世界に相手をしてもらえない:ドストエフスキー『二重人格』

【引きつづき過去の書評の転載。一部表記等を修正している。 対象はドストエフスキー、小沼文彦=訳『二重人格』岩波文庫、1954年第1刷・1981年改版。特集企画のテーマ「セカイ系」をかなり曲解して強引に寄稿した(この曲解については真に受けないでほしい…

楠本まき『KISSxxxx』幸せを語ること

──そしていつまでも幸せに暮らしました。 そんな一文で物語が閉じられるのを初めて聞いたのは、いつだったでしょう。あんまり使い古されていまや本来の意味を失いそれ自体パロディ化してしまったような、たとえば太宰治の「古典風」などを想起してしまう文言…

真面目な狂気:宮沢賢治・後篇「グスコーブドリの伝記」ほか

図らずもいましばらくの紙幅が与えられた。ついては、ネネムをめぐって述べたような言葉の魅力とはまた別の面に触れねばならない。たとえば、作品から浮かびあがる思想や人物、いわば〈宮沢賢治〉の読み解きである。 しかし困ってしまう。私には〈宮沢賢治〉…

魔術的な言葉の自律と強度:宮沢賢治・前篇「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」

個人的な思い出を述べれば、宮沢賢治はおそらく、私が名前を覚え、〈この人の本だから手にとって読む〉ことをした最初の作家だった。そして、読書とは目の前に異物として存在する言葉にとらわれそれを(作者の思惑など関係なく)味わい尽くす営みなのだ、と…

真理から剥離する表層:三島芳治『レストー夫人』におけるフキダシ

【三島芳治『レストー夫人』から、表題作および併録短篇「七不思議ジェネレーター」の展開の重要部分を明かしているので、未読の方は注意してほしい。 前々回につづいて以前ブログとは別に書いた文章の転用で、元は学校の授業で課された小論文だった。最近ま…

ブログの更新頻度について

結論からいうと、つぎにこのブログに新規記事を投稿するのがいつになるか、よく分からない。 もっとも、記事投稿はこれまでも不定期だったから、その意味では変化はない。ただ、いま前回投稿からの経過日数がすでに最長に達しており、しかもなおしばらく投稿…

レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』愛の自家中毒

【以前の「眼と首」につづいて、昔書いた、悪くないと思っている文章をブログに転用する。もっとも、まったく契機なく書いて事実世に出ていなかった前回の随筆と異なり、こちらは一度曲がりなりにも公表したことのある書評だ。書評には860字という制約があっ…

西岡兄妹『花屋の娘』そのうえなぜ言葉などに

『花屋の娘』は絵本だ。作者の西岡兄妹は雑誌『ガロ』系統の漫画家として知られるが、それら漫画については私はうまく読めずに、ただ本書だけを手元に置いている。 一応、以下では本書の展開をすべて明かしていることを、あらかじめ記しておく。 あるところ…

憲法制定権力

私はいわゆる文学が好きなつもりで、つまり言葉を好んでいるので、当然法というものにも好意を寄せている。 という一文は、さすがに説明が足りないのだろう。法は、掟といってもよいが、ある社会のなかで共有されている、守られるべきルールだ*1。同じくルー…

無題

昨日投稿した記事はどうもあまり良くなかったのではないかという気分が体のうちに溜まっている。 もともとしっくり来てはいなかったのだが、書けそうだったのでまあ書こうと思って書いて投稿したのである。私は元来活力がないので、通常迷うと行動しない、世…

土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』

土井隆義『キャラ化する/される子どもたち──排除型社会における新たな人間像』を読んだ。2009年に出た、たった63頁の本だ。2016年には大学入試センター試験の国語第1問に出題されている。 通っていた学校の図書室で教員の推薦図書として面陳列されており、…

『星の王子さま』

今日記事を投稿しないと今月記事を投稿しなかったことになる。せっかくなので急いで書く。日付のような恣意的な数字に左右されるのはよくないことのような気がするけれど、一方で、そういう表層的なところで左右されてしまうのはある意味私好みなのではない…

他人に伝わるように言葉を使いたい

言葉を使えている気がしない。もっとまともに言葉を使えるようになりたい。 前回はとうとうこのブログの記事ではじめて字数が1万字を超えたらしい。注釈も21もついている。これら事象の中心にあるのはやはり引用の多さだろう。 前回の記事は一面では、なぜ…

「籠釣瓶はよく斬れるナァ」:それから『クズの本懐』とエアプのことなど

『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』という歌舞伎の演目があって、その劇中に出てくるらしい表題の台詞が好きなのだけど、実は「らしい」と書いたとおり私はこの台詞を聞いたことがない。歌舞伎自体数えるほどしか触れておらずこの演目も観たこ…

眼と首

【一年以上前に書いたまま手元にとどめていたものを蔵出ししてきた。ブログ記事として書いたものではない(具体的にいうならたとえば、縦書き表示を想定して書いていた)ので、やや読みにくいかもしれない。注釈もないので一つだけ附言しておくと、最後から…

エドガー・ポー「Hop-Frog」坂口安吾も添えて

最近創元推理文庫のポオ小説全集を、通読とはいかないが、歯抜けや順序の前後がありながらもおおむね読み進める機会があった。そこで「Hop-Frog」、この題名は主人公のあだ名でもあって永川玲二による当翻訳では「跳び蛙」と訳されているけれど、そういう題…

夏瘦せに拍車かけつつ(川野芽生)

夏瘦せに拍車かけつつ軀とはたましひの石切場 足らふな 歌集『Lilith』、連作「灼くべき羅馬」中の一首だ*1。歌全体への評というには余談めくけれど、この歌における「拍車」という語への命のあたえかたが好きなので、記しておく。 〈拍車をかける〉とは慣用…

短信

以下の文章は読む人によっては不快かもしれない。いや、それをいうならこのブログの他の記事だって大概不快なのではないか。この記事に警告をおくことの正当な根拠はなく、けれども私は警告をおく。 以前の記事で「私は[中略]まだ人が亡くなったことで激し…

追記:性的と官能的

「アロマンティック/アセクシュアル・スペクトラム調査2020」なるものを紹介する、松岡宗嗣による次のYahoo!ニュース掲載記事を目にした。 これを読んだあとで、いままでよく分かっていなかった性的指向と性的嗜好の違いについて、当ブログの前回記事に書き…

動物や言葉のこと

今日の記事は短いメモである。 当ブログのタイトルとも関連する話だが、おそらく私は自分を人間ではないように感じたことがない。以前先達に好きな動物を聞かれて「なんだろう、人間」と答えたことがあった(ちなみにその人の答えはオオサンショウウオあたり…

花ももみぢも思ひ描けず:形式、それから朗読速度

藤原定家に〈見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ〉という短歌があって、よく〈「花ももみぢも」と言われた段階で読者はそれらをイメージし、「なかりけり」と否定されてもイメージは残ってしまう。その残り香を味わう歌である〉と評さ…

信用できない

信用できない、進行できない、使用できない、私用で畿内。修行できない、士業で期待、歯垢で奇態、し尿で着ない。親王敵な、伺候できない、始皇帝くらい近うて昏い。引用できないしんにょう的な、産業的な、陰陽的な。穏当(木偶な)、本当(急くな)、応答…

追記:唯我的敬虔断想

前回の記事で私が疑念を呈した自身の嗜癖についてもう少し*1。 たとえば数人で旅行にでて訪れた寺院の、それなりに人もありけばけばしいのにある時点で無人の室内灯もない部屋にひとり立つことになり、己の呼吸を意識しながら心のなかで手をあわせることにな…

音は静寂を聞くために

2018年3月16日に動画サイトYouTubeに投稿されてからなぜかまだ260回しか再生されておらずCDにも収録されていないと思われる傑作、書上奈朋子「0315」*1を聴くなどしているうちに、Chouchou「O come, O come, Emmanuel」にたどりつく。はじめて聞いたけれどと…

あいみょん「マリーゴールド」視点人物と歌手のジェンダー

まずは自分語り あいみょんの歌「マリーゴールド」を私がちゃんと聴いたのは2019年夏のことだったと思う。いま調べたら2018年にこの歌は、毎年末に放送される国民的歌番組である「NHK紅白歌合戦」において歌唱されていたそうで、それからすでに半年も経って…

『かぐや姫の物語』歌の記憶について

前回の記事を書いたあとで、高畑勲監督による2013年公開*1のアニメ映画『かぐや姫の物語』のことを思い出していた。この映画については一つ、大筋には関係ないが奇妙な点が印象に残っていたのだ。 竹取物語を翻案したこの映画では、一つの歌の記憶が語られる…

本当は手紙ではなく

前回の記事で私は、文章をインターネット上に公開することを、「不特定の他者に読まれる可能性を確保する」行為だと述べた。また、このブログの文章はなにより私自身のために書かれるとも述べた。 文章や作品を不特定の他者にむけて発信する行為は、とりわけ…

当ブログの開設経緯

ブログを開設することにした。当記事は、このブログの最初の記事となる。 なぜ開設するかといえば、自身の思考をアウトプットしたくなったからだ。 私は日々、多少のことを心に思い浮かべる。けれど、記憶力がいいほうではないので、文章として記録しないと…