめちゃにし」かねない剣呑さが恐るべく簡素に放り出されている。

 けれども同時に、ここに読み取られるのは高所で盤石に言葉の主権を握る父権的態度パターナリズムとは限らない。この言葉がともかくも敗れ去ったハンバートの自嘲であることは間違いないし、それ以上に、ハンバートの言葉はもうずっと前から「頭の中」を出ていけなかった、誰にも汲みとってもらえなかったように思われるから。「まともな言葉でしゃべってよ」*5。その自閉を傲慢と呼ぶことはおそらく正しくて、けれども私はいつも、それを同時に孤独と呼ぶのをやめることができない*6

『ロリータ』の最初のかすかな鼓動を私が感じたのは、一九三九年の終わりか一九四〇年の初めで、場所はパリ、ちょうどひどい肋間神経痛に襲われて伏せっていたときのことである。記憶しているかぎりでは、最初の霊感の震えはどういうわけか新聞記事によって引き起こされたもので、その記事によれば、植物園の猿が何カ月も科学者によって訓練された後、動物としては初めて木炭を手にして絵を描いたというのだ。そのスケッチには、哀れな動物が入れられている檻の格子が描かれていた。*7

 作者による上記の回想を読んで、猿にまずハンバートを重ねてしまうのは、ハンバートがむしろドロレスの監禁犯である以上グロテスクな振る舞いであらざるを得ない。けれども言葉という彼の絢爛な織物はやはり、そのまま彼を「頭の中」に閉じ込める檻、それとも檻を把捉するための正確な写しだったように思われる。格子の向こうが見えず、他者の心に触れられないまま、人生ばかりめちゃめちゃにして。掲出部は私にとって、言葉を綴ることのそんな華麗と残酷と空虚を照らし出す『ロリータ』という書物の、ひとつの勘所なのだ。

*1:ウラジーミル・ナボコフ若島正=訳『ロリータ』新潮文庫、2006年、497頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

*2:いま私が引用しているのは表紙にMeredith Framptonによる静物画のあしらわれたPenguin Modern Classicsシリーズの一冊の279頁からで、この本自体には1995年Penguin BooksPublished、2015年Penguin Classicsから再刷Reprintedされた旨記されているが、インターネットを検索して出てくる書誌情報がそれらしくないのは不審だ。ISBNは978-0-141-18253-7となっている。

*3:

「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」という二行分かち書きのフレーズが「補遺」に出てくるが、比重はもちろん一行目のほうにある。

山尾悠子「自作解説」『増補 夢の遠近法 初期作品選』ちくま文庫、2014年、417頁。

*4:「歪んだ」という語それ自体には非難の意図を必ずしも込めていない。また戸籍名を実像と短絡するのも無論不適切で、国家権力の介入の産物を無標と見なすべきではないだろう。後者の論点は、以前の記事の特に注1のあたりで触れたこととおそらく通底する。

*5:『ロリータ』265頁。英文版では"Speak English"、149頁。

*6:私が明智抄の漫画を好きなのは、彼女の生む福島和子=フェアリィやエリザベート・フィスが、この傲慢と孤独を一身に負っているからだ。

*7:ナボコフ「『ロリータ』と題する書物について」『ロリータ』554頁。引用に際しルビ及び注を省略した。

韻文

考察のために色々復習してたときに思ったけど、ちとせストーリーコミュのこの辺の蘭子の言葉ってカッコの中で読んじゃダメな気がする。蘭子がここでちとせに伝えたいのは蘭子語の方だと思う。蘭子のアイドル観と言うか。

 人が韻文をやる理由が裸形で辿りなおされていて、はじめてこのツイートを見たときはちょっと感動してしまった*1*2

 辿りなおされていく道筋には大抵足を止めるべきものが落ちていて、私の場合、「ちとせに伝えたい」の辺りでとどまることになる。伝えるというのはしばしば、形を伝えることだったりする。それでもここで韻文は、目の前のひとりに(別にひとりでなくても構わないのだけれど)、即時に、何か思いと呼ぶべきものを伝えることが願われていて、私は言葉というと書かれた文章を想定してしまうのだけれど、書かれた言葉は本来的に間に合わないことを容認していて、いま物語はそういう諦めを蘭子の韻文に許さない。「さあ、我が手を掴むがよい!」という蘭子は直ちに掴まれたいに決まっており、だから〈伝える〉という語がまとう一方向性の先を晴らせば、この韻文は会話のために発されている、ということになる。

 そうして事実、蘭子の韻文を解しているかのようなちとせと蘭子は会話を続けていくのだけれど、やはり私をほのかに驚かせるのは、ちとせが自らは蘭子ようの韻文を用いず、蘭子もそれを当然のこととと受け容れている様子だ。二つの言葉が互いに介入せず、させずに会話は続く。ならばなぜ韻文を選ぶ必要があるのか、あるいは、それで受け止められていると信じられるのはなぜなのか*3。私は大体その辺りを歩いている。いつか私にも分かる日が来るといいと思う。

*1:このツイートの内容を押さえるためにはその言及対象への知識はさして必要ないようにも思われるし、そもそも私自身ここで言及されているゲームをプレイしたことがないのだけれど、念のため私の認識による背景情報を付記する。

 当該ツイートにおいて画像添付とともに言及されているのは、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ』中の物語群「ストーリーコミュ」の一つ「Story of Your Life」で、アイドルを続けるべきか迷っている主人公の黒埼ちとせに、同僚の神崎蘭子が呼びかける場面である。蘭子は「魔王」「闇の眷属」等と名乗り、ファンタジー的世界観や俗にいうゴスロリ趣味によって自己を表現しているアイドルだ。病弱で蘭子より年長のちとせは自らを吸血鬼と称しており、蘭子に好感を抱かれている。

 蘭子は日常会話においても、プレイヤーから「蘭子語」等と名指される比喩的な独特の言語表現を多用する。そこで物語中のテキストのみを表示する「ログ」と呼ばれる機能においては、蘭子の台詞の後ろにしばしば、ゲーム本篇では発声されていないより一般的な表現への置き換えが、括弧に入った形で補足されている。

 ツイートに添付されている画像は、上述の場面におけるログの画面を撮影したものである。たとえば蘭子はちとせに「まだ、私を必要として……? どうして……。」と問われて、「夜の闇のなか、《幻想》に生きる同士として。宿命を授かって生まれし者よ。闇の眷属として、その《力》を再び世界へ示すがいい!」と答えているが、ログはこの台詞が「仲間だもん! 私といっしょに歌ってください!」と置換可能である、と主張しているわけだ。

*2:ここで私は「韻文」の語を用いているが、語の本義に従う限り、蘭子の台詞は韻文ではない。詩と名指す方が穏当なのだろうが、あまりに親しまれた詩という名指しはしばしば言語意識を欠いた詩的イメージとの同一視に無防備であると思われて、あまり使いたくなかった。

通常なにげなく用いている「voie lactée」という表現[直訳すると「ミルク色の道」、天の川を指すフランス語]が、外国人の視点で二語に分解されるとき、指示対象とは異なるあるイメージが現れ、そのために伝達は一時的に中断する。とはいえ、注意しておこう、「詩的な」とそれこそナイーヴに形容される天の蔓やミルク色の道のイメージが、「詩の神秘」ないし「詩の鍵」なのではない。ブランショマラルメやポーランを介して接近する「詩」とは、そのような分かりやすいバシュラール的な「詩的イメージ」とはほど遠いものだ。「詩」は「詩的イメージ」に存するのではなく、「言語のショート・サーキット」という現象自体に存するのである。

郷原佳以「言語のショート・サーキット マラルメとポーランが出会う場所」『現代詩手帖特集版ブランショ2008 ブランショ 生誕100年──つぎの百年の文学のために』354頁。角括弧[]部分は引用者による注記。

 本当は私はそれを単にことばと呼んで済ませたい。けれどもそれではあまりうまく届かないようだ。修辞とかあやとか呼べばまだしも伝わるのだろうか。

*3:

十七世紀から二十世紀にわたり、マーサズ・ヴィニヤード島に孤立して暮らしていた人々は、その身のうちに耳の聞こえなくなる遺伝子を蓄えていた。島では音声言語と手話が同等に利用され、のちの聞き取り調査によれば、島の誰もが、自分の記憶する噂話うわさばなしが、口語を経由したものだったのか、手話を経由したものだったのか全く思い出せなかった。

円城塔『これはペンです』新潮文庫、2014年、52頁。