かつて書きあがらなかった記事たちの残骸をいくつか公開する。供養というか、執筆継続が生む追善によってのみこれらの記事は成仏できようところ、それを手放して楽になるために公開するのだから、ただの遺棄だとは思う。掲載順と執筆順は特に対応していない。
谷山浩子『ひとりでお帰り』を読みました。
ざっくり言って、谷山浩子の小説には、サンリオから出ていたファンタジック童話系統と、コバルト文庫から出ていた少女小説系統があります*1。前者についてはいくつか読んできたのですけれど、後者については実ははじめて読みます(ついでに言えば、コバルト文庫自体はじめて)。
かなり惹かれた部分もあったのですが(序盤になりますが飲酒シーンは蒙を啓かれました)、紙数の関係か結末が消化不良かな。具体的には、最後に友人のほうとの関係がほったらかしになる点が。
ただ、友人との関係を整頓すると、タイトルと連動している現状の結末が崩れてしまうような気もして難しい。あとがきの「この二年くらい、個人的にいろんなことがありました。これだけ派手に浮き沈みして、泣いたり笑ったり、悩んだり喜んだりできれば、人として生まれた甲斐もあるというものだと、つくづく思うような激動の二年間でした。」「なにしろ精神的な浮き沈みが続いていたので、どういう展開にするかずいぶん迷いました。」という言をみると、安易ですが、当時の谷山さんの実人生ともリンクしてのこの終幕なのだろうなと憶測されるところですし*2。
他に特筆すべき点として、絵がすごくいいです。スクリーントーンではなく硬質な線を細かく描きこむことで色づきを表す手法(カケアミというのか?)の清潔感が、一般に私の好みであるという面もあるのかもしれない。描き方だけでなく描いているものの選択も、たとえば作中に対応するシーンのない表紙イラストなんか、かなり正解ですね。結晶石なんか完全にオリジナルなモチーフなんだけど実に的確だと思う。
イラストレーターは眞部ルミさん。……いま調べていたら、「マナベウミ」としてこちらのウェブページに紹介がありますね。「トーンを使わずカケ網や点描を丹念に使って陰影を形成しながら主線の存在感を究極消してしまうその画風」という説明に、なるほど。着眼点は悪くなかったけれど、主線が消えてしまうところこそが私の好みの本筋か。惹かれる理由を探ろうとして楠本まきを連想したりもしたのだけれど、楠本まきのことも確かに、カニッツァの三角形じみた雪景色の美しさとして記憶している。そして私は実はオーブリー・ビアズリーがよく分からないのですが、主線に差があったわけですね。
それからコバルト文庫の谷山作品から、『きみが見ているサーカスの夢』のレビューが『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』に掲載されているらしいのも発見しました。見てみたいです*3。
余談1。既読の谷山作品のなかでベストは『ユキのバースデイシアター』です。ただいま思い返してみて、初読時に未収束の不満を感じた『少年・卵』は、それを前提に再読すると評価があがるような気がしますね。『日本幻想文学作家事典』ではたしか谷山の代表作として『猫森集会』と『少年・卵』が挙げられていたような気がして、幻想文学事典の嗜好としては何となくうなずかせるものがあるのでした*4。
余談2。今家内捜索をしたら、持っているはずの『悲しみの時計少女』が見つからない*5。なぜだ。
余談3。説明をすっぽかしていましたが、谷山浩子はシンガー・ソングライターで、本作と同題の歌「ひとりでお帰り」があります。名作です。「悲しみの時計少女」も。
日記(読むことと疲労について)
仕上がっていない記事の二つ目は、見かけたあるツイートとその受容に疑いをはさむものだ*6。
批判しようと思えば熟読する、繰り返し読むことになり、そのうち不意にそれまでの読みの準拠枠から外れて、自分がまったくあたらしい相貌をした言葉を眺めていることに気づく。これはときどき起こることで、思い出す限りだと私の場合だいたい三年に一度のペースで今回が三度目ではないか。別にそれだけの頻度で他者の言葉に対し好戦的にふるまうわけではなく(恥ずかしながら過去二回の熟読は必ずしも自発的なものではなかった)、〈批判的に読む〉とは〈吟味する〉くらいの意味にとってほしい。出会った文章をそうして舌で転がしていると、ある日、憑き物が落ちたように、自分の読みの姿勢が間違っていたのではないかと気づく。文意は自分の考えていたこととまったく異なるのではないかと。その気づきは、それまでの自分が阿呆らしく思えることを差し引いても(あるいはむしろそれゆえに)、快感である。けれども時間がかかる。どうもその文章のことを二週間や一ヶ月は考えて過ごさないと目が醒めない。憑き物が落ちるには一旦凝らないといけないのだ。
快感であり読んでいてよかったという気になる。けれども時間が湯水のように捨てられていく。それでいて、単に読み違い、つまり自分が焦点の置き方を誤っていたことに気づくだけなので、深度を得られるわけではなく、不思議に聞こえるかもしれないがどうやらさして応用が利かない。読みが深まるなら二週間や一ヶ月、もっと長いこともあるが、そのくらい捨てたとはいわない。さらに問題なのは、普通ひとは言葉をそう飴玉のようにしゃぶらないので、むしろ世間的には言葉はもっぱら読み違えられたものとしてこそ流通するように思われることだ。ツイートの文面は当初の意味とはまるで関係なく受け手の予断をたっぷり吸い込んでふくらみ、むしろふくらんだものとして世の中に影響を及ぼす。であれば当初の意味を〈正しく〉喝破したところで、言葉が発揮している機能はそのようではないのだから、受容について語るほうが誠実になりうる。その幽霊は実在するのかもしれないが、自分に見えているからと実在の意義を過信すべきではない。相手にしなければならないのは幽霊が見えない人たちなのだから。あるいは芸能人について語るとき我々は当然に像の流通の話をしているのであって、それを差しおいて実体につき熱弁するのは場違いだ*7。
きっと私はいわゆるオルタナティヴ・ファクトのほうへ足を踏みだしている*8。もちろん上記の主張は、言葉の受容が変化しないことも、自身が受容決定の局外者であることも意味しない。私たちは力の遂行者として言葉の意味が定まる場を形成するプレイヤーであり、他のプレイヤーの説得その他場を形成する作用によって〈正しい〉意味に覇権を獲らせるべく、行動することができる。けれどもある役割を意図的に遂行しようと思えばなおさら、自分の行動がいかなる作用を及ぼすか知るために、まず状況とりわけ他のプレイヤーを所与のものとして認めること──いわゆる、当為と区別して事実を把握すること──は不可欠になる。でなければ、他者を説得することはできない。つまるところ私は、事実についてであれ当為についてであれ、自身の把握の精度の低さと遅さに、そして何よりも、他者を説得する能力の無さに疲れている。
疲れているから何だというのだろう。疲れたからと放置することで形成される場から日常的にこうむる苦痛がある者は争いをやめることはできない。争いというとつねに社会全体の変革を掲げるもっぱら利他的なもののように聞かれることも多いけれど、その理解は一面的だ。心地よい空間に引き籠もることも、社会のなかから近しい人を選別して集め、身の周りに特別に歪んだ場をつくりだす行いである以上、外圧と争って場を形成する意図的行動のひとつの形にほかならない。また、さもなくば均されてしまっていただろう局所の歪みが存続し、微弱にではあれ周囲へ全体へと波及しうることまで考えれば、全体の変革においてさえ不可欠な一要素といって差し支えない*9。だから、人は争いつづけている。
谷山浩子「冷たい水の中を君と歩いていく」
それにしてもわたしが感じ入るのは、1番の終わりの歌詞だ。
あんまりそれがきれいなので 誰にも言葉はつうじない
〈言葉にできない〉でも〈言葉はとどかない〉でもなく、「言葉はつうじない」。些細な、作者も無意識なのかもしれないこの選択に、けれどもこのひとの深刻さがあらわれているように思う。
言葉とは、他者と共有される世界の解釈コードだ。言葉はふだん、世界をすきまなく表現できるかのようにふるまい、そしてわたしたちに、言葉を交わしあう他者にも世界が同じものとしてあらわれているかのように思いこませる。けれどもしばしば、ふと自分にとって解釈コードが失効し、世界が遠くなってしまうことはある。
その状態をどうとらえるか。〈とどかない〉のであれば、単に距離の問題だ。言葉自体は共有されており、両岸は同じ世界をたどっている。少なくとも、失効を意識してはいない。〈言葉にできない〉のであれば語り手は、人々に共有される解釈コードの裂け目に気づいてしまっている。口をあけた深淵のまえで立ち尽くしている。きっと多くのひとが、一時的にそこまではいける。一時的になるのは、その裂け目が日常のまどろみのうちにふたたび埋没するからというだけではなく、ひとはふつう深淵に耐えられないからだ。耐えられなくなって、人々のほう、言葉のほうへ戻ろうとして、それとも深淵に呑まれてしまう。
けれども、このひとはとどまる。その時間をゆく。「誰にも言葉はつうじない」。それが意味するのは、語り手が別の言葉をしゃべっているということだ。一時ではすまない長さを深淵のふちに立ちつづけ、いつかそのひとは独自の言語を編んでしまっている。
うたかたの夢に狂ってほろびることになんの悔いがあるだろう。
問題は、人はそう簡単にほろびるものではないということなのだ。
映画では、もうおばあさんになった安部定がインタビューを受けていた。
定さんは、あれほどの恋の後、老いるまで生きたのだ。
酔うことも狂うこともない、素面の日常を毎日毎日何十年も積み重ねたのだ。
おそろしいのは恋のはかなさなどではない。
人生なんてたちの悪い冗談だと言えるほど私は達観できず覚悟もできない。少なくとも今はまだ。
日常はこれほど強固で、一分一秒ずつしか刻まれていかないものなのだから。
酔い続けているには人生は長すぎる。
そして、それでも酔い続けているにはこの強固な現実に対峙できる強さが必要なのだ。*10
作品享受がどの立場からなされるかを論じたものとしては、少女漫画を例にとった泉信行「私たちの気付かない漫画のこと 第3回 主人公の視点「だけ」で感想が決まってしまうこと」がきわめて平易かつ示唆的である。
「少女漫画家には、イケメンだけじゃなく、美少女を描きたくてテーマを決めるタイプの人もいるんですよ」と説明すると、「それ本当に?」という反応をして、にわかには納得しない人っているんです。それも女性の漫画読者で、ですよ。
彼女らの思う少女漫画とは、「男子にときめくもの」であって、自然と「主人公の視点から男子を見る」、つまり(主人公への共感は求めても)「主人公を可愛がる視点にはならない」ものとして認識されているようでした。
少女漫画読者の感情移入先がヒロインであることを無自覚に前提した評を批判して、泉は読者の感情移入先がむしろヒロインを愛でるヒーローや女友達でありうること、さらには感情移入先が同時に複数でありうることを述べる(感情に限った話ではないため、泉が用いている「同化」という表現のほうが適切かもしれない。)。
泉はヒーローと女友達の区別には深入りしないが、この点をめぐり天乃忍『ラストゲーム』全11巻(白泉社、2012〜2016年刊)に言及したい。学生日常ラブコメディ少女漫画としてはおそらく画期的なことに、本作は書籍裏表紙記載のあらすじ紹介において、ヒロインの呼称が一貫して「九条」と名字呼び捨てなのである。ヒロイン自身やヒロインの女友達としての立場から享受する際、ヒロインは(あらすじ紹介にはやや用いにくいあだ名を除けば)もっぱら下の名前、もしくはさんづけで呼ばれることになろう。しかし『ラストゲーム』で多く視点人物を担うのはヒロインのため奮闘するヒーローであり、しかもいわゆる優男風ではない彼はヒロインを名字で呼び捨てる。さらにいえばヒロインの主要な女友達は一人しか登場せず、この友人は彼女を下の名前ではなくあだ名で呼ぶ。ヒロインの名字呼び捨ては、以上のような条件があわさってはじめて生じた現象だと考えられる。
感情同士の衝突あるいはふれあいに視線を注いでいる作者だという印象を受けた。登場人物はそれぞれがひとつの感情を湛えたかたまりとして配置され、それらがスパークする場面場面を作者は明晰な筆致で彫り込む。一方シーンをつなぐ物語的な理路や説明はかなり潔く省略されている。たとえば最終盤で九条と黒川(ナツ)が対峙するシーンについて、両者の集結が故意か偶然か、黒川がいかにして九条の所業を知っているのか、説明する必要を作者は認めない。作中人物としての知識その他の制約を捨象され、ほとんど、読者と同じ地平の思想闘争における二つの観念の代理人そのもののように斬りつけ合う二人の姿は、どこかアレゴリカルな道徳劇の気配さえ漂わせている。
私自身は物語作品を享受する際、まずは登場人物の行動が作中世界の事物に対する反応として描かれることを想定する*11。もちろんある事象に対し如何なる反応を示すかは人によりさまざまだし、同一人においてすらその出力函数には一般に気まぐれと呼ばれる確率変数が仕込まれているものだから、反応の経路を一意に定めるつもりはない。けれども如何なる径路にせよ、反応の連鎖、いわゆる筋、をたどることが物語をたどることだという感覚はあり、勢い作中事象の整合性や根拠探しに気をとられがちになる。
身も蓋もないいえばつじつまを合わせる
つじつま合わせは馬鹿にしたものではなくて、作中事象に自律的な生起の外貌を与え、迫真性を高める効果があるだろう。しかしでは『魚の見る夢』は迫真性を手放している
犠牲にしているのかといえば、
内的真実を。毀損したくない。最上のもの。説得。
私とは別様の詩学。
他方にあるたとえば峰浪りょうによる長篇漫画『ヒメゴト~十九歳の制服~』はその論理性への。思い当たる。一例といえるだろう。(形而下的な意味での整合性)。そして、仲谷鳰『やがて君になる』
自分の生むものに価値はあるのか、という問い(椎名うみインタビュー)
先日やっと椎名うみの連載長篇漫画『青野くんに触りたいから死にたい』の既刊全7巻を読むことができた*12。連載開始直後から話題になっていた作品だと思うが、私自身はその題名から、あまり趣味の合わない様式に依存した作品ではないかという偏見を抱いており、しばらく読まないままでいた*13。のちに新古書店で第1巻を立ち読みしてそのなんというか、武骨なまでの危うい力づよさ、に認識を修正してからも、購入、そして今回の読破にいたるそれぞれの段階で、ときどきの事情から若干の足踏みを余儀なくさせられた。ようやくここに至れたことを我ながら喜ばしく思う。
第2巻以降、作品は第1巻を読み終えた時点でも予感しなかった膨らみと勢いを見せており、感嘆すること頻りだった。椎名とその担当編集たしろへのインタビュー記事において、「軸がオカルト」ではなく「恋愛の話」であると言明されていたこともあって*14、私は第2巻を読むまで、たとえば学園内にとどまるような狭い人間関係の範囲で話が展開するものだと思っていた。実際には殊に「新章」と謳われた第3巻*15以降適宜新領域を示しつづけることで、キャラクターの固有性への関心を差し引いてすら成立しうる、連載ストーリー漫画としての高度なエンターテインメント性を発揮している*16。インタビュー記事で語られるとおり、椎名が作品を他者に届けるために想像を絶する努力をしていることがうかがわれ、ほとんど信じがたい。
さて、けれども、今考えようとしているのは直接には作品ではなく、そのインタビュー記事のほうについてだ。【担当とわたし】「青野くんに触りたいから死にたい」椎名うみ×担当編集対談<その3> - コミックDAYS-編集部ブログ-で、椎名とたしろは次のように述べている。いわく、椎名は創作にあたって〈描こうとしているものをきちんと描けるか〉とは別に、〈そもそも自分が描こうとしているものに価値はあるのか、この世に必要なものなのか〉という不安を抱えていた。たしろは椎名が後者の不安を抱えていることにしばらく気づかず前者の心配ばかりしていた、と。私は後者の不安について考えたい。必ずしも不安という語、〈価値があってほしい〉という前提を感じさせる語でなくてもいいのかもしれないが、後者の疑問について言葉を接ぎたい。というのも、なぜこんなものを産まねばならないのか──逸って拡張的に言い換えるならきっと、なぜ生きて、私という視座から世界を切り取らされるのか──という問いは私を引き寄せるにもかかわらず、それこそたしろが問題にしていなかったように、なんだか語られることが少なく思われるから。だから椎名がその問いについて語っているのを読んだとき、私は嬉しかったのだ。
「なんだか語られることが少なく思われる」という私の意見に、首をかしげる人もいるかもしれない。この問いは、〈自分の好きなもの、面白いと思うものを他者が好きではないらしいとき、自分の好きなものを創作するのをやめるかどうか〉という形では頻繁に話題にされているのを見かけるからだ。しかし問いをこの形に還元したとき、産み出そうとしているものを少なくとも自分は好きである、少なくとも自分にとっては価値があることは疑われない。
たとえば酒がないと依存症患者は苦しむだろうが、その人にとって酒は価値があるということはためらわれるだろう。
〈他者は他者、自分は自分〉自分にとっての価値を疑わない人間。
作品を世に出すことには責任が伴う。有害と知って散布すべきではない。価値判断の正誤とは別に、当人は価値があると信じていなければならない*17。
まずもちろん、描こうとするものに他者から認められる価値が必要だという椎名の主張は、「漫画家で生活するんだったら」、広くとっても「読んでもら」いたいならば*18、という限定を附したものであって、椎名は「自分のためだけに描」く*19態度を完全に否定しているわけではない。
椎名:そうなんですよね~。でも、そんな私が、この作品に価値があるんじゃないかって肌感覚で信じられるようになったのは、たしろさんが「椎名さんの漫画を信じてるよ」っていうのを何度も何度も伝えてくれたのと、読者の方が熱を持って感想をくださったからですね。そういう言葉が、心の器にたまっていって、ある日あふれたって感じでした。「この物語を書いていいんだ!」って。だからほんとに、周りの人のおかげで「私の作ろうとしている“人間”には価値がある、このまま描き切ろう」って思えるようになったんです。*20
次にその結末部を引用する短文、表現者のために、抽象的なことを|山口尚|noteは、だろう。
じつに、自分の活動をわがことのように「喜んで」くれる鑑賞者が現れてくれば、表現活動はいよいよ「自分だけのもの」ではなくなる。それは、個人的なことに尽きず、自己を超えた何かしらの価値への貢献のベクトルも得るのである。――こうした水準において表現活動に携わるようになると、個別の批判に挫けていられなくなる。
*21
かわいらしい題名……だと読むまえに思っていたものは、実はかなりシリアスな作中設定の逐語訳だ。
端午は私の婚約者だ
「憧子は大きくなったら端午君のお嫁さんになるのよ」
おばばの言葉に
「およめさんになれば おっきくなっても ずうっとたんごとムシとりやたんけんごっこができるゾ しめしめ」7歳だった私はなんの抵抗もなかったのも当然だ
だから婚約者といっても 7歳のおつむには「コンニャクしゃ」程度に響くだけだった
端午が 毎年家族と訪れる日は いつも せみの声で パンクしそうだった*22
リアリティを追求するくらもち作品らしからぬ、語りの〈現在〉を提示しないまま為される俯瞰したナレーションに、微かな違和感を覚える*23。その感知は正しくて、回想が端午の事故死によって突然の幕を降ろすと、後景化していた現在、高校生の憧子が現れる。けれども、過去語りへの埋没に現在地が遅れをとるそのありようが示すとおり、憧子の意識は過去にとらわれている。事故死した端午の存在──〈おばけたんご〉に。
人を過去にとらえるのは後悔と罪悪感だ。「なんの抵抗もなかった」7歳の憧子はその夏、端午と忍び込んだ親の医院で、同い年の陸朗に出会って一目惚れし、察知して焦った端午と仲違いした。そのまま端午が東京へ帰ろうという日、陸朗の乗った車を目にした端午は、そっぽを向いて親にいう。「パパー まえのクルマおいぬいて」*24。そして追突事故が起こり、陸郎の両親と端午は命を落とす。
けれども過去がただ責めて苦しめるだけの存在ならば何ほどのこともない。罪悪感に苦しめられるのは負い目があるからで、負い目があるとはつまり、それが自分に尽くしてくれることを意味する。冷たいだけの存在ならば離れることができる。憧子に過去に埋まりかねない危うさを感じるのは、彼女が端午を恐れているからではなく、端午の優しさを信じ、依存しているからだ。実のところ〈おばけたんご〉の語が作中一度も登場しないことは、化け物としてのネガティブな側面を思い描くには、憧子が端午を今なおあまりに身近な存在として、生きていたときの自分に優しい男の子のままの姿で、隣に据えていることを意味する。
たんごさま てえきわすれちゃったよ たんごさま
たんごさま なんとかしてくれないかな*25
「端午さまお願い」が なんとなくクセになってる
願いが叶うと いつも端午がそばにいるような気がして ホッとするから*26
過去に絡め取られた憧子の傍らにはあまりに自然におばけたんごが存在し、彼女の支えとなっている。支えとしての死者の善性は、死者への負い目をいやましに大きくし、一層彼女に現在を見失わせていく。
歪んでいるかもしれない私の視野に現れる『おばけたんご』は、〈死者の残念にどう向き合うか〉を主題とした作品だ*27。くらもちふさこは21世紀に入ってから少なくとも2作品、『α』第3話と『花に染む』でこの主題を扱っている。
死者にとらわれた人を描く作品は大抵の場合、死者への誤解の解消や、生者との新たな関係の構築による現在の更新を終点に据えるだろう。けれどもくらもちがこの主題を扱った作品には、それとは異質な手触りがある。原因はおそらく、死者に限らず他者とのコミュニケーションについてくらもちがとる姿勢にある。
*28
人はごく当たり前に視野狭窄であるから、完璧にその居場所を得ることはできない。世界は、他人は、主人公が自覚していない場合も含め(自覚していない場合こそ主人公のみっともなさは激しくなる)、主人公にとって理解できない異物であり続ける。だからくらもちの作品では過去や現在との完璧な和解は起こらない。死者にせよ生者にせよ、他者は異物でありコミュニケーションはたいへんである。
しかし生者と死者には一つ異なる点がある。みな視野狭窄で他人には理解できない行動をとる、だからこそ、相手が生者であれば究極的には相手のことは相手自身に任せておけばよい。けれども死者は自分のことを自分でする機会を奪われていて、放っておくと自分の身勝手さが死者を踏みにじってしまうかもしれない。だから自己中心的な主人公は、死者の依り代とされることには強い義務感をもっており、自分ばかりか自分以外の生者も視野狭窄的に犠牲にしながら、残った念に操られ遺志をなぞろうとする*29。
「で、なんのコスプ……」
言いかけの台詞を遮って、クロスレンジに踏み込んでのボディーアッパーが、僕の胃を見舞った。[中略]摩耶花は眼に剣呑な光を宿して、ぼそりと言った。
「カタギさんの前で、その手の用語は使わないで」
コスチュームプレイぐらい、いまどき禁句にすることもないと思うんだけどなあ。
小説『クドリャフカの順番』の作中人物たる高校一年生・摩耶花は、所属する漫画研究会の方針により、文化祭でやむをえず、漫画作品等のキャラクターに扮するいわゆる「コスプレ」をおこなうことになる。事情を知る友人に公道で「コスプレ」の語を出された際の摩耶花の反応が、上の引用部分となる*30。
ここで摩耶花は非オタク一般人のことを「カタギさん」と呼んでいる。これは無論、違法行為を生業とする〈ヤクザ〉と対比して一般人を指す語〈堅気〉のことだろう。「カタギ」という語を選択する摩耶花/作者の言語感覚が可笑しくて印象に残っていたのだが、先日熊代亨「「あの時代」のオタク差別の風景と「脱オタ」について」を読んで、どうやらこの用法が独自のものではなく、ある時期のオタクたちのあいだでは共有されていたらしいことを知った。
世間に向かって「アニメやゲームが趣味です」と表明しにくい時代、マトモな趣味とはみなされない時代は確かにあった。オタクの間で“一般人”“カタギ”といった表現が盛んに使われ、趣味がバレることを“カミングアウト”と呼んで憚った、90年代〜00年代のオタク界隈の空気を、覚えている人は覚えているはずだ。
『クドリャフカの順番』を含む〈古典部〉シリーズの第一作『氷菓』は2001年に刊行された。作中では1967年が33年前と述べられているから舞台設定は2000年、『クドリャフカ』でも舞台は同年だ。また『クドリャフカ』単行本刊行は2005年のことであり、作中設定と別途現実社会が反映されるにしてもこれが下限となる*31。「カタギさん」という言葉にあるいは刻印されていたかもしれないその時代背景を、知らない私は見過ごしていた*32。
言葉にまつわる時代の文脈を知っても知らなくても、二人のやりとりの意味は、表面的には変わるわけではない。摩耶花は自らの漫画趣味を公道で曝すべきではないと考えており、おそらく趣味を同じくしない話し相手の友人は、それをやや時代がかって過剰な羞恥だと感じている。小説本文に書かれてあるとおりだ。けれども「表面的には」と逆らいたくなるのは、事をそこにいる個人の自由選択、二人の感性の差に還元するのがためらわれるからだ。それでは、踏み込みが足りない。
「不完全って、昨日の折木さんの説がですか? 間違っていたんですか」
「わからん。方向が間違っていたのか、踏み込みが足りなかったのか」*33
摩耶花はただ個人的感性にしたがって、自然にこのふるまいを生み出したわけではない。オタクと眼差されオタクと自認したある文化集団に属する者として、そのときそこに流通していた語法を吸収したのだ。吸収した時点で、発生時の含意がどれほどに変質していたかは疑ってしかるべきだろう。摩耶花がその残響と変質にどれほど自覚的だったかも。差異の痛烈な原体験など欠いたまま、差異化の身振りだけを模倣しているに過ぎないのかもしれない。それでも、殊に本作が、自身に切実たりえないものに肉薄するための文章読解に執する〈古典部〉シリーズであってみれば、残響をないとするにはためらいがある。すでに過去に過ぎないことを、きちんと埋葬するためにも、過去を知る必要はある*34。
2012年、〈古典部〉シリーズは「氷菓」としてテレビアニメ化された。アニメでは1967年が45年前とされており、舞台設定は2012年に変更されたことになる。摩耶花はやはり、「カタギさん」のことを口にした。